非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

東日本大震災 曽野綾子氏の果てしない幻想

2011-09-27 07:56:48 | 日記
曾野綾子氏の産経新聞のコラム「イエスマンの国」を読む
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曽野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅳ
東日本大震災 曽野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
東日本大震災・曽野綾子のキーワードでネットを検索しても
曽野綾子さんの週刊誌掲載のコラムのタイトルを使って曽野綾子さ
んの文章を載せていた曽野綾子ファン方々のブログを含めていくつ
かのブログが表示されなくなったので夫は気の毒がっています。

 このブログは週刊ポスト4月1日号の東日本大震災特集に寄稿し
た曽野綾子氏のコラムについて前々回からの「曽野綾子氏の間違
いだらけの文章作法」「曽野綾子氏の責任と良心を問う」に続いて
今回で3回目となる。曽野綾子氏のコラムは著名?な「作家」「文化
功労者」でありながら記述していることがノーマルではない部分が
ある以上、曽野綾子氏を放置しておくわけにはいかないのでこのよ
うに攻め続ける。曽野綾子氏のコラムの全文を紹介しておられる宇
佐美保氏のブログを一部抜粋させて頂くので宇佐美氏の「復興は平
和の礎(曽野綾子氏と石原慎太郎氏)」をあわせてお読み頂くとあ
りがたい。
 さて、曽野綾子氏のこのコラムは冒頭から「近年落ち込んでいる
と言われる日本の凋落
」などとレトリックというには程遠い稚拙な
文章表現の為、何を言いたいのかさっぱり分らない。だが強いて
言えば「1000年に1度の災害」を言い訳にするなと仰りたいのだ
ろうか?これも先のブログで指摘したように「1000年に1度の災害」
を「想定外」と言い訳したのはほかならぬ東京電力だ。
ところがWiLL」6月号「昇一先生の美女対談」『不幸からの贈り物
が日本人を鍛える』(渡部昇一&曽野綾子)抜粋で曽野 「こんなに
ひどい津波 は見たことがない、・・・・そもそもの想定が甘かったな
ら、責任は東電ではなく設計側にあります

言い訳をする東電をこのように擁護しながら、一方では前原議員
には「言い訳するなこの甚だしい自己撞着をどう説明するおつ
もりか?最近、その東電が2008年に貞観津波を把握し現在の防潮
堤が低い事を認識していたことが判明した。調べもしないで東電を
擁護したことがどういうことになるのか考えもしなかったというこ
とですか?それなのに良心も痛まないし責任も感じないのですか?
だから当方も手を緩めず厳しく攻めるしかないのです。
では参りましょうか、前段部分から。
十六年年前の阪神,淡路大震災の時にも略奪放火はなかった。
部分的なコソ泥はあったろうが、被災民その他が、暴徒化する気
配も全く示さなかった。その理由の八割は、日本人の受けて来た
教育と資質だと私は信じている。もっともそればかりというのも
いささか甘いのであって、今回は略奪する店一軒現場には残され
ていなかったこともあろうし、日本人にはまだ政府が何とか最底
限の水と食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうとい
う確固とした信頼があるからではないかと思う
。」この部分は宇佐
美氏も指摘している。なにを「もっともそればかりというのもい
ささか甘いのであって
その理由の八割は」ということは、後の
二割は暴動が起こったかもしれないと言いたいようだ。「今回は
略奪する店一軒現場には残されていなかった
」ということと「日本
人にはまだ政府が何とか最底限の水と食料、雨露をしのぐ屋根
の下を与えてくれるだろうという確固とした信頼があるからでは
ないか
」なんということを!調べもしないで寄稿するなんて「作家」
のすることか。甘えている」のは曽野氏自身ではないか。
宇佐美氏が次週の週刊ポストの特集記事を引用しておられるの
で、当方はそれをさらに転記させて頂いた。
『週刊ポスト(2011.4.8号)現場の磁力:78年前の〈昭和三陸大津
波〉「見よ!希望の光に輝きつつ」』「『岩手懸昭和震災誌』は叙
説にこう綴った。『人々は絶望から立ち直り、希望の光を見出す。
県が救護本部を設置し、救助物資の配給を始め、陸軍の救援隊、
医療救護班も到る。陸は孤絶している。横須賀などを発した艦隊
が海から衣類、食糧を満載してきた。驚くべきは、この絶望にあ
って奪う者はなく互いに分けあい、一致団結する者しかいない』
と続ける。現在とは比べものにならない経済状況である。この津
波の10か月前の新聞は、ワラビの根しか食えない、凶作で『農漁
村の欠食児童が20万人を突破』と報じた。2年前から『満州事変』
に突入している。そういう時代だった。」
調べればこういう記録が
あるではないか。上記のような明治以来の教育勅語を中心と
した儒教的思想教育による精神的風土があったことを差し引いて
も阪神大震災、東日本大震災で暴動など起こるはずがないことは
自明の理だ。従って「日本人にはまだ政府が何とか最底限の水と
食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうという確固とし
た信頼があるから
」とは決して言えないし、今回は略奪する店
一軒現場には残されていなかった
」とは甚だしく被災者を愚弄し
た記述。ついでに言わせて頂くなら、4月の読売新聞の識者
インタビューで仰っている「そうした時代を生きる私たちは、国家
やシステムを疑い、それらにあまり依存しないことだ
」と言いなが
ら、一方では「信頼があるから」暴動が起こらなかったという、こ
の発言の違いをどう説明するのですか?全く話にならない。
 次の「私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はない
ご自身を「小説家」だと知らない人が多いと思って「私は小説家」
と前置きしたのですか?こんなことを言うから「自意識過剰」と批
判される。何も小説家でなくても我々庶民は基本的には体験でも
のを言う他ないし、そうしている。しかし小説家というのはすべ
て「体験」でものを言ったり書いたりするものなのですか?おかし
いではないですか。「私小説家だから」と言うのであれば解らな
くもないが、世にある小説はすべて体験に基づいているものなの
ですか?じゃ「時代小説」は、「SF小説」は、となりますよ。
強いて言えば取材やその他の調査で得たものを「体験」もしくは
「追体験」と言えば言えなくもないでしょうが、我々庶民の小説
に対する理解は作家が取材その他で得た資料や知識を基にフィ
クションの世界を作り上げていくプロの世界だと思っているのです
が。なのに「私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はな
」だからあなたを病気だと言うのですよ。名付けて「自意識過
剰病
!」おまけに「私は小説家」と断ったわりには、その後の記
述は小学生並みの作文。
 小学生の作文から急に大東亜戦争
の体験の話になったりするので面食らう。昔、当方が若造の頃、
年配の人に良く小言を言われたのをふと思い出した。「今時の若
いのは」。曽野氏の言っていることは、その小言に似ていて「これ
が老いの才覚の一つなのか」と情けなく思う。「老いては子に従い」
の諺どおり年寄りは余計な詮索や口出しをしないことが「老いの
才覚」の一つではないのですか?それから「サハラ横断」一人で
行ったのですか?スタッフが随行したのでしょうよ。おまけに何日
分かの食料やミネラルウォーターを持参しての話でしょう?まさか
コウモリやサソリを捕まえて食料にしながら横断したわけではな
いのでしょう?そんなの「原始で暮らした」とは言えません。
それでサハラのことをネットで検索したら「サハラマラソン」が
でてきた。「競技者は7日分の食料や飲み物、その他、寝袋、炊事
道具、懐中電灯、コンパス、衣服、薬など諸々の必要な荷物(お
よそ6kg~13kg)を背負いながらマラソンをする。水とテントは運
営側から提供される」相当過酷なレースだ。去年、このレースに
73歳の日本人女性が参加して完走したという。曽野氏の体験など
は大したことではないし、砂漠へ行ったからと言って原始を体験
したことにはならない。なぜアマゾンへ行かなかったのか?アマゾ
ンの奥地で食料を一切持参せず原住民と一緒に寝食を共に1週
間過したとなれば、それは「原始を体験した」ことなるだろう。また、
われわれ庶民にはサハラ横断するほどのお金がないから、せめて
北海道の日高山脈くらいにして欲しい。夏場、ヒグマのうろうろ
する所で銃器を持たず食料も現地調達で1週間過したというのであ
れば、「原始を体験」したと大手を振って言えます。何かを言わ
んがためにこういうことを持ち出す手法は幼児性の現れだ

