非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

浅田真央ちゃん!羽生選手!ロシア杯優勝おめでとう!

2011-11-28 11:23:34 | 日記
あー良かった。フィギアGPのロシア大会、真央ちゃん、羽生
選手、優勝おめでとうございます。

一昨日の夜は7時半ごろから夫と一緒にテレビに噛り付いていました。
前日のショートプログラムではロシアのレオノワ選手が素晴しい演技
をして浅田選手との差はわずかだったので、夫も気が気でなかったよ
うです。

ロシアのソトニコワ選手が111.96を出してトップに立った後、注目の
レオノワ選手・・・ジャンプを1度失敗して転倒したけど116.54を出
して更にロシア勢がトップ。真央ちゃんがジャンプを2度失敗したので
もう、ハラハラ!テレビの画面の端に、意地悪にも
「トップまで116.54」の表示。真央ちゃんの得点の出るのを祈るよう
にして待つ時のじれったさ!

「118.96」の点数が出た!途端に夫が「よしっ!」と言いながら手を
叩いた。真央ちゃんもちょっと首を傾げてい
たとおり、ちょっと危なかったなあ・・・・。

去年、一昨年のしょんぼりした真央ちゃんを見ていたので、久しぶり
の笑顔に夫は顔がほころびっ放し。

そして、昨日の朝のニュースで羽生選手優勝の朗報
夫は新聞のスポーツ欄を見て、またびっくり!

体操W杯女子で美濃部ゆう選手が銀メダル。
おめでとうございます。
日本の女子体操も中国やロシアに追いついて追い越せ

スポーツの明るいニュースに元気を貰って
さあ、今日も頑張ろう

東日本大震災 曽野綾子氏の個人的記録という欺瞞

2011-11-20 17:47:08 | 日記
曾野綾子氏の「人間にとって成熟とは何か」の欺瞞!
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1

東日本大震災と曽野綾子さんについては、もう終わるのか
なと思いきや次をもう書くのですって・・・。

 又もや削除の洗礼を受けているようだ。曾野綾子氏の近著のタイ
トルを当ブログのタイトルに入れてWEBで上位表示されてきた途端、
そのタイトルの当ブログが突然、当該キーワードの30ページ以内
にも見当たらなくなった。よほど神経を尖らせているようだ。なら
ばタイトルから曾野綾子氏の近著のタイトルを冠しなければどうだ
ろう。このように普遍的なキーワードを使ったタイトルだったら削
除できるだろうか。いや、それでも表示されないところを
見ると数値規制をポータルサイトに依頼したようだ。最近、上位に
当ブログおよび当ブログを2記事リンクさせたものが5箇所表示され
そのうち「『揺れる大地に立って』の欺瞞」がもろに見えるものが
2カ所。曽野氏もよほど癪に障ったのだろう。
 曽野綾子氏の近著「揺れる大地に立って」は出版社、書店業界挙
げての宣伝合戦の様相を呈している。先の「老いの才覚」が100万
部を突破したためか、ネットを見る限り柳の下を狙う業者たちの蠢
きはすざましいかぎりだ。あまりの騒がしさに売れ筋ランキングを
覗いてみたが上位300冊の中に、その形跡はない。従って早稲田
大学教授・吉村作治氏の書評をもってテコ入れを図らざるを得ない
のだろう。またそれは別の狙いもあるようだ。つまり著名な吉村氏
に書評を依頼することでネットで目障りな当方のような雑魚どもを
蹴散らしたいのだろうが、そう容易く撃退されはしない。なぜかと
言えば、親しい人に書評を依頼しても、親しいだけに褒めちぎっ
たうえに当たり障りのないことしか書けなければ書評というより、
それはむしろ推薦文に過ぎない
。それでは読者を納得させられ
ないし、吉村氏は読者の期待を裏切ることになり、引いては考古学
者としての自らの名声に傷をつけることになるだろう。
 しかし、「老いの才覚」がヒットしたのはなぜか?それは曽野綾
子氏の文才ではなく氏もおそらく気づかないであろう氏の持って生
まれた商才がなさしめるものではないか。老人としての経験と時節
を捕らえて、すかさず「老いの才覚」と題したものを書き下ろした
才能は商機を逃さない類まれな商才と言うほかない。これは言って
みれば「父親譲り」である。父親とはもちろん笹川良一氏。商才と
いうことから考えると「笹川良一父親説」は俄かに信憑性を帯びて
くるからだ。笹川良一父親説が本当なら曽野綾子氏は道を間違えた
ことになる。文壇に入らず商売の道に入っていたら、うつ病になる
こともなく父親笹川良一氏譲りの商才を発揮して財界に君臨したか
もしれない。褒めちぎって何を言いたいのか?勿論、それは曽野
綾子氏には商才はあっても文才がないのだから早く筆を折り
なさいの一言だ。
 
