東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
「この人、完全におかしいよ」って夫が曽野綾子さんのこと
を貶していますが、そんなにひどいのかしら・・・・・・
曽野綾子氏の教育改革国民会議提出のレポートに対する当方のこ
の批判は曽野氏のレポートのまだ1/6程度に過ぎない段階で早くもパ
ート3となった。いくらも進んでいないのに書く材料が多いというのは
ブロガーにとってはありがたいことだ。
さて、いよいよ2ページ目の後半に早くも曽野綾子氏の「安心病節」
の原型が出てくる。「ほんの一例ですが、政治家も公務員も『国民の
皆さんが安心して暮らせる社会』などというものを約束 して平気でし
た。今回の選挙でも津々浦々で、立候補者がこの手の見え透いた嘘
の表現をつき続けていることでしょう。しかし現世には、安心して暮ら
せる場所も時間もどこにもありません。そういうものをあ ると信じ、
要求し、約束する人々の精神からは、真の教育は生まれるわけ
がありません」
この部分のフレーズは東日本大震災以降、曽野氏は機会あるごとに
使っているが、10年以上前から言い続けているとは知らなかった。
曽野氏の頑迷さには感服する。先の当ブログ
「東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の『税と安心』」
「東日本大震災 曾野綾子氏の論理的破綻?」
でも指摘している通り「ご自身がうつ病克服の過程で経験した不
安の概念という哲学的な視点と庶民の物理的な不安定の状況
からくる『安心』への希求」を同一視もしくは混同した言説である。
曾野綾子氏のこの言説の原型と思われる言葉がヘレンケラーの言
葉の中にあった。
○夢を追い求めよう(Go After Your Dreams)
「人生とは恐れを知らぬ冒険であるか、あるいは単なる虚無でしか
ない。いわゆる安全と言われているものの多くは迷信でしかなく、
自然には存在しないもの。長い目で見た場合、リスクを避けること
はリスクに挑むことよりも安全とは言い切れない。
「安全」を「安心」に置き換えると曾野氏の言説に似た言葉になる。
曽野氏はひょっとするとヘレンケラーのこの言葉に触発されたので
はないか。しかし、ヘレンケラーのこの言葉は「夢を追い求めよう」
のタイトルのごとく「夢」を実現するためには「安全など無視した
恐れを知らぬ冒険が必要である。『安全』に頼ることなくリスクに
挑むことが大切だ」とヘレンケラーは言ったのだろう。それを曾野綾
子氏は「安全と言われているものの多くは迷信でしかなく、自然には
存在しないもの」という部分にのみ反応したのではないか。これが
曽野氏が確信的にこの言説を繰り返している根拠ではないのかと思
われる。しかし、今回の「そういうものをあ ると信じ、要求し、約束す
る人々の精神からは、真の教育は生まれるわけがありません」とい
う記述は教育改革国民会議の委員に任命されたことへの気負いを感
じさせるが教育に関する知見も持ち合わせていない曽野氏が「真の
教育とは何か」と逆に問われると、おそらくしどろもどろであろう。
「真の教育は生まれるわけがありません」と言っても「現世には、安
心して暮らせる場所も時間もどこにもありません」というニヒリスチッ
クな言説を唱えていては教育などできるわけがない。スイスが生
んだ世界的な教育者で「民衆教育の父」と謳われたぺスタロッチは
貧困家庭の子供や孤児に「自立・自活」の教育を施したと言われて
いる。文字を覚えさせ聖書を読めるようにする学習よりも職業訓練
に近かったもののようだ。子供の「学習」にはとりわけ「動機付け」
が大切で、ペスタロッチもまた子供には「将来、安心して暮せる環
境」を目指すことを自覚させることから始めたに違いない。そして子
供が自活できるように、ひたすら励まし続けたに違いないのだ。これ
が教育なのだ。「安心できる生活や安心できる社会」への「夢」なくし
て教育はない。何を糧に、何を拠りどころにという説明がなければ教
育は成り立たない。曽野氏の場合は「聖書」を拠りどころにと仰りたい
だろうが、曾野氏の欺瞞体質が明らかになっている以上、曾野氏の
この種の言辞は実に空虚なものだ。ほとんど白痴の領域。そしてそ
れは次の言説も同様だ。
「マスコミと同じように教育者たちもまた多くの嘘を排除しません
でした。その一つは、人間が平等であ るという理想を現実と混同し
たことです。もちろん私たちは、誰もが、同じ程度に衣食も足り、最
低限人 間らしい家に住み、教育と医療を受けられ、思想、信仰、表
現、移動の自由を保証され、職業と結婚の選 択の可能な社会を望
むことに変わりはありません。しかし世界の現実は、そのような理想
とは、はるかに かけ離れた状況にあります」
読むほどにため息が出るというか、嘆かわしいばかりだ。「職業作家」
で「文化功労者」が「人間が平等であ るという理想を現実と混同し
たことです」なんて、恥ずかしげもなく良く書けるな。「人間が平等であ
る」というのは「理想」だったらどうなるのか?不平等を根拠にした法廷