だから読む者の嘲笑を買う
 そして次に例の政治家が叫ぶテーゼを巡る発言。「安心して暮
らせる生活」「安心して暮らせる老後」という言葉は「もともと詐欺
なのである
」などと言うあたりも曽野氏の病状の一つ。先のブ
ログでも触れたが、これは曽野綾子氏の「不安の概念」という哲
学的命題を追求する視点
での話で庶民の実生活や政治家の
政治活動に理解がないための錯覚や幻想に過ぎない。「安心して
暮らせる生活を」というのは戦後政治の中で古くから叫ばれてきた
合言葉だ。民主化運動や様々な政治活動もあって今日のある程
度の安定した社会がもたらされたことは紛れもない事実。例えば
1955年までは農業、自営業者、零細企業従業員等約3000万人が
無保険で、これが社会問題となり政治家や市民運動等の活動で
3年後の1958年に国民健康保険法が制定され1961年に国民健
康保険事業が始まって国民皆保険体制が出来上がった。これな
ども「安心して暮らせる社会の実現」を標榜して運動してきた人々
の成果でもある。また高負担高福祉のデンマークやスウェーデン
等の北欧の国々やカナダに「安心して暮らせる老後」がある以上
「詐欺」などとは言えない。現実にある世界だ。詐欺などと叫ん
でいるのは曽野綾子氏くらいなものだろう。むしろ曽野綾子氏の
主張は別の意味で危険性を孕んでいる。曽野綾子氏は「文化功労
者」でありながら「安心して暮らせる社会」を希求する国民運動
を阻止し、国民を他へ誘導しようとする一部の保守勢力や極右の
先導役を務めることにもなりかねない。「安心して暮らせる生活
や老後」を希求する国民や政治理念を否定するのであれば、潔く
「文化功労者」を返上して一部の政治勢力の旗振り役に専念すれ
ば良い。
 そして後段のサブタイトル「水と電気がある稀有のぜいたく」。
言わんとしていることは解らなくもないが、ご自分は何なのです
か。「水は屋外タンクに二百リッターは貯水してあるシステムだっ
た。・・・・・・・水はペットボトルに二百本以上の備蓄がある
。」それ
こそ庶民も真似できない「稀有のぜいたく」をしながら国民には
自分が体験したからと言って、アフリカと比較して「稀有のぜい
たく
」をしていることが分らないか?何を本末転倒!チンプンカンプン!
何度も言いますが明治以来、追いつけ追い越せと頑張ってきた西
欧となぜ比較しないのですか?アフリカとは文化や歴史があまり
にも違いすぎるでしょう。わが国の先達が血の滲むような努力と
高い納税義務の上に築き上げてきた今日の日本。贅沢を戒めるの
だったら別の言い方があるでしょう。「太平洋戦争で犠牲になっ
た310万人のおかげで今日の平穏と贅沢があることを忘れてはな
るまい」と言われるのだったら納得します。おまけに「水と電気が
ある稀有のぜいたく
」の日本を「私は天国だと言い続けてきた。
しかしそのような日本を、格差のひどい社会だと言った政治家や
学者が現にいたのもほんとうだ
。」なんという言い草。
なんという比較。「日本は天国だ」と思い、主張することを妨げ
はしないが、自己の主張を既成事実のように錯覚して正当化する
為に「格差社会」という社会問題を持ち出して比較するナンセン
スは曽野氏が病気であることを証明している。しかも「格差のひ
どい社会だと言った政治家や学者が現にいたのもほんとうだ
」と
言って格差社会の現実を否定するかのごとき発言は由々しきこ
とだ。
 さらに国民には「甘えるな」などと差し出がましいことを言いなが
ら同胞のことにはほとんど関心がない。その証拠がこれだ。「どん
な事故も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない

などとなにを寝ぼけたことを仰る。ここは宇佐美氏も指摘してい
るが、広島・長崎の被爆では一瞬にして20万人の同胞が亡くなっ
ているというのに、曽野氏には戦争を体験したと言いながら同胞
のことなど全く念頭にないからエイヤーでこういう間抜けな記述
をする。曽野氏の文章は幼稚で非論理的で、思索や検証の形跡
もない。正に戦後の文壇史に汚点を残す売文家だ。
 曽野綾子氏よ。ついでに言わせて頂くと週刊ポストのコラムと
言えども公共性がある以上は、あなたが気ままに書ける日記帳
ではないのですよ。言っている意味が解りますか?

こんな病的な「文化功労者」曽野綾子氏には
二音節、三音節がお似合いのようだ。

なにそれ!
え?・・・ご存じない?

それなら言って進ぜよう!