そして、もう一言。ネットの中に曽野氏の「揺れる大地に立って」
の見出しと目次のみを紹介したブログがあったので、転記させて頂
いたが、この「揺れる大地に立って」は大震災以後、曽野氏がコラ
ム等で書いたり述べてきたことを改めて加筆してまとめたものであ
ろう。しかし、見開き2ページのコラム等の氏の筆力では冊子にま
とめ上げる力はあるのだろうか。ここは夫三浦朱門氏の支援を仰ぎ、
三浦朱門氏の加筆、添削または一部の代筆を依頼したと考えるのが
順当であろう。いや、むしろ夫婦である以上、夫三浦朱門氏が見か
ねて曽野綾子氏の文章に手を加えたとも考えられる。ともあれ三浦
朱門代筆説は2chの文学板の中で実しやかに語られていて実は信憑
性がある。最初はどうせデマだろうとさして気にも留めていなかっ
たが、ネットを見渡しているうちに、曽野綾子氏のコラムか冊子の一
部を紹介した記述に出会って考えを改めた。題名等は忘れてしまっ
たが、読んでいておやっと思ったものだ。「なんだこういうふうに
も書けるではないか(失礼)」と、今までとは違った筆致にホッとした
記憶がある。つまり、その文章にはなにか香り立つものがあって、
言ってみれば「文体」を感じて心地よかった。だが、そのあまりの
落差にやがて2chの文学板のうわさが脳裏をよぎり、その疑惑は次
第に抜き差しならないものになって確信にまでなった。
ま、買って読んでみないと分らないことではあるが、今までの震災
関連の曽野綾子氏のコラムの劣悪さからいって購入する気力はない。
帯の小見出しの紹介や目次の内容で氏の言わんとするところは容易
に判断できるので、それで批判しても差し支えあるまい。
 さていよいよ本題に入りたい。まず小見出しから。
●戦争体験者から見た震災
●過酷な運命の変化に備えるということ
●安全を妨げる「絶対安全」という暴論
●この災害に責任はない、と言い切れる人はいない
●最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞

 これに反応した曽野綾子氏の2chの文学板のレスはこうだ。
>戦争体験者
っておいおい、お前が餓死寸前でマラリア罹りながら小銃担いで南
方戦線でも戦って来たんか。あぁん? 疎開してただけだろーがよ。
なんちゅう厚かましいババァだ。お前はただのババァ。なんでそう
特権意識をもつのかねぇというか今までさんざん日本人に対してや
れ被災者は甘えているだの 若者はダメだの批判してきたのにいき
なり信頼に足るって持ち上げてる。

自分が批判されたんでそれをかわすために大衆にゴマすっておこ
うという魂胆。あるいは曽野綾子の妄想の中には分裂した複数の日
本国民がいて、自分の都合の良い時につごうのよいタイプの日本国
民だけをとりあげて論じている。

この災害に責任はない、と言い切れる人はいない 。
↑ 何だこの言い草は! そんなことを書き切っていいのかよ?
福島県で生まれて育った未成年者もフクシマ原発事故の責任がある
のか?津波の災害地で生まれて小中学校に通っている子も責任ある
のか?そこで死んでしまった若い命は、天罰だったのか?開いた口
が塞がらない暴論の展開だな。

 曽野綾子氏の文学板で告発する人たちは当方と同じく小見出しや
目次を読んだだけで怒り心頭に発したと言うことだろう。むべなる
かなだ。大震災以前からの被災者に対する曽野綾子氏の心無い発言
は多くの人を傷つけ、読む者の心を痛めつけてきた。だから氏の冊
子を買って読むなど到底考えられないし、よしんば買って読んだと
ころで夫三浦朱門氏の加筆、添削がなければ無残な文章だろうし噴
飯ものだろう。お金をどぶに捨てるようなものだ。
ともあれ先ず小見出しのトップ「戦争体験者から見た震災」。これは
編集者が付けたものであろうが、曽野氏が了承している以上、氏が
書いたに等しいが、編集者も曽野綾子氏も言葉の使い方が解らな
いようだ。つまり言葉の意味が解っていない。
曽野氏は終戦時
12~13歳で戦時中は疎開していたようだが、ご自身を「戦争体験者」
と言うとそれを聞いたり読んだ者は皆、抱腹絶倒の末、罵倒するだ
ろう。「戦争体験者」ではなく「戦災経験者」と言うべきで、初っ端から
曽野綾子らしさの開陳
だ。これほど言葉を理解していない「作家」
もいないのではないか。だから以下の大言壮語が空疎に聞こえて
しまう。次もその一つ「過酷な運命の変化に備えるということ」は戦争
を体験して過酷な運命に晒されてきた私の話を聞きなさい、この体
験があるから「甘えずに生きてきた」と言いたいのだろうが、子供
ながらに過酷だったことは確かだろう。がしかし、現在、大人にな
った者が「戦争体験者」として「過酷な運命」と言う場合は「お前が
餓死寸前でマラリア罹りながら小銃担いで南方戦線でも戦って来た

