非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3

2012-06-22 11:27:15 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
「この人、完全におかしいよ」って夫が曽野綾子さんのこと
を貶していますが、そんなにひどいのかしら・・・・・・

 曽野綾子氏の教育改革国民会議提出のレポートに対する当方のこ
の批判は曽野氏のレポートのまだ1/6程度に過ぎない段階で早くもパ
ート3となった。いくらも進んでいないのに書く材料が多いというのは
ブロガーにとってはありがたいことだ。
 さて、いよいよ2ページ目の後半に早くも曽野綾子氏の「安心病節
の原型が出てくる。「ほんの一例ですが、政治家も公務員も『国民の
皆さんが安心して暮らせる社会』などというものを約束 して平気でし
た。今回の選挙でも津々浦々で、立候補者がこの手の見え透いた嘘
の表現
をつき続けていることでしょう。しかし現世には、安心して暮ら
せる場所も時間もどこにもありません。そういうものをあ ると信じ、
要求し、約束する人々の精神からは、真の教育は生まれるわけ
がありません

この部分のフレーズは東日本大震災以降、曽野氏は機会あるごとに
使っているが、10年以上前から言い続けているとは知らなかった。
曽野氏の頑迷さには感服する。先の当ブログ
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の『税と安心』
「東日本大震災 曾野綾子氏の論理的破綻?」
でも指摘している通り「ご自身がうつ病克服の過程で経験した不
安の概念という哲学的な視点と庶民の物理的な不安定の状況
からくる『安心』への希求
」を同一視もしくは混同した言説である。
曾野綾子氏のこの言説の原型と思われる言葉がヘレンケラーの言
葉の中にあった。
夢を追い求めよう(Go After Your Dreams)
人生とは恐れを知らぬ冒険であるか、あるいは単なる虚無でしか
ない。いわゆる安全と言われているものの多くは迷信でしかなく、
自然には存在しないもの
。長い目で見た場合、リスクを避けること
はリスクに挑むことよりも安全とは言い切れない

「安全」を「安心」に置き換えると曾野氏の言説に似た言葉になる。
曽野氏はひょっとするとヘレンケラーのこの言葉に触発されたので
はないか。しかし、ヘレンケラーのこの言葉は「夢を追い求めよう
のタイトルのごとく「夢」を実現するためには「安全など無視した
恐れを知らぬ冒険が必要である。『安全』に頼ることなくリスクに
挑むことが大切だ」とヘレンケラーは言ったのだろう。それを曾野綾
子氏は「安全と言われているものの多くは迷信でしかなく、自然には
存在しないもの
」という部分にのみ反応したのではないか。これが
曽野氏が確信的にこの言説を繰り返している根拠ではないのかと思
われる。しかし、今回の「そういうものをあ ると信じ、要求し、約束す
る人々の精神からは、真の教育は生まれるわけがありません
」とい
う記述は教育改革国民会議の委員に任命されたことへの気負いを感
じさせるが教育に関する知見も持ち合わせていない曽野氏が「真の
教育とは何か」と逆に問われると、おそらくしどろもどろであろう。
真の教育は生まれるわけがありません」と言っても「現世には、安
心して暮らせる場所も時間もどこにもありません
」というニヒリスチッ
クな言説を唱えていては教育などできるわけがない。スイスが生
んだ世界的な教育者で「民衆教育の父」と謳われたぺスタロッチは
貧困家庭の子供や孤児に「自立・自活」の教育を施したと言われて
いる。文字を覚えさせ聖書を読めるようにする学習よりも職業訓練
に近かったもののようだ。子供の「学習」にはとりわけ「動機付け
が大切で、ペスタロッチもまた子供には「将来、安心して暮せる環
」を目指すことを自覚させることから始めたに違いない。そして子
供が自活できるように、ひたすら励まし続けたに違いないのだ。これ
が教育なのだ。「安心できる生活や安心できる社会」への「夢」なくし
て教育はない。何を糧に、何を拠りどころにという説明がなければ教
育は成り立たない。曽野氏の場合は「聖書」を拠りどころにと仰りたい
だろうが、曾野氏の欺瞞体質が明らかになっている以上、曾野氏の
この種の言辞は実に空虚なものだ。ほとんど白痴の領域。そしてそ
れは次の言説も同様だ。
 「マスコミと同じように教育者たちもまた多くの嘘を排除しません
でした
。その一つは、人間が平等であ るという理想を現実と混同し
たことです。もちろん私たちは、誰もが、同じ程度に衣食も足り、最
低限人 間らしい家に住み、教育と医療を受けられ、思想、信仰、表
現、移動の自由を保証され、職業と結婚の選 択の可能な社会を望
むことに変わりはありません。しかし世界の現実は、そのような理想
とは、はるかに かけ離れた状況にあります