※曽野綾子氏側は相当神経質になっていて、たいした罵詈雑言
でもないのに削除要請を行ったようだ。これだったらどうだ。
○○!  ○○!  ○○ケーッ
読む人の想像力を刺激してかえってよいのでは・・・・。

ということです。



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東日本大震災 曽野綾子氏へのおもしろ批判選集・追補あり

2011-09-17 10:14:53 | 日記
東日本大震災 曽野綾子氏の産経新聞「透明な歳月の光」の怪
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞「編集手帳」

先だっては誤ってまだ公開するようにはなっていないものを公開
してしまって大変ご迷惑をおかけしました。お詫びいたします。
夫がネットからの資料収集中だったのを勘違いして公開して申し訳あり
ませんでした。重ねてお詫びいたします。
 
 東日本大震災と曽野綾子氏の名前でネットを検索することが、いつの間
にか日課になっている。大震災になって曽野綾子氏の記事をネットで探
しているときに、ひょいと2chの「文学板」というのを覗いてみた。
曽野綾子氏の書き込みは限度一杯の1000個の書き込みがあり、覗いた
「曽野綾子板」はパート4に及ぶロングランになっている。中は罵詈雑
言誹謗中傷の読むに耐えないものもあるが、すべてを読んでしまいた
い程の熱気があり切実な訴えもある。中には、先のブログで書いたよう
に「哲学教室に最初に入ったかのような驚きがある。」そういう書き込
みもあって楽しかった。その中でこれはと思うものを以下に紹介したい。
【みんなのあこがれ】曽野綾子スレ3【才女】その他の2chの文学板
ー「才女を超えて」という曽野綾子氏のエッセイについてー
○「超えて」というから 才女どころじゃない、もっと上なのよ、あた
しゃ って心意気だね。謙虚の気配もないですねえ。
○少なくとも本人が了承したタイトルでしょ。
○まあしかし、現代の読者はその事実をよく知らない
(曾野綾子が“才女”の代名詞のように呼ばれていたこと)
○そしてその事実はそれほど世の中的には浸透していなかったというこ
とと曾野さんの自意識過剰ぶりは変わらないと思うけどね
○枕言葉にせよ何にせよ、自分で言ったら滑稽な言葉だって事に変わり
はない。
○編集者が考えたからなんなんだよ?
○それを拒否出来ないほど曽野の立場が弱いとも思えない。どっちにし
ろ片腹痛いんだよこの×××の自意識はさ。
(当方のコメント:アイロニィを込めて言うならば「才女時代」
の片割れ有吉佐和子に「有吉を越えたわよ」)

ー他のコラムについてー
○ホームレスをやるのとホームレスを見るのとはまるで別の行為。曽野
綾子の図々しい所はすごい世界をいろいろと見てきたと、すごい世界で
自分が生きていたってのをあえてない交ぜにして駄文を書くところ
○結局、このばあさんの言ってるのは「上を見るな、下を見て現状に満
足しろ」ってのをひたすら繰り返してるだけだからな
○産経新聞を読んだが、自殺願望のあるひとは断食をしてみてはどうか
と書いていた、このひと。自身が目を悪くしたことがあって、自殺願望
をもったことを例にとり(按摩になれば作家をやめても食っていけると
思っていたそうだがw)、そのときに人に誘われてトルコを旅し、腹が
へってそのことばかりが気になって、自殺願望を忘れていたことがあっ
たからだと。ひとの自殺願望もその程度のものだと思っているらしい。
○何でもいいから実際のデータを持ってこい。論拠が空想と人生訓しか
ないような説教はブログでやれ。
ーエッセイ「日本財団9年半の日々」ー
「会長になる時に私が出した唯一の条件は、『無給である』というこ
とでした。それを日本財団に申し入れたら、笑われます。「財団では、
株式会社の定款(ていかん)に当たる『寄付行為』の24条に、会長は
もともと無給であることが明記されているんだそうです。つまり、前
会長の笹川良一さんも無給だった」
(当方のコメント:氏は会長になるまでは財団の非常勤理事をして
いたので会長職が無給の名誉職であることを知らぬはずはない。
まして笹川良一氏は日本船舶振興会(現日本財団)の会長の他、
全国モーターボート競走会の会長等いくつかの財団の役員を兼
務していたはず。「無給」を強調したいための虚言に等しい。)

○小説として読むと評論だし、評論として読もうとすると作り話みた
いだし、すっきり感は得られない
○自称保守らしいが東洋的でも日本的でもない。だからと言って西洋
文明、文化に対する造詣が深い訳でもない。その時代その時代の時流
に合わせたアンチ革新の言論をしてきただけ。ただアンチだから、革
新勢力がほぼ絶滅したような状況下ではもう書く意義もなくなりつつ
ある。
○小説にいたっては作者の独自性が無い。特ににプロットの単純さに
おいては中高生の文芸部でもざらに書けるのではないかという平凡さ
が特徴。こんな所ですかねー。
○今日のサンケイ読んだら、大相撲だとか作家だとかは世間の倫理と
はずれた世界に生きているのだから世間の倫理で判断するな旨のコラ
ムが載ってた。倫理的に優れていても作品がつまらない作家じゃ駄目
だ。とか、発言の裏の深い含蓄が読み取れないと駄目だとか。まあ大
相撲と石原慎太郎と自分を擁護しているような文章だったな。
○ジャーナリストでもないのに知ったかぶるからな。ジャーナリズム
はジャーナリストの仕事だっつーの。作家ならクオリティーの高い作
品を発表し続けなさいと言いたい。
○狙いとしては過度なアファーマティブ・アクションに対する異議申
し立てにあるわけなんだけど、言い方に芸がないから単なる差
別的言辞や自慢話
としか受け取られないの。
ー「弱者が強者を駆逐する時代、 オバマの血」ー
『オバマの血の中に半分流れている黒人の血が、どのような効果をも
たらすのか、私は非常に興味がある。日本の多くの人たちが、アメリ
カは多民族国家だから白い人、黒い人、黄色い人もいて、それらの肌
の色はアメリカ人としてすべて組み込まれ、平等の意識の元に理性的
な統一がなされるだろう、と思い込むかもしれない。しかしオバマの
黒人としての自覚は、決してそんなに簡単なものではないだろう。』
○さんざんアフリカ諸国を回ってきて世界を知ってるなんて豪語して
いるお方が "黒人"ねぇ。アフリカ諸国の文化風習の差異並びにネイテ
ィブ言語のそれはヨーロッパ諸国のそれを凌駕するぞ?一括りに黒人
て100年前の知識しかねえんだな。現地行ってたくせに何を見てき
たんだこいつは
○神の前で人間は平等だ、と言うのはわかるが、神の前で人間は同等
のレベルで思考すると、曽野氏は考えて居る。

