いまから78年前の1944(昭和19)年4月に、内城小学校への入学式を迎えた現在84歳の叔母の記憶です。
当時は第二次世界大戦の真っただ中、翌年の1945(昭和20)年3月26日からは沖縄諸島に上陸した米軍と英軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で激戦が起こる直前の頃です。
沖永良部島でも空襲が随分激しくなっていたようで、空襲警報も頻繁に発令され島民は不安な日常を送っていたそうです。
そんな日々の中で、宗家の分家である屋号:上花城の三女であった叔母は、小学校の入学式を迎えます。
入学式は本来であれば学校で行われるのですが、空襲が激化していて危険であったため、近所の山に学校から椅子を運び、その山の中で入学式が行われたのだそうです。
小学生の子供の数も今よりはもっともっと多かったそうです。
その入学式が行われた場所はこちらです。昭和22年の写真で、ちょうど叔母が
入学式を迎えた頃の付近の様子です。
現在も道路の場所は変わっていませんが、入学式があった山は現在は宅地や畑となって平地になっています。
入学後の話としては、島の食料事情もあまり良くなかったようで、お昼にお弁当を持参出来ない日もあり、昼ごはんの時間にはサツマイモを1つだけ持参であったり、何も持参できない日は学校の近所であった自宅に帰ったりしてお腹を空かせたまま過ごしていたこともあったそうです。
教科書なども新品は購入できないので、お古をもらって使ったりと新品などは一度も使ったことがなかった。
両親が畑仕事で忙しい時期には、学校に自分より下の幼い妹や弟を背中に背負って登校する日もあり、周りもみんな同じ状況であったそうです。
この頃の島での生活は裸足です。靴を初めて履いたのは、昭和28年に島を出て本土に引っ越すときでした。慣れない靴を履くのが少し苦手で、始めはあまり好きではなかったそうです。
戦争は小さな島にも様々な影響があったようです。今回は叔母の小学校時代の貴重な思い出話としての記録でした。