読むほどにため息が出るというか、嘆かわしいばかりだ。「職業作家」
で「文化功労者」が「人間が平等であ るという理想を現実と混同し
たことです」なんて、恥ずかしげもなく良く書けるな。「人間が平等であ
る」というのは「理想」だったらどうなるのか?不平等を根拠にした法廷
闘争もなにもできなくなるということだよ。なにを戯けたことを!
というのは正に憲法の条文によって定められた現実そのものな
のだ。まず平等を謳った憲法第14条の条文を読むがいい。
1.すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係
において、差別されない。

2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄
典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限
り、その効力を有する
。」
「法の下」ということは現実だということだ。また、平等の概念につ
いて調べてみると憲法条文の注釈に下記のような記述がある。
平等の概念 相対的平等と絶対的平等  
絶対的平等
個々の条件にかかわらず機械的に均等に扱う。
相対的平等
同一条件のもとにおいて均等に扱う。
形式的平等と実質的平等 [編集]形式的平等(機会平等主義)
すべての国民に対して経済活動等の行為の機会を平等に与えよう
とする機会の平等を意味する。
実質的平等(結果平等主義)
すべての国民の経済活動等の行為の結果を平等にしていこうとす
る結果の平等を意味する

 更に平等の意義と平等権について
「平等」の意義
憲法上の「平等」という文言は、近代法の大原則である個人間の
平等を保障したもので、基本的には形式的平等(機会平等主義)
を意味すると考えられている。実質的平等の観点については日本
国憲法25条以下の社会権によるべきで、14条ではそれによる格差
是正のための措置が一定程度まで受容されているにすぎないとみ
る。ただし、現実に存在する不平等を解消するためには形式的平
等を謳うのみでは不十分で実質的平等の観点についても14条で考
慮すべきとする有力な見解もある。
 「平等権」
法の下の平等には平等原則だけでなく平等を権利として主張す
ること(平等権)も保障する趣旨なのか問題になるが、平等権と
して権利性を認めるのが通説であり、判例もそれを認めている。


以上の記事で「平等」がいかに現実的な概念であるか理解できる
はずだ。にもかかわらず「マスコミと同じように教育者たちも
また多くの嘘を排除しませんでした
」あ~ぁ曽野氏の記述はあま
りにも病的すぎる。余分なことを考えざるをえない。うつ病等の
精神疾患は罹患者の論理的思考を妨げるのか?曾野氏の病状の深
刻さに胸が痛むほどだ。ただ曾野氏の病状に拘ると話は頓挫して
しまうので、これ以上の言及は避けたい。話を続行しよう。つま
り曽野氏は「人間が平等であるという理想」の論拠をアフリカの
現況に求めている。曰く「全地球上の人口の約3分の1が未だに電
気の恩恵を受けていない、と言われていますが、電気と民主主義
とは不可分の関係
にあります。電気のないところでは、民主主
義は成立しません
。誰かの政治的理念 を、同等に、正確に、素
早く、住民が聞く手段がないからです。また選挙を素早く集計する
方法もありま せん。したがってそのような土地では、今でも族長支
配的な政治形態
を採ることになります
。」なんという「狂気」。
東日本大震災後にも同じ記述をしたり発言しているため、多くの
人たちの怒りを買っている。以下、その部分に関する2CHの曾野
綾子板のレスの告発はこうだ。
東日本大震災 曽野綾子氏へのおもしろ批判選集・追補あり
○まぁ天変地異が起き異常が持続する世の中になると鬼面人を脅すよ
うな言説を弄する「異常人間」が跋扈するようになる。彼女もその類
だ。曽野綾子「電気が消えた時点で、民主主義というものは停止する
んです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。」
何を言いたいのかわからん! 理解不能なことをおっしゃる。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。