闘争もなにもできなくなるということだよ。なにを戯けたことを!平
等というのは正に憲法の条文によって定められた現実そのものな
のだ。まず平等を謳った憲法第14条の条文を読むがいい。
「1.すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係
において、差別されない。
2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄
典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限
り、その効力を有する。」
「法の下」ということは現実だということだ。また、平等の概念につ
いて調べてみると憲法条文の注釈に下記のような記述がある。
「平等の概念 相対的平等と絶対的平等
絶対的平等
個々の条件にかかわらず機械的に均等に扱う。
相対的平等
同一条件のもとにおいて均等に扱う。
形式的平等と実質的平等 [編集]形式的平等(機会平等主義)
すべての国民に対して経済活動等の行為の機会を平等に与えよう
とする機会の平等を意味する。
実質的平等(結果平等主義)
すべての国民の経済活動等の行為の結果を平等にしていこうとす
る結果の平等を意味する」
更に平等の意義と平等権について
「平等」の意義
憲法上の「平等」という文言は、近代法の大原則である個人間の
平等を保障したもので、基本的には形式的平等(機会平等主義)
を意味すると考えられている。実質的平等の観点については日本
国憲法25条以下の社会権によるべきで、14条ではそれによる格差
是正のための措置が一定程度まで受容されているにすぎないとみ
る。ただし、現実に存在する不平等を解消するためには形式的平
等を謳うのみでは不十分で実質的平等の観点についても14条で考
慮すべきとする有力な見解もある。
「平等権」
法の下の平等には平等原則だけでなく平等を権利として主張す
ること(平等権)も保障する趣旨なのか問題になるが、平等権と
して権利性を認めるのが通説であり、判例もそれを認めている。
以上の記事で「平等」がいかに現実的な概念であるか理解できる
はずだ。にもかかわらず「マスコミと同じように教育者たちも
また多くの嘘を排除しませんでした」あ~ぁ曽野氏の記述はあま
りにも病的すぎる。余分なことを考えざるをえない。うつ病等の
精神疾患は罹患者の論理的思考を妨げるのか?曾野氏の病状の深
刻さに胸が痛むほどだ。ただ曾野氏の病状に拘ると話は頓挫して
しまうので、これ以上の言及は避けたい。話を続行しよう。つま
り曽野氏は「人間が平等であるという理想」の論拠をアフリカの
現況に求めている。曰く「全地球上の人口の約3分の1が未だに電
気の恩恵を受けていない、と言われていますが、電気と民主主義
とは不可分の関係にあります。電気のないところでは、民主主
義は成立しません。誰かの政治的理念 を、同等に、正確に、素
早く、住民が聞く手段がないからです。また選挙を素早く集計する
方法もありま せん。したがってそのような土地では、今でも族長支
配的な政治形態を採ることになります。」なんという「狂気」。
東日本大震災後にも同じ記述をしたり発言しているため、多くの
人たちの怒りを買っている。以下、その部分に関する2CHの曾野
綾子板のレスの告発はこうだ。
東日本大震災 曽野綾子氏へのおもしろ批判選集・追補あり
○まぁ天変地異が起き異常が持続する世の中になると鬼面人を脅すよ
うな言説を弄する「異常人間」が跋扈するようになる。彼女もその類
だ。曽野綾子「電気が消えた時点で、民主主義というものは停止する
んです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。」
何を言いたいのかわからん! 理解不能なことをおっしゃる。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。
これらのレスポンスを寄せた人たちが10年以上前にも曽野氏が同じこ
とを記述していたことを知ったら、開いた口が塞がらないだろう。当
方も唖然という状態を通り過ぎて哀しみ似た感情に支配されている。
続けよう・・・・。
「電気と民主主義が不可分の関係」?どういうことか?フランス革命
(1789-99)の時は電気はなかったのだぞ。ウィキペディアでは
「フランス革命により、王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊、
封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立した。フランス革命
が生んだ理念(自由・平等・友愛)と諸制度は、現代社会にも多大
な影響を残している。」としている。
1797年にガス灯が出来た。電気はそれから遅れること約80年。
グラハム・ベルが電話を発明したのが1876年、エジソンが電灯を発
明したのが1879年。曾野氏の言を借りるとフランス革命後のヨーロ
ッパやアメリカ大陸では電気が出来るまでの80年間は「族長社会」
だったのか?