○こういう時に自分の備え並べ立てて得々と自慢する。あげく見開き
2ペ-ジのスペースで被災された方々への思いは何一つ述べられるこ
とが無い。ただ、日本人は備えが甘かったという。じゃあ、この方は
コンロだの水だの備蓄してるからいきなり津波が襲っても平気だとい
うんだろうか。
○読み取れるのはこの人の現代日本人への憎悪のようなものと、自己
愛(自慢)のみ。
○そりゃ神奈川にいたら慌てないでしょうね。子供に笑われるよホン
ト。震度7の地域にいた人が慌ててるように見えるのですか? 慌てる
暇も無いですよw
○ただ、この人はいくら批判しても、一種の無誤主義みたいな精神状
態だから自分を批判するものがたとえ一億人に及ぼうと自分はただし
いと考えるんだろうな。批判されればされるほど、殉教者のような恍
惚を覚えたりして(笑
○まあ、私はこんなに不幸な生まれでこんなに苦労してきたんだ。お
前らは苦労が足りない。って、何十年もそう言うメンタリティーでや
ってきてるんだろ。もう神経回路が硬直化していて死ななきゃ治らな
い状態なんだろうよ
○そうだね。女性的と言うと問題かもしれないけど、なにか狭い世界
で物事を判断してる、わるい意味で主婦の世界のような。自分の体験
の範囲、それと自分が接しえた範囲の人間の意見だけがベースになっ
ていて、ぜんぜん勉強してない。
○災害に際しても、自分のサハラの経験を振り回して寸豪も疑うこと
が無い。新しい現実を認めない、今ある現実を見て物事を考えようと
しないわけだ。
○齢を取ると小説的な文章を書くのが億劫になる。というかもう書け
なくなる。しかし世間一般の話をどうのこうのは死ぬまで言える。
ただそれは自分の世界観・人間観で語るわけで、その世界観が薄っぺ
らで人間観には頷けないと思う人たちには聞くに耐えないものだ、と
なる。それでも語る。聞くに耐えないという人たちはバカな人たちだ
から、と。
○この人の目には被災しながらがんばってる消防団員や現地の人、家
族を亡くしても未来に向けて頑張ろうとしてる若い人なんて見えてな
いんだろうか。
○国を信用するのが甘いとか、自分は自分で防衛するのがあたりまえ
だとか、これ、国家とか社会の仕組みの基本を完全にぶっ飛ばした思
想だけど、自分の主張してることが何を意味することになるか自分で
理解していないのが決定的にヤバイ。
○「私はあまりにも多くを聖書から得ました」普通“あまりにも”は
否定的文脈で使われるから、聖書なんて真面目に読むな、の意味なの
かな?
○曽野先生に希望するのは、こういう話を『WILL』のような雑誌
の誌上でなく、現地に出向いて、そこの避難民や、悩む中小企業経営
者、農業経営者、将来不安な若者たちの前でしゃべって、ぜひ元気付
けてもらいたいですな。
○家も家族も流され、身一つで逃げるのが精一杯だった被災者に、
「避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ」頭おかし
いでしょ、大先生。それは新潟中越沖地震の際の放言だという事を差
し引いても頭おかしいですよね。
○曽野に指摘されなくても、瓦礫の中で木材を集めて簡易風呂を炊い
て 入っている被災者たちがいた。(4月16日)海外のメディアが
驚いたそうだ。
○まぁ天変地異が起き異常が持続する世の中になると鬼面人を脅すよ
うな言説を弄する「異常人間」が跋扈するようになる。彼女もその類
だ。曽野綾子「電気が消えた時点で、民主主義というものは停止する
んです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。」
何を言いたいのかわからん! 理解不能なことをおっしゃる。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。
○金のある者はより安全な場所に身を移し、貧しい者は避難できない
まま死ぬ。人の命を分ける不平等が姿を顕す。
○サンケイ新聞は、この人を高く評価しているんだね。いつも読むと
思うのだが、もう少し理詰めに意見を書いてもらいたい
○曽野は一度、避難所の硬い床で寝てみたらいい。 今度の避難で2ヶ
月も床に寝て背中に床ずれができて苦しんでいる人が多い。高齢だと
それで「じょくそう」になって命にかかわるようになる。
○IAEAの事務次長を務めたスイスの原子力工学専門家ブルーノ・
ペロード氏がサンケイ新聞のインタビューに応じ、福島第1原発の事
故について,『東京電力は20年前に電源や水源の多様化、原子炉格
納容器と建屋の強化、水素爆発を防ぐための水素再結合器の設置など
を助言されていたのに耳を貸さなかった』と述べ、『天災というより
東電が招いた人災だ』と批判した。(東電に責任はないと言った曽野
綾子氏に対し)
○関東大震災の時に、被服廠跡地というかなり広い避難場所に逃げた
人々が、後に火に包まれて大勢焼け死んだ。なんでそんなことが起こ
ったのかと思ったら、避難民が大量の家財道具(それこそ布団とか)
を持ち込んだことが一因らしいのです。荷物が可燃物になってしまっ
たのです。災害の際は基本的に身一つで逃げよ、自分だけでなく他
人の命まで危うくするから…という教訓と受け取りました。( 曽野綾
子氏がコラムで被災者に向かって、毛布や布団を担いで避難するのは
当たり前だと発言したことに反論したもの)
○ネットがなくて朝日的な理想主義が主流だった時代には、こういう
極論を言う評論家も必要だった。この人の問題は、歴史的な役割が終
わったのに、同じ意見を言っていること
○他人の真の事情は(知りようが無いし)わからない分、他人の事は
一刀両断、情け容赦も配慮もなくぶった斬る傾向はあった。
○冷静に考えてみて片手落ちの論理だよ。東電に対して「想定外だか
ら仕方がない」といいながら普通に暮らしていた人に対して「想定外
でもちゃんとしろ」被災者の何がそんなに勘に触ったのかね?
○ほとんどの被災者は若者は年寄りを年寄りは子供たちを庇いながら
限界まで寒さと恐怖に耐えていたよね。もしかして東電の社長を土下
座させたプロ市民の釣り餌に食い付いちゃったとか?いつも何かに怒
ってないと死んじゃうのかな?
○一昨年くらいに教育TVで見た曽野綾子先生は、ものすごく大きな垂
れさがるイアリングをなさっていて派手なプリントの服。言葉は悪い
けど、場末のバーのママみたいだった。年齢を重ねると、内面は外見
にあらわれてくる、という言葉を胸に刻んだ
○「ロバが旅に出ても 馬になって帰ってくることはない」っていう
外国のことわざがあるけど冷酷なナルシストが、他人の金を使ってど
んなに慈善活動をしたところで、ごくごくわずかな慈悲の心さえも持
てないのね。
○読売の時代の考証だったけね?自伝のひどかったね。若かりし頃の
美人写真載せまくって朱門と結婚して子供が産まれた時もし生活して
いけなかったら真剣にバキムュームカーの運転手になろうかと思って
たって。聖心出たお嬢様に周りがそんなことさせるわけないし自分も
いざとなったらできもしない癖に下碑ユーモアとるつもりで言ってる
としか見えず今回も福島の作業に行くはずもないのになんて碑しい根
性の持ち主だろう。バキュームカーの運転手をどこまでバカにしてい
るんだろう。読売に抗議してやったけどこのおばさんの品性下劣さは
ヘドが出る。
○この人は、たぶんDV家庭育ちだからだろうけど、人の気を引くよ
うなテーマの小説を書いたり、人の気を引くような事を言うのはうま
いんだよ。奥になにかがありそうに思わせるのがすごくうまい。実際
は自慢とかくらいしか無いんだけどね。
○保守派ということで今まで批判したくなかったけれど今回の発言、
これはだめだ。底が見えた。ついでに言うと小説がつまらない。
文学的な満足感も得られないしエンタメでもないし中途半端で毒にも
薬にもならない。
○曽野先生の本何冊か読んだけど、独特なアイディアなんかがあって
すごいと思ったけど、残念ながらすべてに論理がない。
     
  以上です。いかがでしたか?