これらのレスポンスを寄せた人たちが10年以上前にも曽野氏が同じこ
とを記述していたことを知ったら、開いた口が塞がらないだろう。当
方も唖然という状態を通り過ぎて哀しみ似た感情に支配されている。
続けよう・・・・。
電気と民主主義が不可分の関係」?どういうことか?フランス革命
(1789-99)の時は電気はなかったのだぞ。ウィキペディアでは
フランス革命により、王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊、
封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立した。フランス革命
が生んだ理念(自由・平等・友愛)と諸制度は、現代社会にも多大
な影響を残している
。」としている。
1797年にガス灯が出来た。電気はそれから遅れること約80年。
グラハム・ベルが電話を発明したのが1876年、エジソンが電灯を発
明したのが1879年。曾野氏の言を借りるとフランス革命後のヨーロ
ッパやアメリカ大陸では電気が出来るまでの80年間は「族長社会」
だったのか?
誰かの政治的理念 を、同等に、正確に、素早く、住民が聞く手
段がないからです。また選挙を素早く集計する方法もありま せん

どうしたらこんな馬鹿げたことを記述できるのか不思議だ。電気が
なければ選挙も出来ないから民主主義もないどうして調べ
もしないでアフリカだけを見て自分勝手に思い込んで記述するのか?
永世中立国スイスは電気が出来る以前の1848年に「半直接民
主制」を制定した憲法を発布している
。曽野氏は調べもしないで
なにを言うかッ。もう論評する気力さえなくなりそうだ。曽野氏を支
配する「狂気」とは何か。テーマを変えて、それを論点にしたほうが
良いのではないか。こんな視野狭窄が許されて良いのか? 
平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ可能な
観念
で、日本人は簡単に平和を口にし、「皆が平和を望めば平和
になる」などと大人でさえ信じていますが、アフリカの国の中には部
族抗争が続 き、もう数10年間、平和というものを見たことがない、
という人たちもたくさんいるのです。平和を見 たことがないのです
から、平和とはいかなるものかを想像することもできません。しか
もそういう人たち の平均寿命が20歳代の後半か或いは30歳代
で、それ以上生きることは僥倖という国があるという衝撃 的な事
実は、つい先頃発表された統計で明らかになりました
。」
何が「平和というものは、一部の限られた先進国の間でのみ
可能な観念
」だッ。世界には後進国でも平和な国はたくさん
ある。GDP世界161番目の最貧国ブータンもその一つ。曾野氏の記述
は、それらの国に対する礼を失している。昨年の11月にブータン国
王ご夫妻が来日して、一躍注目を浴びたのがブータン国の「国民総幸
福量(GNH)という概念だ。先代の国王が国の基本理念として採用し
たもののようだ。
1960年代から進んだブータン国の開発・研究(第1-2次五カ年計画)
により、幸福こそ人のそして国家の究極の目標とし、ワンチュク国王
が1972年にその概念を生み出した。4つの大きな柱からなるこの国民
総幸福量、いわゆる幸せの指標、GNH(Gross National Happiness)によ
り、「世界一幸せな国ブータン」として、特に、GDP/GNP増加を主眼と
している先進国から今、注目されている。日本も、その成り立ちから、
経済援助などを通じ、ブータンのGNH発現と実現に大きな貢献をしてい
る。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、
その最先端の概念の理解と導入への取り組みがみられる
。」
日本などの「先進国」がブータン国の国民の幸福「平和」について学
び始めている。曽野氏は海外となると「族長社会のアフリカ」しか見
ていないのか?こうなると全く調査もせずに教育改革国民会議にレポ
ートを提出した曾野綾子氏を委員に推薦した文科省の官僚たちのレ
ベルの低下は目を覆うばかりということになる。

あ~ぁ1ページも読み勧めていないのに引用の多さもあって7300字を
超えてしまった。このシリーズで、しばらく「めし」が喰えそうだ。

曽野綾子氏よ
論理性を持ち合わせていない
「文化功労者」が当方と同レベルなので
身近に感じられてきた。
これからは
曽野ちゃん、綾子ちゃんと呼びたい。
よろしく
・・・・・・・・だそうです。


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東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2

2012-06-17 11:39:36 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
東日本大震災曽野綾子氏の産経新聞「透明な歳月の光」の怪
曽野綾子氏の産経新聞のこらむ「イエスマンの国」を読む
曽野綾子さんのことになると夫は生き生きしている。
もう放っておくしかないわ・・・・

