先祖調査のための歴史研究に大いに役立っている1冊「沖永良部島郷土史資料:昭和43年発行(初版31年)」です。昭和時代に書かれた資料本ですが、文体が古く現代文にしか慣れていない私には、読み進めていくには少々難解なところがあります。それでも漢字の意味合いを考えながら、何となく理解していっています。そう考えると、漢字って凄いですよね。
さてその郷土史資料の中に、明治12年6月付けで島民に通達された「沖永良部島諸事改正令達摘要録」という項目がありました。明治政府になってから島にも薩摩藩の管轄時代と違って、本土に合わせた諸事のルールが通達されたようです。
学校のこと、葬儀のこと、徴兵制度のこと、戸籍のこと、郵便のこと、道路工事のことなど項目は様々ですが、ある項目に目が留まりました。
これはどういう意味でしょうか?
なんと島には長男を分家させる風習がどうもあったようです。
実は私はずっと疑問に思っていたことがありました。当家:屋号 上花城は、1600年代に長男であるのに分家していたんです。当時男子が5人いたのですが、親族のところに養子にいったり分家したりして、本家として後を継いだのは5男でした。
お爺様の書によると、兄弟が多かったから結婚して分家したとなっています。確かに男子5人、女子も3人いましたので両親や祖父母あたりも同居となると大家族だったのでしょう。しかし、日本式の長男制度を考えると家族が多いって理由だけで長男が分家していることが、私的にはちょっと信じられない感じがしていたのです。何か特別な事情でもあったのかなってね。
だけど、それは特別ではなかったようです。だって長男は分家する風習があったのですからね。
実際に長男であっても養子になったご先祖様もいますので、長男に対する認識が本土とは随分と違っていたのかもしれませんね。
現代においても、もう長男だから家を継ぐという感覚は随分と薄れてきていると思います。ある意味、それは兄弟を平等に扱っていることに繋がるのだと思います。継ぎたい意思があって継げる環境にある人が家を継いでいく。
それを沖永良部島では江戸時代からやっていたのです。もしかしたら江戸時代よりもっと前からなのかもしれませんね。
明治期初期まであった「長男分家風習」、また何か詳しいことが分かれば追記したいと思います。
当家のご先祖様が分家した理由が分かって、ちょっとすっきりしました。