<追補>
○今は昔。およそ40年前に中学校のPTAで教育について勉強しようと
曽野綾子の本の読書会が催された。あらかじめ決められた本を読む
ことになった。読んだ人の感想「ありきたりのことしか書いてない。
別に読む必要はなかった。」・・・言ったのは義務教育のみ修了・昭和
ひとケタ生まれのうちの母。
○自分は大学・社会人時代を通じて曽野綾子の小説・エッセイを読み 
面白いと思い またその主張に賛同した期間があった。疑問に思っ
たのは「二次方程式の解の公式不要論」「学校で奉仕活動導入論」
あたりから。小説家の韜晦を真に受けてはいけないんだ、と気がつ
いた。小説も主題はわかるけど、文章に魅力を覚えなくなり読まな
くなった。小説家としての力量はあまりないのではと感じた。でも
まだ「曽野綾子は知識人だから、凡人にない発想で人々を鼓舞でき
る部分がある」と思っていた。
そして今年WILL5月号の渡部昇一との対談。災害後の日本に対する
展望にヒントが得られるだろうと思って読み始めたらどんどん気持
ちが悪くなり、読後雑誌をすぐに捨ててしまった。現在の感想 曽
野綾子は小説家としても文化人としても耐用年数は過ぎている。

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東日本大震災 曽野綾子氏の間違いだらけの文章作法

2011-09-17 10:05:57 | 日記
東日本大震災 曽野綾子氏の産経新聞「透明な歳月の光」の怪
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曽野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
曾野綾子の「生活保護受給者」攻撃と「自殺のすすめ」
東日本大震災から約半年。曽野綾子さんをはじめとした何人か
の有名な方々の被災者に対する心無い発言に夫の苛立ちは募るばか
りで、少々心配になってきました。


 当ブログのこの記事は過去4度、webサイトから削除を受けた。こ
の記事のタイトルが上位表示されるのをなんとしても阻止したいよ
うだ。(埼玉不動産仲介手数料ゼロ無料メディアエステート社長の日
記のタイトルでもご覧になれます。)その度に固有のキーワードをな
くして他の文言に変えたりして公開し続けている。曽野綾子氏側も
沽券に関わる内容なので必死なのだろう。自らの生命線に関わるこ
とはどうも我慢がならないようだ。これで少しは被災者の心の痛み
が解ってくれれば良いが・・・。
 
 東日本大震災・曽野綾子をキーワードにネットの世界を彷徨ううち
に宇佐美 保という方のブログに出会った。氏のブログを見渡すと多
岐に亘っての評論が氏の博学多識を物語っている。その中で「こんな
事でよいのでしょうか?」の評論集の中に「復興は平和の礎(曽野綾
子氏と石原慎太郎氏)」と題した評論があり週刊ポストに掲載された
曽野綾子氏のコラムが全文掲載されていたので読む機会を得た。宇佐
美 保氏に感謝したい。(曽野綾子で検索のコラム全文をWEBから削除
した模様)※宇佐美保氏のブログ「宇佐美保の世界へようこそ」

さて、この記事は当ブログで紹介した「曽野綾子氏へのおもしろ批判
選集」の中のレスで告発されていたものだ。
 ○こういう時に自分の備え並べ立てて得々と自慢する。あげく見開き
2ペ-ジのスペースで被災された方々への思いは何一つ述べられるこ
とが無い。ただ、日本人は備えが甘かったという。じゃあ、この方は
コンロだの水だの備蓄してるからいきなり津波が襲っても平気だとい
うんだろうか。
○読み取れるのはこの人の現代日本人への憎悪のようなものと、自己
愛(自慢)のみ。
○そりゃ神奈川にいたら慌てないでしょうね。子供に笑われるよホン
ト。震度7の地域にいた人が慌ててるように見えるのですか? 慌てる
暇も無いですよw
○災害に際しても、自分のサハラの経験を振り回して寸豪も疑うこと
が無い。新しい現実を認めない、今ある現実を見て物事を考えようと
しないわけだ

 まず冒頭。「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に起きた
地震が、近年落ち込んでいると言われる日本の凋落に、決定的な追い
打ちをかけるか、それとも、長い間の物心両面の沈滞を打破するきっ
かけになるか、というと、私は後者に望みを託したいと感じている
。」
のっけからこの悪文。「落ち込んでいると言われる日本の凋落に」?
何を言っているのですか?文章になっていないではないか。「凋落」と
いう言葉は平たく言えば「落ち込んでいる」という意味ではないです
か。同義語を重ねて何を表現したいのですか?この場合「落ち込んで
いる」は「凋落」に対する修飾語でしかないので同義語を重ねるのは
適当ではない。通常は「近年落ち込んでいる日本の鉱工業生産」とか
言ったりしているが曽野綾子氏の文章であれば「近年、凋落傾向にあ
る日本の現状に、決定的な追い打ちをかけるか」という表現ならまだ
しも、これはもう論外というしかない。曽野氏くらいの文壇の「大御
所」で「文化功労者」に週刊ポストの編集者もさすがに怖くて添削
なんてできないのだろう。なんという無様!
大先生!もう筆を折る時期ではないのですか?