の言葉通りであれば「過酷な運命」と言えるし、学徒動員で「ひめ
ゆり隊」で沖縄戦を生き延びた人が言えば正に「過酷な運命」だ。
学童疎開から戻ってきて不自由な暮らしをしたくらいで自らの体験
を「過酷な運命」と表現するのは「作家」としては下の下だ。この御
仁は自分のことになるとなんでも大げさに考えるタイプのようで、
サハラ横断行で「原始を体験した」の大言壮語もそのひとつ。
先のブログでも述べたようにサバイバルではなかったはずで水も
食料もすべて用意して、スタッフと一緒に「旅行」した程度を「原始
を体験した
」なんて大真面目に言えば言うほど失笑を買うというこ
とをご存じないようだ。これこそお嬢様育ちの証明以外にない。重
ねて言うが「原始を体験する」というのはそんな甘っちょろいことで
はない。現代風に言うとサバイバルなのだ。許されるならサバイバ
ルナイフ一丁腰に下げて一人で原野に入り、火は石や木で起こし蛇
や鼠を捕まえて食料にして二週間以上、原野で生活して戻って来た
ら、それは「原始を体験した」と言えるかもしれない。
お分かりかな、お嬢様。
 次の「安全を妨げる『絶対安全』という暴論」。老人の繰言というか
懲りずに又もや持ち出してくるあたりはレスの告発とおり「ただ、この
人はいくら批判しても、一種の無誤主義みたいな精神状態だから自
分を批判するものがたとえ一億人に及ぼうと自分はただしいと考え
るんだろうな。批判されればされるほど、殉教者のような恍惚を覚え
たりして

齢を取ると小説的な文章を書くのが億劫になる。というかもう書けな
くなる。しかし世間一般の話をどうのこうのは死ぬまで言える。ただそ
れは自分の世界観・人間観で語るわけで、その世界観が薄っぺらで
人間観には頷けないと思う人たちには聞くに耐えないものだ、となる。
それでも語る。聞くに耐えないという人たちはバカな人たちだから、と

ほとほと感心する。内容は去る5月27日付けの産経新聞の「安心病の
特効薬は」と題したコラムの中で曽野氏が記述したものの焼き直し程度
で、さして変わりはないだろう。
国民の方は昔から原発を『絶対に安全なのか』という言い方で追いつ
めてきた。『いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想
定して避難訓練もいたします』と原発側が言ったとすると『事故がおき
る想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対
に安全です』という子供じみた応答になる。しかし物事に『絶対安全』
ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、
絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。
もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ
。」
先の当ブログ「東日本大震災 曽野綾子氏が原発推進派の意見を代
弁」で批判しているが、原発や原発反対運動について、なにひとつ
学習もせずに自分勝手な論理を作り、作り話のような稚拙な表現
は、これこそ「暴論」以外の何ものでもない。しかも、これはもう白
痴の領域だ。これほど自らの馬鹿さ加減や低レベルをさらけ出し
ても羞恥心もないというのには驚く。
わが国の「文化功労者」なん
だから、これ以上、恥を曝すのは辞めて欲しい。

 そして「この災害に責任はない、と言い切れる人はいないいますよ!
曽野さん!あなたご自身でしょう。ご自身がこの間、「東電に責任は
ない」と言い切ったばかりではありませんか。舌の根も乾かないうちに、
何を仰る二枚舌
「WiLL」6月号「昇一先生の美女対談」『不幸からの贈り物が日本人を
鍛える』(渡部昇一&曽野綾子)抜粋
曽野 「こんなにひどい津波 は見た
ことがない、・・・・そもそもの想定が甘かったなら、責任は東電 ではなく
設計側にあります
。」Willの対談で記録を残しておいて、どういうつもりか。
こうして首尾一貫しないのは次も同じ。
最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞この言葉こそ欺瞞そ
のものではないか
。だからレスの怒りは留まるところを知らない。
自分が批判されたんでそれをかわすために大衆にゴマすっておこ
うという魂胆。
」こうなってしまう。
ところが、振り返ると大震災以前からの曾野綾子氏の弱者に対する無
慈悲なまでの辛辣な発言は以下のように首尾一貫している。
平成16年の台風23号の大型台風被害について「学校その他に避難し
た人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のこ
とに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。避難した
ら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。それ
がいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの
個人の才覚の訓練が要る。お弁当なども行政は配る必要はない。天気
予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老
人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世
界の当然だ。

新潟県中越地震についても、「避難所で救援物資を当てにして待ってい
る避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり
前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。
必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ

そして東日本大震災後の読売新聞の識者インタビューでは
私たち日本人は・・・有頂天になっていた。今回の東日本大震災によっ
甘やかされた生活がこれからも続くという夢が打ち砕かれた