 当ブログのこのシリーズのパート1では冒頭の部分の記述に誤りが
あった。訂正してお詫びしたい。フランツ・ファノンの「1人でも反
対があったら橋を架けない」という言葉をネットで調べた時、元東京
都知事の美濃部亮吉の発言とあったので、つい思い込んでしまった。
その後の曽野綾子氏の記述を読んでいるうちに間違いであることに気
づいた。「教育基本法について」と題していることから曾野氏が「日教
組」を念頭に置いた記述であると判断すべきだった。それが順当だ
からだ。当方の記述に誤りがあったことを重ねてお詫びする。
 ただ発言者が美濃部亮吉から日教組に変わっても当方の基本的な
見解はさほど変わりはしない。たとえ当該の言説を繰り返して発表
していたのが日教組であっても「全体主義」というのは戦後の日本で
はありえないからだ。そこで「日教組」についてウィキペディアを調
べると日本教職員組合は戦後GHQの指令で創られたようだが、現在は
全国76単一組織の集合体で約29万人を擁し組織率28.3%程度だとい
う。単一組織の集合体なので本来なら「日本教職員組合連合会」とい
ったところで組織体としては少し緩い感じだ。この緩い組織的な繋
がりと1960年90%に近かった組織率のその後の低下の状況から曾野氏
のいう「全体主義」などはありえない。しかもこの組織率低下の最大
の原因は「社会党」の凋落と無関係ではないと思われるが、そもそも
の原因は教職員の精神的な環境に比較的リベラルな雰囲気があるも
のと思われる。また各単一組織の性格や動きは均一ではさそうだ。
民主党の小林千代美元衆院議員の政治資金規正法違反事件で揺れた
北海道教組はじめいくつかの教組は政党支配が強いものの大半は比
較的リベラルな立場をとっているようだ。さらに空白の県が愛媛県
他3県あり京都府はたったの100人しか組合員がいないという始末。
また日教組を脱退して独立した組織には共産党系の他、自民党系も
ある。このような組織の状況からして曽野氏の言う「全体主義」とい
うのは全く当て嵌まらない。「全体主義」についての曾野氏の理解が
不十分である。
 ではパート1で記述しなかったところがあるので、そこから話を進
めたい。曽野氏がキリスト教的信念から中絶問題を締めくくるかのよ
うに記述した部分「むしろ人間は、誰でもたやすく殺人を犯す可能性
を持つのだ、ということを自覚することが人間になる ことでしょう。
合法的な中絶という制度を作って、自分はあくまで平和的で進歩的
な人間であり、決して 人を殺す側には廻らないのだ、と簡単に思え
ることの虚偽性の方がはるかに恐ろしい結果を生むと思いま す
。」
この記述は正に傲慢無礼以外の何ものでもない。「自覚することが
人間になる
」これでは「自分は人間になっている」と言わんばかり
ではないか。欺瞞を弄する者が何をかいわんやだ。高慢ちきだと言
われても致し方あるまい
 さて、次も問題だ。
信念も勇気も戦後の日本では価値を失っておりましたし、個人の責
任において他と異なった判断をする ことを、人道や正義に反すると
いう名の下に弾圧しました。その先端を切ったのが、過去には、中国
のこ となら一切批判しないという態度を貫いた新聞(1紙と1通信
社だけは違いましたが)報道の偏向、今な お差別語狩りに異常なま
でに狂奔するあまり、歴然と言論の自由弾圧を行っているマスコミの
責任はまこ とに大きいものです。彼らは大東亜戦争の時、戦意高揚
に大きく働いたにもかかわらず、何の自己批判も なく、今また同じ
精神の構図を見せています。しかし私はマスコミだけを批判している
のではありませ ん。真実から遠いことを、政治家も、教師も、親も、
そしてマスコミも、平然と言い続けたのでありま す
。」
先ず「信念も勇気も戦後の日本では価値を失っておりました」?なに
を言うかと言いたい。「信念も勇気」もなくて日本は世界第二位の
経済大国になったというのか?少なくとも団塊の世代までは「信念も
勇気」もあった。「仕事が出来なければ男じゃない」と言われもし、
また思いもして、がむしゃらに働いた。戦後に設立したソニーやホン
ダをはじめ戦後、世界で名だたる企業になった会社がどれほどある
か曽野氏は調べたのか?ノーベル賞受賞だって戦後だ。湯川秀樹博
士をはじめ今日まで18名、曾野氏がこのレポートを提出する前年の
1999年までに8名の受賞者がいる。才能と努力とそれを支える「信
念と勇気」がなければ受賞などおぼつかない。この言辞は曽野綾子
氏自らの「愛国心」に疑問符が付いただけではなく国民に謝罪すべ
きほどのものだ。まして曾野氏の「欺瞞体質」が明らかになった以上、
氏の言説に信憑性はない。更に欺瞞を弄する人間がマスメディアか
ら「弾圧を受けた」?と言っても誰がそれを信じるの?産経新聞社以
外の大手新聞社から、特に朝日新聞からは中国に関する原稿をボツ
にされた。では「弾圧を受けた」朝日新聞に「神の汚れた手」を連載
(1977-80)したのはなぜだ?これなどは中国の文化大革命終了後の執
筆ではないか。曽野氏は「弾圧」ということをきちんと理解していない
のではないのか?弾圧するということは朝日新聞だったら、すべての
朝日新聞関連の仕事からシャットアウトされるということだが、その
ようにはなっていないのでしょうよ。つまり「弾圧」といっても曽野氏側
がネットで常に行なっているポータルサイトへの「削除要請」や「
値規制要請
」程度のことではないのですか?だからといって、これを
ネット言論弾圧」とは言わないはずなので・・・・。
とにかく、こういうことも理解していないなんて、どういうことか? 
曽野氏の意図を測りかねている時に、ふと、ある疑念が湧いた。
ひょっとすると恣意的なものではないのかという疑問だ。つまり
産経新聞以外のメディアが「その先端を切ったのが、過去には、
中国のことなら一切批判しないという態度を貫いた新聞(1紙と1通
信社だけは違いましたが)報道の偏向、今なお差別語狩りに異常なま
でに狂奔するあまり、歴然と言論の自由弾圧を行っているマスコミの
責任はまこ とに大きいものです。彼らは大東亜戦争の時、戦意高揚
に大きく働いたにもかかわらず、何の自己批判もなく、今また同じ精
神の構図を見せています
」としながら曾野氏の「グループ意識」の強
い産経新聞や保守論壇をフォローする為の詭弁だったのではないか
ということだ。それだったら辻褄が合う。しかし、そこまで策略を巡
らす程、曽野氏は切れ者ではない。いずれにしても通常は職業作家
が「弾圧」の定義について理解していないなどとは考えられないから
だ。しかもこの記述の中の「今なお差別語狩りに異常なまでに
狂奔するあまり、歴然と言論の自由弾圧を行なっているマスコミ