・・ま、このままでは話が途切れてしまうので先に進めるしかないが、
さて前者の「日本の凋落」に対して後者は「物心両面の沈滞」?こうい
う二者択一の手法もあるのかな?「日本の凋落」という場合、諸外国と
比較した日本国の政治・経済を含めた全般の状況を表すのに対し、「
物心両面の沈滞」とはここでは「日本国民の物理的精神的な状態」を
表している言葉と理解するのが順当であろう。しかし、「日本の凋落」
と国民の「物心両面の沈滞」?の状況は本来、表裏一体のはずなので、
こういう事象の比較や選択手法は普通取らないのではないか。ただ曽
野綾子氏が敢えて分けたところに氏の意図するものがあるのかもしれ
ない。そこで国民の「物心両面の沈滞」?状況とはどういうことかと
考えざるをえなくなる。「物心両面の沈滞」?をそのまま語訳すれば
「物が滞って物が入ってこない、一方心はそのために沈みがちである。
あるいは沈んでいる」とならないか?普通「物心両面」とくれば「物
心両面に亘って支える」とかは良く使われているが曽野綾子氏の場合
はこれが普通の表現ですか?だから「物心両面の沈滞」という言葉は
何を言いたいのか解らなくなる。
氏はなんとなくそう思って書いた
だけですよね、きっと! 要は以前から記述しておられる国民の「甘やか
された
」状況と言いたいのでしょう?ところがその言葉で相当の反発を
受けたので今回は「物心両面の沈滞」?としたのではないのですか?そ
れだったら最初から相変わらずの「甘やかされた状況」と言った方が
解りやすいのですが・・・。ともあれ次の記述。「理由は、日本人がそ
れに耐えうる国民だからだ。長い間の教育(人格形成の部分では、日
教組的な思考の影響をかなり受けて荒廃したが)と、一九四五年以来
疑いた続いた平和のおかげで、日本には地道な国力もついているから
である
もっともらしい言い方に聞こえるがよく読むとなんだかすっき
りしない。「日本人がそれに耐えうる」?つまり「それ」とは「長い間の物
心両面の沈滞を打破する」こと?そしてそれに「耐えうる国民」?前段が
意味不明なだけになおさらすっきりしない。以前のように「甘やか
された状況を打破する」ことに「耐えうる国民」の方が分かりやすい
し少しはすっきりする。しかし、その後の「長い間の教育と・・・」とい
うことと先に述べられた「長い間の『物心両面の沈滞』」とはどうい
う整合性
があるのですか?説明できないでしょう。「長い間の物心両
面の沈滞」状況の中での「長い間の教育」のおかげで「地道な国力も
ついている」から「日本人がそれに耐えうる国民」になったと繋げるの
でしょうか?繋がらないでしょう。こういうと氏の言葉「発言の裏の深い
含蓄が読み取れないと駄目だ
」と仰るでしょうね。
さらに「長い間の教育」で「地道な国力もついている」。特に書く必
要もない文章ではないか。「長い間の・・・」とはいつ頃からのこと
なのか?明治以来のことなのか?それとも終戦後ということなのか?
「明治以来」に決まっているだろうというのであれば、明治以来のど
のような教育でという表現をしないから漠とした印象を与えてしまう。
「長い間の教育」というのはどの国にもあることだ。それで「地道な
国力」?何を言うのですか?戦後の廃墟の中から奇跡的な復興を遂げて、
ついこの間までは世界第二位の経済大国にまで上り詰めたというのに
「地道な国力」?ではないでしょう。「国力」というのは経済力だけで
はなく軍事力なども含めたものになるので自衛隊のことが曽野氏の念
頭にあるのですか?それであれば、そりゃわが国の軍事力は地道です
よ。どうですか?解釈しようのない支離滅裂の文章ということですよ。
それと言わせて頂ければ「物心両面の沈滞」(甘やかされたと言い換
えることができるならば)を打破するなんて、おおげさですよ。そんなこ
とは日本人にとって造作もないこと。もう少し自分の国の国民を良く
見てください。なにしろ終戦前後は空襲のほかにいくつかの大地震に
見舞われた中から復興してきたのですから・・・。
 いずれにしても、芥川賞の候補者になった「作家」で国の教育改革
国民会議の委員をなさり「文化功労者」で最近は「老いの才覚」で
ベストセラー作家の曽野綾子先生の文章に「限りなく非才・無才
の勉強のできない」代表格の当方が筆を加えざるを得ないなんて
情けないかぎりだ
。曽野綾子氏の文章は真剣に読む類のものでは
なく、なんとなくという感じで読むか斜め読みしかないでしょう、これで
は。どうなっているのですか?芥川賞の候補になってから文章力を高
める修行や研鑽に励んでいたのではないのですか?「作家」としての
修行を疎かにしておいて被災者には
甘えるな」ですか?虫が良す
ぎますよ。これでは明らかに売文家と言われても言い訳もできない
でしょう。とにかくこれ以上、世間を騒がすのを止めて一日も早く筆を
折った方が良いのではないのですか?

嗚呼なんと「文化功労者」が
この程度とは・・・・
背筋が寒くなる想いだ。
我が国の「国力」の低下を
目の当たりにしたような
気分で実に哀しい。
曽野綾子氏よ、「文化功労者」を
早く返上して筆を折り給え
・・・だそうです。


※この週刊ポストに掲載された曽野綾子氏の駄文を読むのも甚だ
疲れる。ただ、この後、曽野綾子氏は当方にとって看過できない
ことを仰っているので後の批判文は次回に割愛するしかありま
せん。悪しからず。

東日本大震災 曽野綾子氏の責任と良心を問う

2011-09-16 12:44:42 | 日記
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曽野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅳ
東日本大震災 曽野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
東日本大震災からずっと曽野綾子さんのことが夫の脳裏を占め
ているのでしょう。いつもいつも曽野綾子さん!まるで恋人みたい。