なのにどうして「最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞
どうしてこの人はこうも平然と180℃の転換をやってしまうのか?
いつも為政者のような発言で「同胞」意識は微塵もないはずなのに急に
どうしたのですか?どうも打算があるとしか思えないが、この著書を売
らんが為に、そして「文化勲章」を貰いたいが為に「信頼に足る上質な
1億人の同胞
」と姑息なまでの言辞を弄しているのではないか。このよ
うに首尾一貫しないのはなぜか?「世界観、人生観が薄っぺら」と
いうレスがあったが、そう思わざるを得ない。ではどういう世界観をお
持ちなのだろう?曽野綾子氏は「私あまりにも多くを聖書から学び
ました
」と仰るから「敬虔」なクリスチャンと思われる。であればキリスト
教的世界観をお持ちのはず。キリスト教的世界観と言うのは「文化功
労者」が政治に口出しするような無節操さも厭わず、おまけに調査や
検証もせずに頓珍漢で支離滅裂な発言を許す世界観なのだろうか。そ
もそも世界観というのは統一した見地に立って世界や世間、周りを観
る観方や考え方のことではないのか?ところが自己矛盾も平気でやっ
てのける曽野綾子氏に「統一した見地や考え方」があるとは思えない。
氏に「統一した見地」があるとすれば被災者に対する無慈悲な言辞
のみだ
。ついでに言わせて頂くが「私あまりにも多くを聖書から学
びました
」なのに、なぜ文章はそのように理解不能な文章をお書きに
なるのですか?門前の小僧習わぬ経を読むの諺通りであれば文章も文
達であっていいはずだけど「近年落ち込んでいると言われる日本の
凋落
」などと文章にならない文章を書く「文化功労者」はあなたくらい
でしょう。

今や日本の凋落を象徴しているかのような

欺瞞に満ちた「文化功労者」曽野綾子氏よ!

恥を知るが良い
・・・と言うことです。


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東日本大震災 曾野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅲ

2011-11-16 20:59:45 | 日記
東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曾野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅳ
東日本大震災 曾野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
揺れる大地に立って曽野綾子氏東日本大震災個人的記録の欺瞞3
東日本大震災・曾野綾子のキーワードの数値規制は、どうも
解除されたようだと夫は喜んでいますが、数値規制のおかげで全く
表示されなくなったサイトがあるのを気にしています・・・・。

ちょっと一息。
 ニャ~メン
敬虔なクリスチャンかニャン?
子猫のあどけない顔に澄んだ瞳・・・・微笑んではいないけど
モナリザの微笑み?・・・・ネットで偶然見つけた。
曽野綾子氏にも見せてあげたい・・・・・。

 さて、読者諸氏には陰ながらご支援頂き感謝申し上げます。そして
曽野綾子氏側の諸兄にご苦労様と申し上げたい。昨夜から当方の瑕疵
のある過去ログ「東日本大震災 許せない曽野綾子氏の傲慢その2」
がトップ表示されなくなったのは曾野綾子氏側のクリック作戦の中止
を意味するのか、一時中断なのかは今後をみるしかありませんが、曽
野綾子氏側の諸兄は総帥同様表層の部分に拘るあまり、何か勘違いし
ておられるようだが、当方のブログなど文章の良し悪しや出来不出来
で読まれる方はいません。心意気に感じて読んで頂いているはず。「作
家」ではないのだから何も隠すものなどない。当該の「許せない曽野
綾子氏の傲慢その1・その2」は冒頭の挨拶が最近まで「亡くなられた
方とご遺族に心からお悔やみ申し上げます」と非常識な文章になった
ままで訂正し忘れたブログでした。それを曽野綾子氏側に発見して頂
き、「見せしめ」の為に相当クリックして頂いたおかげで小生も気が付
いて訂正したのですが、所詮ブロガーの端くれです。それがせいぜい
といったところ。しかし、要は心意気ですよ。小生はブログで告白し
ているように「出来損ないの中学生」だったのと、いい年して、その延
長線上の人間でしかありません。建築業を永くやって不良に近い職人
を相手にしてきたせいもあって「上品」というものには縁がなく、どちら
かというと粗野で、不動産業をやるようになって少し大人しくなった
程度。また曽野綾子氏のことを書くようになって、文章を書く喜びを
わすがではあるが知ることができた。それと、もともと紋切り型の挨
拶が苦手というか抵抗があって、そういう言葉を使わずに来た。身内
を亡くされた方をどう慰めたらいいのか、言葉を見つけられず葬式に
参列しても「ご愁傷さまです」なんてなかなか言えなかった。ただ
「この度は・・・」と濁すだけ、その程度です。それが今回の名残となっ
ている。でも表出して頂いたおかげで再度自分の過去ログを読み直す
と、半年前は実に貧弱なブログだったが少しは書きなれて、2年前と
少しも変わらない曽野綾子氏と比べれば随分と進歩したではないかと
自画自賛中です。よろしく。