などと、例えば1996年の「らい予防法」廃止後は官民ともに「ハ
ンセン病」が正式な用語となった(ウィキペディア)にもかかわらず、
いまだに「イエスマンの国」でも述べているようにご自分の思い違い
の「らいという病気は『らい』が正確な病名だがハンセン病と表記し
ないと許されない
」など思い込んだままの文言を直しもせず「狂奔
している
」などと、あまりにも情けなくてド素人の当方でさえ「論評に
値しない
」と声高に言うしかないだろう。そして、産経新聞のコラム
イエスマンの国」でなんと仰った?
正しいことを意識し、自分の思想を持ったら結果として言うべき
ことは言い、時には出世はもちろん命の危険にかえても自分の
思想を通すべきだ
」だったら、よしんば朝日新聞からの連載の依
頼があっても拒否すべきだったろうし、また、なぜ裁判に訴えなかっ
たのか、あるいは他紙で「言論弾圧反対」のキャンペーンを起こせば
良かったではないか。さらに読売新聞の東日本大震災後の「識者イ
ンタビュー」だって拒否すべきだった。
イエスマンの国」では「組織をクビになっても何とか生きていける道を、
常日頃用意していなければならないだろう。私の場合それは畑作りで、
今も細々とやっている
」とまで記述しているのだから、すべてを拒否
して農作業に勤しめばいいものを、これでは曾野氏自身が「イエスマ
」だった証拠ではないか。
教育改革国民会議のレポートを提出した2000年までに朝日、読売、毎
日に散々寄稿しておきながら何を言うかと言いたい。これでは「弾圧」
した者におもねたということになる。従って、それは「弾圧」ではなく実を
いうと編集部の編集方針や社是を曾野氏が理解していなかっただ
けのことだろう
?滑稽極まりない言辞なのだよ。
そして、どこまでも欺瞞を恥じない体質がますます明らかになった
ということだ。いや、欺瞞を欺瞞と思っていない。そういうことだな
?