 先の「東日本大震災 曽野綾子氏と週刊ポスト」はWEBから再三に
わたって削除されている。これは氏のコラムの題名と週刊ポストを
キーワードに曽野綾子氏側からWEBサイトに削除要請したものと思わ
れる。公開して3日目の朝、WEBを見たら今回のタイトルの当ブログ
が見当たらなくなった。ある箇所に「1000年に1度(原文は漢数字)と
いう項目は現在WEBでは検索できません」という記述を発見。やっぱ
り!大先生の目に触れる前に利発な秘書さんが手立てを講じたという
わけだ。当方も早速、当該のキーワードと思われる文言を削除し他
の言葉に置き換えて再公開を続けている。これは、ようやく曽野綾
子氏側に認められたということだろう。嬉しい限りだ。
 さて、週刊ポストに掲載された曽野綾子氏のコラムについての批
評を続けていきたい。まず週刊ポストの東日本大震災の特集に寄稿
した曽野綾子氏のコラムは図らずも氏の作家としての責任や良心を
問わざるを得ない内容になっていることだ。その内容は大きく分け
て次の2点になる。第一点は稿料を受け取る受注者としての責任と
良心の問題。第二点は記述内容ついての責任と良心となる。
 まず第一点目の「稿料を受け取る受注者としての責任と良心」に
ついて曽野綾子氏の対応即ち文章を見てみたい。氏は週刊ポスト編
集部から東日本大震災の特集について一定量の執筆を依頼され締
め切りまでに原稿を提出して、然るべき期日に稿料を受け取っている
はずだ。つまり曽野綾子氏は発注者の週刊ポスト編集部に対して受
注者という立場になる。しかし、出版界では曽野綾子氏ほどの「大物
作家」になると、その力関係によって立場は逆転するものと思われ
る。解りやすく言えば曽野氏は「書いてあげた」ということになる。
週刊ポスト編集部にとってはベストセラー「エッセイスト」の曽野綾子
氏の名前があるかないかは雑誌の売れ行きを多少なりとも左右する
との思惑もあって内容よりもまず寄稿してもらうことに重点を置い
ているはずだ。しかし、客観的な見地からすると小学館から稿料を
貰う以上は曽野綾子氏は小学館に対し責任を負う受注者の立場に
変わりはない。なぜこのように言うかといえば、このコラムの一部が
あまりにも投げやりな文章になっているからだ。
それは「私は小説家だから、自分の体験で物を言う他はない」と前
置きしてからの記述。「私は地震の時、神奈川県の海辺のうちにい
た。地震と共に電気が止まった。この停電は県下で百二十七万戸
にも及び、翌朝まで復旧しなかった。もちろん家がつぶれなかっ
たからでもあるが、私は全く慌てなかった。蝋燭もある。電池の予
備を入れると五百時間以上は保つはずのランタンもあり、いざとい
う時、飲料水の煮沸をできるだけの、普段はすき焼きをする時に使
っていたガス・コンロに、予備の燃料ボンベも十本以上持っていた。
水は屋外タンクに二百リッターは貯水してあるシステムだった。東
京の家に帰ると私の普段からの準備はさらに完全だった。水はペ
ットボトルに二百本以上の備蓄がある。一人一個ずつの寝袋も、食
料の備蓄もあった
。」
小学生の作文ではないかと錯覚しかねないこの記述とスイスの「民
間防衛」という本の紹介で、その本に記載された備蓄品を細部に
亘って網羅していて、その字数の多さに読む者を辟易とさせるあた
りは週刊ポストの編集部から要求された字数を満たすために書い
たとしか思えない粗末なもの。これらの部分は「書いてあげた」と
いう意識が露骨に表れていて読む者を不快にさせる。「文化功労
者」の文章とはとても思えないだけではなく誠意も良心のかけら
もない駄文だ。たとえば、これが建築業界だったら曽野綾子氏の
このコラムは差し詰め「手抜き工事」ということなる。手抜き工
事で完成させた家を発注者である元請業者に引き渡したらどうな
るか。元請業者は注文主から損害賠償を請求されるだけではなく
社会的信用も失墜する。当然、施工業者もその責めを共に負うこと
になる。これが一般社会の実情だ。ところが出版界となるとそのク
リエイティブな性格から先に述べたような力関係による発注者と受
注者の立場の逆転現象は当然のこととして存在する。従って責任云
々ということは雲散霧消してしまい、むしろ週刊ポストのように今
回の東日本大震災の企画で表紙の絵柄とタイトルと寄稿した論客陣
等々でアエラを凌駕してしまうと曽野綾子氏が寄稿してくれたこと
に感謝することになる。曽野綾子氏のコラムの出来ばえなど、ほと
んど関係ないということだ。だからと言って受注者は責任を果たす
必要はないのだろうか。たとえ、それが報酬を伴わなくても作家で
ありコラムニストでありエッセイストであり文化功労者であるなら
ば誠意をもって執筆依頼に応えて相応の作品を提供するのが
当然ではないか。
それが作家の良心というものだろう。さらに良心
だけではなくプライドや作品に対する愛情もクリエイティブな作品
を世に出す者にとっては不可欠の要素だ。それが自作に対して高い
クォリティを求める原動力となる。例えば陶芸家が窯出した作品を
次々とぶち壊していく映像をテレビで見たことがあるが、完成度が
低い作品を衆目に晒す事はプライドが許さないだけでなく、それが
自らが作り出した作品に対する愛情というものだろう。
従って曽野綾子氏は結果的には週刊ポスト編集部と小学館に対し
受注者としての責任を果たしたとはいえず、また良心さえも失って
いるということだ。そして自らの作品に愛情さえも抱いていないとい
うことを証明したことになる。
 次に第二点の「記述内容に対する責任と良心」。ここで問題にし
たいのは八ツ場ダム建設中断に関する曽野綾子氏の見解と日本の
建築物に言及した下りだ。まず「私は前原元国交相の取った八ツ
場ダム建設中断の判断にも改めて怒りを覚えた。あの時、誰がど
う言ったかは私の手元には記録がないけれど、つまりあんなダムは、
差し当たって必要ない、ということであった。近年の日本の経済が
縮み加減であることを見ても電気の必要量は減りつつあるし、何百
年に一度の干ばつや出水のための考慮をすることはない、という
論理であった。
」「文化功労者」が、こういう政治的な事柄を論評す
ること自体が問題なのに、デリケートで且つ重大な政治的事柄を
手元には記録がない」と言いながら「という論理であった。」と
気で断定することは断じて許せない
。論評する事柄
によっては当然、責任を伴うことは言うまでもない。どういうつも
りか?手元に記録がなければ、民主党に電話をかけて事の次第を
聞き、民主党の見解を糾すべきではないか。またインタネットを使
って調べるのは今や当たり前の時代なのにウィキペディアも読ま
ないということなのか?ウィキペディアに目を通せば八ッ場ダ
ムについて、ある程度の詳細な説明があるので概要くらいは解る。
まずダム建設反対運動の経緯。
ダム建設反対運動史 東の八ッ場、西の大滝、このダムが当初計画
どおりに完成すると、名湯として全国的に名高い川原湯温泉街を始
め340世帯が完全に水没するほか、名勝で天然記念物でもある吾妻
峡の中間部に建設されるので、その半分以上が水没し、一挙に観光
資源が喪失することが心配された。ダムによって地元に還元される
固定資産税が、水没地を抱える長野原町ではなく、ダム堤の予定地
がある下流の吾妻町(現・東吾妻町)に落ちることも問題であった。
また、首都圏に住む人々のために、水没地に住む住民が犠牲にな
ることには断固反対するという声が地元では多かった。このような
ことから、町議会の「建設絶対反対決議」を始めとして、町全体を
巻き込み、長期にわたる反対運動が展開された
。」とダム建設反対
運動の歴史を紹介しながらもこの運動が収束していく過程も詳らか
にしている。一方事業計画の変更等にも触れて、「2004年(平成16
年)、八ッ場ダム事業は2度目の計画変更を行い事業費が2100億円
から4600億円に上昇。事業反対派は建設事業費に基金事業費、起
債の利息も含めると総額8800億円になるという試算を示し文字通
り日本のダムの歴史上最も高額なダム計画となったとしている。こ
うした考え方も論拠の1つとしてダムの恩恵を受けるとされてきた
利根川下流の一部住民からは「ムダな公共事業」との批判が起こり
2004年(平成16年)11月、関係都県(東京、千葉、埼玉、群馬、茨城、
栃木)の各地方裁判所においてそれぞれ公金支出の差し止めを求
める住民訴訟が一斉提訴された(ひとつでも勝訴すれば、事実上建
設ができなくなる)。ただしこの裁判の原告にはダム予定地に住む
住人は1人もおらず、長年の苦悩を経て地元が建設受け入れの結論
を出したことに水を差すとして反感を持つ住人もいる
。」
そして八ッ場ダム建設中止を決定付けた「その一方で、国土交通省
からのOB天下りを受け入れた公益法人と企業が、競争入札を行わ
ない随意契約で多数の業務を受注していたことや、2004年前後数
年だけで事業落札に絡んだ37社の企業に国交省から52人、随意契
約業者57社に99人、財団法人国土技術研究センター、同ダム水源地
環境整備センター、同ダム技術センターなど7つの公益法人に25人が
天下っていたことが民主党の衆議院議員長妻昭が2007年に国交省
から得た資料により判明し、政官業癒着の観点からも物議を醸した
。」
となり、民主党がマニュフェストに八ッ場ダム建設中止を掲げて選
挙を戦い、その後政権交代が起きる。ウィキペディアのほんの一部
ではあるが事実は曽野綾子氏の見解とは大きく乖離している。ウィ
キペディアを読めばそんな単純な論理ではないし、事柄でもないこ
とは一目瞭然だ。従って氏の記述は又聞きしたものをおぼろげな
記憶を辿ったという程度のものでしかない。
先の当ブログでも述べ
ているが「文化功労者」は政治不介入の姿勢を貫くべきなのに、こ
のように事実とはかけ離れた言辞を弄するなど「文化功労者」には
あるまじきこと。恥を知るが良い。
 しかも次の文章は漫才の台詞ではないかと思わせるような駄文。
しかし今回の地震後二日で『1000年に1度』という言葉が災害の言い
訳に使われ始めた。こんなに早く1000年に1度の機会に、私は自分が
遭遇するとは思わなかった。私はもう老年だから、1000年に1度の体
験などせずに死んで行けるつもりであった。こんなに早くその時が
来るなら、それは『10年に1度』くらいと言うべきだったろう