ところで、この間からの数値規制。これは期間を限定して行われた
ようだ。ただ残念なことは今回の数値規制で消えてしまったサイトが
あることだ。「曽野綾子」と銘打ったそのサイトは曽野綾子氏の著書
の紹介等のサイトや反曾野綾子の論調を展開するサイトを合わせて6
箇所ほどリンクさせていた。いつからか当方のブログを2記事リンク
していて極めて公平なサイトだった。例え当方のブログがリンクされ
ずとも当該の「曽野綾子」サイトが表示されることを切に願っている。
 さてはて曽野綾子氏が「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個
人的記録」を出版して以来、つらつら考えていたことだが、どうもしっ
くりしないことがある。
先の当ブログ「曽野綾子氏よ、被災者の怒りを聞け!」で記載したある
被災者の怒り。541:吾輩は名無しである:2011/07/26(火) 23:15:52.08
のレスの声の中で述べられていた「今回で私は東日本大震災との
関わりを終えたい
」という曽野綾子氏の撤退表明。7月26日に「W
ILL今月号」といえば7月号だ。この原稿の締め切りは5月末から6
月初旬と思われる。その頃には曽野綾子氏は「今回で私は東日本
大震災との関わりを終えたい
」と記述していたことになる。ところが
その舌の根も乾かない2ヵ月後の8月には今回の「東日本大震災の
個人的記録」を編纂していたというから驚きだ。「関わりを終えたい
と表明しながら一方では「関わり続ける」という、この見事なまでの
二枚舌は何なのか
?批判されて「関わりを終えたい」と表明したの
に「老いの才覚」がトップセールスを記録したので、すっかり気を能
くして「関わり」を続ける気になったのか、はたまた出版社に担がれ
て、その気になったのか、いずれにしても「関わりを終えたい」と表
明したのに何のこだわりもなく豹変するなんて読者無視、国民無
の曾野綾子氏らしいやり方だ。・・・・そこで、ふと思い出した。

 二枚舌その一枚で身を破り 他の一枚で人を損なう

誰が詠んだか知らないが有名な「二枚舌」の狂歌だ。二枚舌は他人を
傷つけるだけではなく親しい人も無くしていくと昔の人は歌に託して
警告した。しかし、曾野綾子氏はそんなことには頓着もなく二枚舌
やってのける、すばらしい文人だ。
 では本論?に行こう。「第4章「適応力」が試されるとき」このようなタイ
トルをつけるからにはご自身は「適応力」があると自負しておられるの
でしょうね。曽野氏はうつ病を患った経験をお持ちだから言わせて頂く
が、うつ病を別名「適合(適応)障害」と呼ぶ医師もいるそうで、ひょっと
すると曽野氏は「適合障害」を克服したので人様の「適応力」や仕草が
いたく気になるのではないのか?例えば平成16年(2004年)の台風23号
の被災者に対する曾野綾子氏の記述。
学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給さ
れていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわか
らない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当
たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避
難するだけの個人の才覚の訓練が要る
。お弁当なども行政は配る必
要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で
歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って
来るのが世界の当然だ

さらに同年の中越地震では
避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難
する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの
心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。必要なものが手元にな
いのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ
」と「適応力」がない
から憤っているんだと云わんばかりだ。それらも「適応力」不足といえば
そうかもしれないが、「文化功労者」が被災者の一時の状態を見て大騒
ぎするなんてみっともないことこの上ない。もっと大きな視点に立って
ご覧になってはいかがですか?狭小に過ぎる。まるで家庭の主婦が騒い
でいるように見えて情けないなんてものじゃない。「適応力」についても
ネットを調べたらどうですか。少しは考えが変わるのではないか?ネット
には「適応力」についての面白いコラムもあるし・・・・。
「適応力について考える」日比野氏のコラム このコラムは日比野という
署名があるだけで日比野氏の出自は不明だが延1010万人が訪問して
いる人気コラムということだ。内容は元大リーガーの投手長谷川滋利
氏の著書「適者生存ーメジャーへの挑戦」から引用されて解りやすく解
説してある。このコラムこそ「適応力」の何たるかを教えている教科書だ。
そして、その「適応力」の最たるモデルが飯館村にあった。津波の被害に
こそ遭わなかったものの原発事故の計画的避難区域になって苦難の中
から立ち上がり今年10月にジャスダックに上場したある企業の話だ。
次のリンク先は公開を終了した模様です。悪しからず11/25
NHKニュース9「逆境に負けない!飯館村から皆で果たした上場」
曽野綾子氏よ、つまらんことを言う前に、こういう企業を取材すべだった
ろう。
 次、「【1】震災と被曝~フクシマとヒロシマ」。週刊ポストの4月1日号の東
日本大震災の特集のコラムではヒロシマには一言も触れなかった。
たった一回の地震で、日本の誇るあらゆる施設も物自体もそして当然
その結果としての制度や産業も、部分的にだが消失した。どんな事故
も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない
。私たちは千
年に一度の災害を体験し、その現実を教えられたのである
」と記述した
ことに宇佐美氏が「曽野氏は、(一瞬にしてそれぞれ数万人以上が亡く
なった)広島、長崎をお忘れですか!? 」と注意を促している。これに対
し同胞意識は微塵もないのに一応反応して項目を設けたものと思われる。
宇佐美保氏のブログ「復興は平和の礎」
第一、フクシマに関しては原発事故を起こした東京電力を擁護しながら
国民の方は昔から原発を『絶対に安全なのか』という言い方で追いつ
めてきた。『いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想
定して避難訓練もいたします』と原発側が言ったとすると『事故がおき
る想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対
に安全です』という子供じみた応答になる。しかし物事に『絶対安全』
ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、
絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。
もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ
。」
と発言し原発推進派の意見を代弁しておきながら、またもや詭弁なの
か二枚舌なのか、読まずとも底は知れている
。ここで曽野氏には
申し上げるが、福島と広島をカタカナで列記するのは適当ではな
い。フクシマは原発事故の現場で働く東電の社員達を英雄視した
外国の報道に倣って表記したものが含まれていて、一方のヒロシ
マは悲惨な最後を遂げられた多くの戦争犠牲者と平和のシンボル
としての地名だ。カタカナで列記するのは極めて不謹慎だ。