「誰かの政治的理念 を、同等に、正確に、素早く、住民が聞く手
段がないからです。また選挙を素早く集計する方法もありま せん」
どうしたらこんな馬鹿げたことを記述できるのか不思議だ。電気が
なければ選挙も出来ないから民主主義もないどうして調べ
もしないでアフリカだけを見て自分勝手に思い込んで記述するのか?
永世中立国スイスは電気が出来る以前の1848年に「半直接民
主制」を制定した憲法を発布している。曽野氏は調べもしないで
なにを言うかッ。もう論評する気力さえなくなりそうだ。曽野氏を支
配する「狂気」とは何か。テーマを変えて、それを論点にしたほうが
良いのではないか。こんな視野狭窄が許されて良いのか?
「平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ可能な
観念で、日本人は簡単に平和を口にし、「皆が平和を望めば平和
になる」などと大人でさえ信じていますが、アフリカの国の中には部
族抗争が続 き、もう数10年間、平和というものを見たことがない、
という人たちもたくさんいるのです。平和を見 たことがないのです
から、平和とはいかなるものかを想像することもできません。しか
もそういう人たち の平均寿命が20歳代の後半か或いは30歳代
で、それ以上生きることは僥倖という国があるという衝撃 的な事
実は、つい先頃発表された統計で明らかになりました。」
何が「平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ
可能な観念」だッ。世界には後進国でも平和な国はたくさん
ある。GDP世界161番目の最貧国ブータンもその一つ。曾野氏の記述
は、それらの国に対する礼を失している。昨年の11月にブータン国
王ご夫妻が来日して、一躍注目を浴びたのがブータン国の「国民総幸
福量(GNH)という概念だ。先代の国王が国の基本理念として採用し
たもののようだ。
1960年代から進んだブータン国の開発・研究(第1-2次五カ年計画)
により、幸福こそ人のそして国家の究極の目標とし、ワンチュク国王
が1972年にその概念を生み出した。4つの大きな柱からなるこの国民
総幸福量、いわゆる幸せの指標、GNH(Gross National Happiness)によ
り、「世界一幸せな国ブータン」として、特に、GDP/GNP増加を主眼と
している先進国から今、注目されている。日本も、その成り立ちから、
経済援助などを通じ、ブータンのGNH発現と実現に大きな貢献をしてい
る。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、
その最先端の概念の理解と導入への取り組みがみられる。」
日本などの「先進国」がブータン国の国民の幸福「平和」について学
び始めている。曽野氏は海外となると「族長社会のアフリカ」しか見
ていないのか?こうなると全く調査もせずに教育改革国民会議にレポ
ートを提出した曾野綾子氏を委員に推薦した文科省の官僚たちのレ
ベルの低下は目を覆うばかりということになる。
あ~ぁ1ページも読み勧めていないのに引用の多さもあって7300字を
超えてしまった。このシリーズで、しばらく「めし」が喰えそうだ。
曽野綾子氏よ
論理性を持ち合わせていない
「文化功労者」が当方と同レベルなので
身近に感じられてきた。
これからは
曽野ちゃん、綾子ちゃんと呼びたい。
よろしく・・・・・・・・だそうです。
■埼玉不動産仲介手数料最大無料メディアエステート
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
「この人、完全におかしいよ」って夫が曽野綾子さんのこと
を貶していますが、そんなにひどいのかしら・・・・・・
曽野綾子氏の教育改革国民会議提出のレポートに対する当方のこ
の批判は曽野氏のレポートのまだ1/6程度に過ぎない段階で早くもパ
ート3となった。いくらも進んでいないのに書く材料が多いというのは
ブロガーにとってはありがたいことだ。
さて、いよいよ2ページ目の後半に早くも曽野綾子氏の「安心病節」
の原型が出てくる。「ほんの一例ですが、政治家も公務員も『国民の
皆さんが安心して暮らせる社会』などというものを約束 して平気でし
た。今回の選挙でも津々浦々で、立候補者がこの手の見え透いた嘘
の表現をつき続けていることでしょう。しかし現世には、安心して暮ら
せる場所も時間もどこにもありません。そういうものをあ ると信じ、
要求し、約束する人々の精神からは、真の教育は生まれるわけ