エ○ザ○トよ
(洗礼名を入れたので削除要請した模様。これだったらどうだ!)
あなたには論理性を要するレポートは
無理です。
「弾圧」を理解していないなんて、
ふつーじゃない
同志に対する感謝の言葉で
晩年の花道を飾りなさい
この声の主が誰だか分りますか?
わ・た・く・し ですよ
 ・・・・だそうです。


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東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1

2012-06-08 11:44:38 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曾野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災曾野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災 曽野綾子氏の産経新聞「透明な歳月の光」の怪
曽野綾子氏の産経新聞のコラム「イエスマンの国」を読む
夫は、この間は泣いていたかと思ったら、今回は怒ってる。
曾野綾子さんって、どういう人かしら私も興味が沸いてきそう。

 鬼神も泣かするものは世の中の
          人のこころのまことなりけり

 明治天皇御製の有名な和歌のひとつ。当方は鬼神ではないが曽野
綾子氏と「敵対」するブロガーとしては、「不覚」にも産経新聞の曽
野氏のコラム「会えなかった恩人たち」を読んで落涙してしまった。
たとえ刹那的であっても「まことのこころ」で書かれた文章には到底
敵うものではない。あれは「同志」への衒いも気負いもなく感謝に満
ち溢れた気持を率直に書き表したから読む者に感動を与えることが出
来たが、曽野氏は我々庶民には全く違ったスタンスで臨んでくる。
「無信仰」な我々国民に向かうと、途端にエリザベトが鎌首をもたげ、
選民意識を強く刺激して侮蔑と憎悪の牙を剥き出しにして、言辞を弄し
苦手とする論理性を要するテーマにも手を出してしまう。そのため記
述するものすべてにわたって齟齬が多くなるのではないかと思われる。
そのようにして曽野綾子氏がこれまでに与え続けてきた人々の傷は余
りにも深く、どんな手立てを講じようと到底癒すことは出来ないだろう。
また曾野綾子氏もこれまでの姿勢を変えるはずはないので、当方も心
を「鬼」にして闘わざるをえない。曾野氏がたとえ過去に書いた文物
であっても容赦なく反撃する。
 その思いを新たにする中で発見したのが教育改革国民会議に提出さ
れた曽野氏の「教育基本法について」と題したレポート。それは教育
改革国民会議・第一分科会所属の委員として曾野綾子氏が2000年6月
15日に提出したものとなっていて、A4版で6頁に亘る「大作」?だ。
ところで当ブログのタイトルがどうして東日本大震災なのか?それは
東日本大震災以降、曾野綾子氏のこれまで記述してきたものの原型が、
このレポートの中にあるからだ。これが曽野綾子節の原点というとこ
ろかと興味が湧く。
  先ず、教育改革の委員としてのアプローチは、「戦後の教育の荒
廃」の原因追求というごく一般的な手法をとっていて陳腐そのものだ
が、のっけから記述には誤りがある。国の主催する教育改革国民会議
に提出するレポートは認識から表現に至るまで厳格であるべきだ。と
ころが曽野氏の記述は「戦後の教育の荒廃は、精神から人間性を奪っ
た・・・
。」「その原因は、長い年月、民主主義の名を借りた安易な『自由
放任』の姿勢にありました
。」と曖昧だ。少なくとも我々戦中生まれ
の世代と団塊の世代までは民主主義の理念と自由については徹底した
教育を受けてきた。特に「自由とは何でも好き勝手にやることではな
い。自由と自由放任主義を履き違えるな。
」と大人たちは手厳しかった。
問題は次の世代だ。死に物狂いで働いた団塊の世代たちは共働きで仕
事に追われる余りに、一人っ子、かぎっ子を作り出し社会問題とまで
なった。子供の傍に居てあげられないという罪悪感から子供に物を与
え過ぎた。欲望耐性を身につけない子供がやがて大人になっていく。
親、教師、社会、その多くは、相手から嫌われるのを恐れるあまり、
易々として子供の身勝手な要求に迎合しました・・・
」訳ではなく、
また「卑屈な求愛の精神から出た」ものでもない。この辺の認識に
誤りがあるため「民主主義の名を借りた安易な『自由放任』の姿勢に
ありました
」となって、その後の展開が論理的ではなくなる。従って
「民主主義」の解釈について自説を延々と展開する破目となる。
冒頭、「一人でも反対があったら橋を架けない」を引用しているが、
この言葉は調べてみるとアフリカの思想家フランツ・ファノンの
「橋の哲学」の文章というが、後段があって「反対する者は例え冬で
も川を泳いで渡れ」とアイロニーを込めて警告したもののようだ。
この前段を美濃部亮吉が演説か何かで「民主革新都政」のスローガン
としたのだろう。前段のみを掲げて「民主主義」を唱えたところに
美濃部亮吉の誤りがあった。これは美濃部亮吉の決意であったのだろ
うが、曽野氏の言うような「全体主義」などでは決してなかった。