こういうところも「文化功労者」としての曾野綾子氏の見識のなさを
表している

そして、次の「【2】震災と援助~「超法規」の中で生きる」。こんなタイトル
を一ぱしつけてみたところで肝心のご本人が「超法規」という言葉を果た
してどこまで理解しておられるか疑問だ。なぜか?WILL6月号の渡部昇
一氏との対談「不幸からの贈り物が日本人を鍛える」の中で、理解力の
疑われている曽野綾子氏がしたり顔で意味不明のことをのたまうあたり
滑稽の一言につきるからだ。。
曽野 「・・・・・・そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは
停止するんです。公平も平等も機能しないんです
。それがわかって
いない
」と言った人が自分の言っていることをよく分っていないから手に
負えない。「民主主義」という意味をちゃんと理解していないから妙なと
ころで妙な使い方をしてしまう。
曽野綾子氏のこの発言に対して2Chのレスはこう告発する。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。
○金のある者はより安全な場所に身を移し、貧しい者は避難できない
まま死ぬ。人の命を分ける不平等が姿を顕す。

この中には格言とも言うべき言葉がある。言い得て妙だ
 次の「第5章「安心病」との闘い」ご自分が「安心病」に罹っているのに
何を言うのですか?先の当ブログ「曽野綾子氏の間違いだらけの文章
作法」で暴露した様に氏は「曽野綾子」という偶像に胡坐をかいて甘えに
甘えて「安心病」に罹っているから文章修行も怠っている。人のことを言っ
ている場合ではないでしょう。自らの「安心病」と闘いなさい。まして去る
5月27日の産経新聞に掲載されたという氏の「『安心病』の特効薬は
と題したコラムに「ニュースに出てくる・・・人たちが『安心して仕事を
始めたい、安心して子供を遊ばせたい』と言っているのを聞いて、
私はおかしな気分にとらえられた
」。何度も言うが明らかに白痴の領
域。今それらの母親達の「安心して遊ばせたい」という声が放射能
線量測定となり除染活動となって作業が進められている
。この種の
曽野綾子氏の発言は何を言っても空疎に聞こえる。
【1】震災と運~誰にも操作できない力
【2】震災と責任~「絶対安全」神話の崩壊

ここも前出の「フクシマとヒロシマ」に重複するので除く。
以下も除きます。
第6章 十人の美女の寝顔
内容(「BOOK」データベースより

世間知ずで不見識な曽野綾子氏よ

世間のことに口を出すのはお止めなさい

みっ・と・も・ない

        ・・・・・・だそうです。


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東日本大震災 曾野綾子氏の個人的記録という欺瞞Ⅱ

2011-11-02 21:57:15 | 日記
東日本大震災曾野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
曽野綾子氏の産経新聞のコラム「イエスマンの国」を読む
東日本大震災 曾野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
揺れる大地に立って曽野綾子氏東日本大震災個人的記録の欺瞞3
東日本大震災・曽野綾子のキーワードは曽野綾子キーワード
の中でも重要なキーワードの一つのようでした。WEB上での数値規制
と同時に一時、東日本大震災・曽野綾子のキーワードも曽野綾子キー
ワードの列から削除されたようですが、数値規制が効力?を発揮したせ
いか東日本大震災・曽野綾子のキーワードが復活したと夫は苦笑して
いました。