がありません」
この部分のフレーズは東日本大震災以降、曽野氏は機会あるごとに
使っているが、10年以上前から言い続けているとは知らなかった。
曽野氏の頑迷さには感服する。先の当ブログ
「東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の『税と安心』」
「東日本大震災 曾野綾子氏の論理的破綻?」
でも指摘している通り「ご自身がうつ病克服の過程で経験した不
安の概念という哲学的な視点と庶民の物理的な不安定の状況
からくる『安心』への希求」を同一視もしくは混同した言説である。
曾野綾子氏のこの言説の原型と思われる言葉がヘレンケラーの言
葉の中にあった。
○夢を追い求めよう(Go After Your Dreams)
「人生とは恐れを知らぬ冒険であるか、あるいは単なる虚無でしか
ない。いわゆる安全と言われているものの多くは迷信でしかなく、
自然には存在しないもの。長い目で見た場合、リスクを避けること
はリスクに挑むことよりも安全とは言い切れない。
「安全」を「安心」に置き換えると曾野氏の言説に似た言葉になる。
曽野氏はひょっとするとヘレンケラーのこの言葉に触発されたので
はないか。しかし、ヘレンケラーのこの言葉は「夢を追い求めよう」
のタイトルのごとく「夢」を実現するためには「安全など無視した
恐れを知らぬ冒険が必要である。『安全』に頼ることなくリスクに
挑むことが大切だ」とヘレンケラーは言ったのだろう。それを曾野綾
子氏は「安全と言われているものの多くは迷信でしかなく、自然には
存在しないもの」という部分にのみ反応したのではないか。これが
曽野氏が確信的にこの言説を繰り返している根拠ではないのかと思
われる。しかし、今回の「そういうものをあ ると信じ、要求し、約束す
る人々の精神からは、真の教育は生まれるわけがありません」とい
う記述は教育改革国民会議の委員に任命されたことへの気負いを感
じさせるが教育に関する知見も持ち合わせていない曽野氏が「真の
教育とは何か」と逆に問われると、おそらくしどろもどろであろう。
「真の教育は生まれるわけがありません」と言っても「現世には、安
心して暮らせる場所も時間もどこにもありません」というニヒリスチッ
クな言説を唱えていては教育などできるわけがない。スイスが生
んだ世界的な教育者で「民衆教育の父」と謳われたぺスタロッチは
貧困家庭の子供や孤児に「自立・自活」の教育を施したと言われて
いる。文字を覚えさせ聖書を読めるようにする学習よりも職業訓練
に近かったもののようだ。子供の「学習」にはとりわけ「動機付け」
が大切で、ペスタロッチもまた子供には「将来、安心して暮せる環
境」を目指すことを自覚させることから始めたに違いない。そして子
供が自活できるように、ひたすら励まし続けたに違いないのだ。これ
が教育なのだ。「安心できる生活や安心できる社会」への「夢」なくし
て教育はない。何を糧に、何を拠りどころにという説明がなければ教
育は成り立たない。曽野氏の場合は「聖書」を拠りどころにと仰りたい
だろうが、曾野氏の欺瞞体質が明らかになっている以上、曾野氏の
この種の言辞は実に空虚なものだ。ほとんど白痴の領域。そしてそ
れは次の言説も同様だ。
「マスコミと同じように教育者たちもまた多くの嘘を排除しません
でした。その一つは、人間が平等であ るという理想を現実と混同し
たことです。もちろん私たちは、誰もが、同じ程度に衣食も足り、最
低限人 間らしい家に住み、教育と医療を受けられ、思想、信仰、表
現、移動の自由を保証され、職業と結婚の選 択の可能な社会を望
むことに変わりはありません。しかし世界の現実は、そのような理想
とは、はるかに かけ離れた状況にあります」
読むほどにため息が出るというか、嘆かわしいばかりだ。「職業作家」
で「文化功労者」が「人間が平等であ るという理想を現実と混同し
たことです」なんて、恥ずかしげもなく良く書けるな。「人間が平等であ
る」というのは「理想」だったらどうなるのか?不平等を根拠にした法廷
闘争もなにもできなくなるということだよ。なにを戯けたことを!平
等というのは正に憲法の条文によって定められた現実そのものな
のだ。まず平等を謳った憲法第14条の条文を読むがいい。
「1.すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係
において、差別されない。
2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄
典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限
り、その効力を有する。」
「法の下」ということは現実だということだ。また、平等の概念につ
いて調べてみると憲法条文の注釈に下記のような記述がある。
「平等の概念 相対的平等と絶対的平等
絶対的平等
個々の条件にかかわらず機械的に均等に扱う。
相対的平等
同一条件のもとにおいて均等に扱う。
形式的平等と実質的平等 [編集]形式的平等(機会平等主義)
すべての国民に対して経済活動等の行為の機会を平等に与えよう
とする機会の平等を意味する。
実質的平等(結果平等主義)
すべての国民の経済活動等の行為の結果を平等にしていこうとす
る結果の平等を意味する」
更に平等の意義と平等権について
「平等」の意義
憲法上の「平等」という文言は、近代法の大原則である個人間の
平等を保障したもので、基本的には形式的平等(機会平等主義)
を意味すると考えられている。実質的平等の観点については日本
国憲法25条以下の社会権によるべきで、14条ではそれによる格差
是正のための措置が一定程度まで受容されているにすぎないとみ
る。ただし、現実に存在する不平等を解消するためには形式的平
等を謳うのみでは不十分で実質的平等の観点についても14条で考
慮すべきとする有力な見解もある。
「平等権」
法の下の平等には平等原則だけでなく平等を権利として主張す
ること(平等権)も保障する趣旨なのか問題になるが、平等権と
して権利性を認めるのが通説であり、判例もそれを認めている。
以上の記事で「平等」がいかに現実的な概念であるか理解できる
はずだ。にもかかわらず「マスコミと同じように教育者たちも
また多くの嘘を排除しませんでした」あ~ぁ曽野氏の記述はあま
りにも病的すぎる。余分なことを考えざるをえない。うつ病等の
精神疾患は罹患者の論理的思考を妨げるのか?曾野氏の病状の深
刻さに胸が痛むほどだ。ただ曾野氏の病状に拘ると話は頓挫して
しまうので、これ以上の言及は避けたい。話を続行しよう。つま
り曽野氏は「人間が平等であるという理想」の論拠をアフリカの
現況に求めている。曰く「全地球上の人口の約3分の1が未だに電
気の恩恵を受けていない、と言われていますが、電気と民主主義
とは不可分の関係にあります。電気のないところでは、民主主
義は成立しません。誰かの政治的理念 を、同等に、正確に、素
早く、住民が聞く手段がないからです。また選挙を素早く集計する
方法もありま せん。したがってそのような土地では、今でも族長支
配的な政治形態を採ることになります。」なんという「狂気」。
東日本大震災後にも同じ記述をしたり発言しているため、多くの
人たちの怒りを買っている。以下、その部分に関する2CHの曾野
綾子板のレスの告発はこうだ。
東日本大震災 曽野綾子氏へのおもしろ批判選集・追補あり
○まぁ天変地異が起き異常が持続する世の中になると鬼面人を脅すよ
うな言説を弄する「異常人間」が跋扈するようになる。彼女もその類
だ。曽野綾子「電気が消えた時点で、民主主義というものは停止する
んです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。」
何を言いたいのかわからん! 理解不能なことをおっしゃる。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。
これらのレスポンスを寄せた人たちが10年以上前にも曽野氏が同じこ
とを記述していたことを知ったら、開いた口が塞がらないだろう。当
方も唖然という状態を通り過ぎて哀しみ似た感情に支配されている。
続けよう・・・・。
「電気と民主主義が不可分の関係」?どういうことか?フランス革命
(1789-99)の時は電気はなかったのだぞ。ウィキペディアでは
「フランス革命により、王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊、
封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立した。フランス革命
が生んだ理念(自由・平等・友愛)と諸制度は、現代社会にも多大
な影響を残している。」としている。
1797年にガス灯が出来た。電気はそれから遅れること約80年。
グラハム・ベルが電話を発明したのが1876年、エジソンが電灯を発
明したのが1879年。曾野氏の言を借りるとフランス革命後のヨーロ
ッパやアメリカ大陸では電気が出来るまでの80年間は「族長社会」
だったのか?