(※原文は漢数字)」
「1000年に1度」で「想定外」と言い訳したのは、あなたが擁護した東
電ですよ。なにをちぐはぐなことを・・・・。おまけに何を言いたいのか
意味不明。「こんなに早くその時が来るなら、それは『10年に1度』
くらいと言うべきだったろう
」馬鹿げていて無残だ!
 そして次の記述。「今回(我が家もその一例だが)、あちこちで古
い建物は微細な変化もなく済み、プレハブ住宅には亀裂や狂いが生
じた事実が出ている。業界はそれを重く見なければならない。
れわれの祖先である仕事師たちは、自然と相対しながら自然に学び、
手を抜かず、自ら働いて自然の脅威と妥協する手段を学んだ。同じ
ようにもし謙虚に今回の危機に学んで、浮わついた生活から離れ、
忍耐と技術を学ぶ世代が出れば、日本はさらに伸びるだろう。

あ~あ、ここまで来ると「文化功労者」曽野綾子氏は地に落ちた
と言うほかない
。どこを調べてこのような言辞を労するのか?
建築の勉強もせずによくも仰る。今時の建築物を総称して「プレハ
ブ住宅」と仰っておられるのですか?それとも「プレハブ住宅」を知
った上で仰っているのですか?ご存知ないんでしょう。その「プレハ
ブ住宅」に限って言えば、最初はプレハブ小屋から出発したものの
現在は大変な進化を遂げていて、たとえばセキスイのプレハブ住宅
は軽量鉄骨の構造材で造ったユニットを組み合わせて建築していく
ものなので、ユニットの組み合わさった部分の内壁が30㎝厚という
無駄はあるが、今回の地震程度の直下型でもびくともしないはず。
更にこのプレハブ住宅に「免震」を施した住宅は震度7でも室内の
家具も倒れないという優れものだ。今回の震災で歴史的建造物がど
れだけ被災したか調べもしないのですか?「私は小説家だから、自
分の体験で物を言う他はない」と断ったばかりではありませんか。
体験はできなくても少しは勉強くらいしなさい。
注文建築で建てられたと思われる田園調布のご自宅と神奈川の別
荘がびくともしなかったからと言ってプレハブ住宅が脆弱だと決め
付けて
業界はそれを重く見なければならない
なんという馬鹿げたことを!
唖然として笑ってしまいそうだ。建設業界にそのことを直接言った
らどうですか?皆、唖然として反論もしないでしょうし、すぐ爆笑が
起こるでしょう。阪神大震災の記憶はないのですか?阪神大震災
の時、曽野綾子氏が仰る「仕事師」が造った木造の古い家屋はほと
んど全壊した。なぜだか解ります?建築基準法で耐震基準を改めた
昭和56年6月以前の建物が大半だったのと、関西特有の南側の開
口部を一箇所1.5間、2間とした木造家屋がほとんどで耐震強度が低
い為に、それらの家屋が捩じれるようにして倒れたということです。
あの阪神大震災を経験して現在の建築工法は更に進化している。こ
ういう馬鹿げたことを実しやかに言うということは
曽野綾子さん!あなたは病気ですよ
自らがそれに全く気付いていない。哀れというほかない。
実にアブノーマルだ
文章能力も「作家」のレベルではないし、記載内容が不実極ま
りなく無責任で良心の欠片もない。

出版業界や彼女の周りには曽野綾子氏を諌める勇気ある人はいな
いのか?自らの良心をもって曽野綾子氏を諌める人はいないのですか?
金になれば良いのですよね。当方が活動する不動産業界もその悪癖
を残しています。お客様さえ気がつかなければ、物件の瑕疵があっ
ても見て見ぬふりをして、何でもお金にしようと懸命です。
やはり、ここで叫ぶしかありませんか?

早く筆を折りなさい
「文化功労者」曽野綾子殿
・・・だそうです。



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中国政府よ、熊の生き血を吸うのを止めさせて!(写真付)

2011-09-04 10:40:10 | 日記
あー大変なものを見てしまって後悔してます。


「熊の胆」というと昔から漢方薬として珍重されてきたという話は
聞いています。でも生きている熊の胆嚢にチューブを差し込んで胆
汁を抜き取り中国の富裕層が漢方薬にして生で飲んでいるらしいの
です。
なんて残酷!こういうことは早く止めて欲しい。
 これは息子がインターネットで外国のメディアの記事で発見した
のですが、小熊もその被害に遭っているようです。我が仔が生き血
を抜き取られて苦しんでいる様子を見た母熊が檻を破って外に出て
小熊を抱きしめて窒息死させた後、自らもコンクリートの壁に頭を
激突させて自殺したという信じられない話が書いてあったそうです。
写真は、その親子の熊ではないようですが、上の写真は熊の胆嚢に
チューブを差し込むため麻酔をかけて手術の準備をしているところ
のようです。もう一枚はチューブを埋め込まれて雄たけびを上げる
写真
こんな残酷なことは止めてください。
お願いします



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