 その後、曽野綾子氏の著書「揺れる大地に立って」の売れ行きは如
何なものだろう。先の当ブログ「東日本大震災 曽野綾子氏の個人的
記録という欺瞞」では、この本の帯の小見出しの批評を行なったので
今回は目次を見ながら、前回と重複する部分もあるが曽野綾子氏を
攻め続けたい。
 まず「私たちはいかに立ち直り、何をなすべきか?すべての日本人
に捧ぐ、書き下ろし緊急出版
!」これは目次の前に書き出したキャッチ
フレーズか?先の「老いの○○」が100万部売れた勢いに乗じて柳の下を
弄ろうと編集部の意気込みだけが先走ったフレーズだ。編集部よ、伝
えるが良い!「私たちは」ではなく「私は」でしたと。なぜか?曽野綾子キ
ーワードで検索しているうちに面白いタイトルの記事に出会ったから尚
の事、一人称が必要だ。
【「論談TV 曽野綾子先生、使い方間違っています
投稿者: 投稿日時: 2009/09/25 21:43:32
9/25日付け産経新聞の1面に作家の曾野綾子の
小さな親切、大
きなお世話
というコラムが掲載されている。「日本という国がどれほど
ありがたい自然の状況にあるかということを、多くの日本人は、ほとん
ど考えたことがないのかもしれない
という書き出しで始まる文章は、
サウジやクウェートは降雨がきわめて少ないと続き、こう書かれている

日本のように自然の恩恵を甘受していることはできない」】
この甘受を巡る曽野綾子ファンと思しき人たちの擁護論のあまりの的
外れに、業を煮やした投稿者が曽野綾子氏のコラムの全文を紹介して
いたので読んでみたが投稿者の主張通り文脈からして曽野綾子氏の
明らかな誤用だ。投稿者の主張は理路整然としていて実に明快。「甘
受」の語源にまで遡って曽野綾子氏の言葉の用い方は間違いではな
いとする曽野綾子擁護論者たちは産経新聞が文壇専門紙や学術紙
ではなく「大衆紙」であることを念頭に置いて議論すべきだ。従って一般
的な解釈をするのが通常で「享受する」等の語彙を用いるのが当然。
また論旨の方に重きを置くべきで「誤用」云々は枝葉末節だとする意
見もあったが、忘れてはならないのは曽野綾子氏は歴とした職業作家
で「文化功労者」だということだ。「職業作家」でなくても大衆紙に公表
する前に自らの作品を推敲するのは当然のこと。いわんや「文化功労
」だ。そんなに軽い訳がない、極めて重い。曽野綾子氏の軽率さは
日本の文化功労者はこの程度だ」と日本の恥を世界に晒し、ひ
いては日本の威信を失墜させていることを曽野綾子擁護論者たち
は思い知るべきだ
要するに曽野綾子氏は二年前と全く変化も進
歩もない。つまり立ち直るべきは曽野綾子氏ご自身で、だから自問
自答の形を取り
私は、なにをなすべきか?」となる。それは即ち筆
を折るべきだと言う以外にない