「誰かの政治的理念 を、同等に、正確に、素早く、住民が聞く手
段がないからです。また選挙を素早く集計する方法もありま せん」
どうしたらこんな馬鹿げたことを記述できるのか不思議だ。電気が
なければ選挙も出来ないから民主主義もないどうして調べ
もしないでアフリカだけを見て自分勝手に思い込んで記述するのか?
永世中立国スイスは電気が出来る以前の1848年に「半直接民
主制」を制定した憲法を発布している。曽野氏は調べもしないで
なにを言うかッ。もう論評する気力さえなくなりそうだ。曽野氏を支
配する「狂気」とは何か。テーマを変えて、それを論点にしたほうが
良いのではないか。こんな視野狭窄が許されて良いのか?
「平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ可能な
観念で、日本人は簡単に平和を口にし、「皆が平和を望めば平和
になる」などと大人でさえ信じていますが、アフリカの国の中には部
族抗争が続 き、もう数10年間、平和というものを見たことがない、
という人たちもたくさんいるのです。平和を見 たことがないのです
から、平和とはいかなるものかを想像することもできません。しか
もそういう人たち の平均寿命が20歳代の後半か或いは30歳代
で、それ以上生きることは僥倖という国があるという衝撃 的な事
実は、つい先頃発表された統計で明らかになりました。」
何が「平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ
可能な観念」だッ。世界には後進国でも平和な国はたくさん
ある。GDP世界161番目の最貧国ブータンもその一つ。曾野氏の記述
は、それらの国に対する礼を失している。昨年の11月にブータン国
王ご夫妻が来日して、一躍注目を浴びたのがブータン国の「国民総幸
福量(GNH)という概念だ。先代の国王が国の基本理念として採用し
たもののようだ。
1960年代から進んだブータン国の開発・研究(第1-2次五カ年計画)
により、幸福こそ人のそして国家の究極の目標とし、ワンチュク国王
が1972年にその概念を生み出した。4つの大きな柱からなるこの国民
総幸福量、いわゆる幸せの指標、GNH(Gross National Happiness)によ
り、「世界一幸せな国ブータン」として、特に、GDP/GNP増加を主眼と
している先進国から今、注目されている。日本も、その成り立ちから、
経済援助などを通じ、ブータンのGNH発現と実現に大きな貢献をしてい
る。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、
その最先端の概念の理解と導入への取り組みがみられる。」
日本などの「先進国」がブータン国の国民の幸福「平和」について学
び始めている。曽野氏は海外となると「族長社会のアフリカ」しか見
ていないのか?こうなると全く調査もせずに教育改革国民会議にレポ
ートを提出した曾野綾子氏を委員に推薦した文科省の官僚たちのレ
ベルの低下は目を覆うばかりということになる。
あ~ぁ1ページも読み勧めていないのに引用の多さもあって7300字を
超えてしまった。このシリーズで、しばらく「めし」が喰えそうだ。
曽野綾子氏よ
論理性を持ち合わせていない
「文化功労者」が当方と同レベルなので
身近に感じられてきた。
これからは
曽野ちゃん、綾子ちゃんと呼びたい。
よろしく・・・・・・・・だそうです。
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