ただ気持だけで政治をやろうとした、今から思えば幼稚な政治家だっ
た。「一人の落伍者も出さない」も美濃部が言ったとすれば、「民主
政治」のアピールと決意表明に過ぎない。そもそも「全体主義」とい
うものは政治や経済から教育そして各家庭での個々人の言動にまで規
制を及ぼすイデオロギーだ。戦後に自由主義経済圏のわが国で部分的
であるにせよ、起こるはずがないではないか。共産主義国家や宗教教
団でない限りありえない話だ。曽野氏はそれと固く信じて疑わないか
ら「民主主義」に拘るあまり脱線する。「一人の人間の命は地球より
も重い」という言葉を理解せずに、なんと数字で比較するというナン
センスを展開する。この言葉は今から35年前のバングラディッシュの
ダッカで起きた「日航機ハイジャック事件」で乗客乗員151名の人質
を楯に武装した日本赤軍5人が日本の刑務所に収監されていた仲間
6人の釈放と16億円の身代金を要求したもので、この要求を呑む
にあたり当時の福田赳夫首相が表明した言葉として語り継がれている。
151人の人質がいたので「一人の」とは言うはずがない。これも誰
かの言葉らしいが「人の命は地球よりも重い」と、これといった大義
名分もなく世界の批判を浴びるであろう超法規的措置によるテロリス
ト集団の日本赤軍の囚人たちの引渡は、この大仰な言葉でしか凌げな
かったのであろう。「人の命は地球より重い」とは言い換えれば「人
の命は何物にも代えがたい」と人の命の大切さを強調した言葉だ。そ
れを「私たちは誰もが、1人の死者も出さないようにあらゆる部門で努
力しています。しかし9人の命を救うために1人の命を犠牲にしなけ
ればならない状況がしばしば起こることは良くあることです。ですか
ら1人の命は9人より軽いと見るのが正確でしょう
。」という具合に1人
と9人の命を比較するというナンセンスを展開して笑いを誘う。なん
という粗末。「会えなかった恩人たち」とはまるっきり違っていて同
一人物の筆によるものとはとても思えない。しかも、この論調は次の
人工妊娠中絶の話へと発展?する。人工妊娠中絶という問題は母体保
護法との関係もあって相当デリケートな問題なので扱い方を誤ると新
たな論点となってしまうのだが、曽野氏は一向にお構いなしだ。命を
大切にするということでは曽野氏の仰るとおりではあるが、「教育基
本法について」と題しているのに中絶の話を持ち出さないと論旨を展
開できないのかと思ってしまう。とにかくこの問題は当方の太刀打ち
できる問題ではないが、曾野氏に対しては指摘しておきたい点がある。
私も含め何千万という人がこの論理(人口妊娠中絶に関する)を見聞
きしましたが、おかしいとも非人道そのものだとも言わず、それを是
正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです
。」
そんなはずはない、そう思ってネットで調べてみた。すると、ある論
文が眼に留まった。それは大阪府立大学人間社会学部人間科学科教授
で哲学者の森岡正博氏のもので、「生殖技術とフェニミズム」となっている。
曽野氏のレポートの4ヶ月前の2000年2月に発表したものだ。ここには
1970年代初頭に優生保護法改正案の国会提出でウーマン・リブ、中ピ
連等の婦人団体や障害者団体の激しい反対運動で同法案が廃案となっ
たが、この時期から生命倫理について議論や主張が本格化していった
としている。人工妊娠中絶は「女性の権利」と主張するウーマン・リブ
や中ピ連等の婦人団体に激しく反発したのは障害者団体だったと述べ
ているが、こういう経緯のなかで当時ウーマン・リブの指導者だった
田中美津氏は「敢えて提起する=中絶は既得の権利か?」と題した論文
を発表して波紋を呼んだ。
彼女は、『中絶は女性の権利』という言い方で、中絶という行為を
理屈によって正当化し、合理化して安心しようとする女性のこころの
問題を鋭く指摘する。そして、そのような合理化に納得しない自分の
内面にこだわるならば、中絶において自分が『殺人者』であるという
点を引き受けなくてはならないと言い切る。そのうえで、自分がその
ような殺人をしなくてはならないような社会の構造を凝視し、それを
変革してゆかねばならないとするのである。彼女は自分の思索を、
『生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである』と述べている。
七〇年代ウーマン・リブの思索は、明確に生命論と重なっている。
 田中のこのような思索を受けて、リブ新宿センターを中心としたグ
ループは、『権利論』ではなく、『産める社会、産みたい社会』追求
という言説を選択してゆく
。」
 森岡氏の論文は優性保護法改正案反対運動の高まりの中で「人工妊
娠中絶は女性の権利」論が台頭したものの、欧米で主張される「胎児
の生存権」という生命倫理学との議論へと向かい、現在は「五体満足
な子供がほしい」という「内なる優性思想」との葛藤の最中にあると
している。
 いかがであろうか?曾野氏の「おかしいとも非人道そのものだとも言
わず、それを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです

この記述はレポート提出にあたって全く調査さえ行なっていないとい
うお粗末さを露呈している。ここには自らのキリスト教的信念による
主観的認識だけで記述するという傲慢さがある。しかも「何であろうと
筋を通さねば、教育などできるわけはありません
」「それを是正する運
動を起こさなかったのは、恐ろしいことです
」この文言はご自身が「人
工妊娠中絶」禁止運動を起こし筋を通したので国の任命を受けて
教育改革国民会議の委員として提議していると仰っていることに
なりますが、果たしてそうなのですか
?
では、日本で盛んに「人工妊娠中絶」に関する議論や反対運動が
起こっている時に、曾野綾子氏は、どこにいたのですか?

本当は、それにはほとんど興味を示さず、当時、選挙で選ばれた
チリのアジェンデ政権を軍事クーデターで転覆したピノチェト政権
を応援する為にわざわざチリまで行ったのではなかったのですか?

国民への虐殺等の弾圧を続けていることを知っていて応援に行っ
たのですよね。国連がチリ非難決議を1974年から4年連続で行な
った国に、しかもローマ法王が虐殺や拷問を止めるようにピノチ
ェトの説得にわざわざチリを訪問したというのに、曾野氏は夫・三
浦朱門氏と一緒にピノチェトの応援だったのでしょう?

にもかかわらず「おかしいとも非人道そのものだとも言わず、そ
れを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです

何であろうと筋を通さねば、教育などできるわけはありません
という言辞はなんなのですか?ご自身は運動も起こさず、従って筋
も通していないのに他人には「おかしいとも非人道そのものだとも
言わず、それを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいこと
です
」とは何なのですか?これは明らかに欺瞞でしょう。政府の
教育改革国民会議の委員がこういう欺瞞を弄するとは、どういう
ことですか。

 前にも述べたように扱い方を誤ると新たな論点になると警告し
たが、「何であろうと筋を通さねば、教育などできるわけはありません
という言辞は「人工妊娠中絶」問題を論点にするという意思を表し
たものだ。つまり生命倫理学を抜きにした教育論はありえないとい
うことになる。ところがこの記述の前後を読む限り曾野綾子氏は、
これを論点にする気など毛頭ないのだ。ただ最初に「1人の人間の
命は地球よりも重い」という言葉に着目したことがキリスト教の
教義の「堕胎」へと進んでいった。たったそれだけのことだ。ど
うもそれ以上のことはなさそうだ。幸いにも他の委員が遠慮してか
これを問題視しなかった為に論点にはならなかったものの自己撞着
も甚だしい非常に危うい記述である。
 この程度で政府の教育改革国民会議の委員になっているという
のは、どういうことだろうか?つまり当時の自民党政権の末期症状
が作り出した虚像ではないのか。
 
曽野綾子氏よ
こういう欺瞞を政府関係の仕事でも
やってのけるというのは大胆不敵だ
仕事を舐めている。
甘やかされて、甘えているのだよ。
能力もないのに、何でも安請け合いしないことだ。
潔く筆を折るか、さもなくば、
ほんの身の回りのことだけにしなさい


※申し訳ありませんが長くなるので、次回に割愛いたします。

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