 さて、目次へ行こう。
第1章 この世の「原型」に見出す光。このフレーズは曽野氏の文章の
中で初めて目にするタイトルだが、ふと、2chの曾野綾子文学板のあるレ
スを思い出した。
この人は、たぶんDV家庭育ちだからだろうけど、人の気を引くよ
うなテーマの小説を書いたり、人の気を引くような事を言うのはうま
いんだよ
。奥になにかがありそうに思わせるのがすごくうまい。実際
は自慢とかくらいしか無いんだけどね
。・・・確かに読んでみたいと気をそ
そらせるタイトルではある。しかし、後でガッカリするといけないから、
ここはレスの言葉を信じよう。そのうちネット上でいくらでも閲覧できる
ようになるだろうから・・・・それでは先を急ごう。
第2章 過酷な運命との遭遇【1】震災以前~大東亜戦争の体験
この章については前のブログで言及したので除きます。
次の【2】震災以前~「もうダムはいらない」の浅慮。またぞろ出してくるな
んて懲りない御仁だ。「他者を浅慮という浅慮」と、こう反駁したい。出版
社も「老いの才覚」がトップセールスを記録したからといって、その売り
上げにあやかろうと筆者や内容を吟味もせず、なりふりかまわず繰り出す
無節操さは、もはや拝金主義に堕したと言うほかない。まして八ツ場ダム
に関する曽野綾子氏の政治的な発言を敢えて「個人的記録」としたの
は東日本大震災以来の曽野綾子氏への批判を交わそうというね
らいが極めて露骨に表れている唾棄すべきタイトルだ
。従って、この
浅慮のくだりについては先の当ブログ「曽野綾子氏の責任と良心を問う」
でも記述したが再度レジスタンスを試みたい。先の当ブログの転記。
第二点の「記述内容に対する責任と良心」。ここで問題にしたいの
は八ツ場ダム建設中断に関する曽野綾子氏の見解と日本の建築物に
言及した下りだ。まず
私は前原元国交相の取った八ツ場ダム建設中断
の判断にも改めて怒りを覚えた。あの時、誰がどう言ったかは私の手元
には記録がないけれど、つまりあんなダムは差し当たって必要ない、とい
うことであった。近年の日本の経済が縮み加減であることを見ても電気
の必要量は減りつつあるし、何百年に一度の干ばつや出水のための考
慮をすることはない、という論理であった
。」「文化功労者」が、こういう政
治的な事柄を論評すること自体が問題なのに、デリケートで且つ重大な
政治的事柄を
手元には記録がない」と言いながら「という論理であった
」と平然と幼稚で勝手な論理を展開し、物事を断定するという浅慮
を曽野綾子氏自身が行なっているというのにだ・・・・。
 先月、読売新聞に<八ッ場ダム>建設に「反対」する学者の声明文
が掲載された。
<八ッ場ダム>「建設が最良」に学者10人反論 声明文
建設の是非を検証中の八ッ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)につ
いて国土交通省関東地方整備局が「コスト面などからダム建設が最良」
との結果をまとめたことを受け、河川工学や防災地形学の学者10人が
近く、野田佳彦首相や前田武志国交相に検証の抜本的なやり直しを求
める声明文を提出する。検証結果について「科学性・客観性が欠如した
ものと言わざるを得ない」として、公開の場で公正な検証を行うことを
求める方針。声明を出すのは大熊孝・新潟大名誉教授(河川工学)、奥
西一夫・京都大名誉教授(防災地形学)、今本博健・京都大名誉教授
(河川工学)ら。
 関東地整は利根川の治水対策にあたり、今後20~30年で達成可能
な毎秒1万7000立方メートルを河川整備計画相当の目標流量に設定。
ダム建設に加え四つの代替案を比較検証した結果、コスト面ではダム案
が約8300億円で最も安く、10年後の治水効果を一番見込めると判
断した。利水面でも必要性があるとした。
 これに対し、今本名誉教授は「治水面では科学的な裏付けがないまま、
ダムを造ることを前提に目標流量を設定している。八ッ場の洪水調節効
果量は少なく、全く役に立たない。利水面も流域自治体の意見を追認し
ただけで、現状とかけ離れた過大な水需要予測になっている。河川行政
に批判的な専門家も入れた第三者機関を設置し、公開の場で検証してほ
しい」と話す
。」
 このように八ッ場ダムの問題は学問的な領域を含めた議論となってい
るのに「近年の日本の経済が縮み加減であることを見ても電気の必要量
は減りつつあるし、何百年に一度の干ばつや出水のための考慮をするこ
とはない、という論理であった
」と曽野氏は幼稚で勝手な論法で説得し
たつもりだったろうが見るも無残だ。曽野綾子氏よ!「老いの才覚」程度
のごくごく狭い範囲に限定して論評するようにしなさい。政治のことに
ついてまともに論評できないのだから、恥の上塗りなんてものじゃなく
もう見るに堪えない。きっとまじめな方なのでしょうけど、ここまでく
ると可哀想で涙が出てくる。ところが曽野綾子氏はあくまで強気だから
残念ながら手厳しく臨む以外にないのだ。
 次の【第3章「想定外」との対峙】こ・れ・だ・よこのタイトルだと曽野
綾子氏は「想定外」と言い訳する勢力といかにも闘ってきたかのように聞
こえるが、とんでもない!曽野綾子氏こそ「想定外」と言い訳する東京
電力を擁護してきた張本人ではないか
なにを馬鹿げたことを・・。
それなのに【1】震災当日~過信されてきた人間の力。などとよく言える。
過信されてきた」ではなく「過信してきた」だろう?「過信」してきたのは
曾野綾子氏が擁護してきた東電の武藤副社長を始めとした東電と経産
省、御用学者で造ってきた「原子力ムラ」ではないか。このことはとっくに
解明され国内外の公的機関からも厳しい指摘を受けて白日の下に曝さ
れ周知の事実となっているというのに曾野綾子氏の浅知恵で言うこと
ではない。
まして【2】震災以後~緊急事態に備えるという国民の義務などと「薄っ
ぺらな世界観の持ち主
」がなにを説教がましい。ここでも相変わらず
スイスの作文を持ち出しておられるのだろうか?すでに東日本大震災
で個人の力には限度があり、次の災害に向けて個々人が備えていても、
それぞれの経済的理由等もあってままならないことは明々白々だ。
政府や行政、そして東電等にこそ意見を具申すべきものを、そこに
は一切言及せず国民に物申すだけとは正に為政者の立場に立っ
ていることを曽野氏自らが証明している
。まじめにこういうことを仰っ
る曽野氏の姿は滑稽の極みというほかない。

曾野綾子氏よ

為政者然とするのはお止めなさい。

滑稽なだけですから・・・

        

そして、その姿を

当方は甘受できません



           ・・・・・・だそうです。

長くなるのでなるので、これ以降については次回に割愛します。


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