8月14日にアップして以来「曾野綾子・人間・成熟」
のキーワードで検索しても9月18日現在、当方のこのブログは
ヒットしない。どうも見城氏側の徹底した削除要請の洗礼を受け
ているようだ。現在50万部を記録しているようで100万部を
達成するまでは続きそうだが、削除要請のキーワード「曾野綾子・
欺瞞・愚劣」をはずせばどうかな
今日(9/18)の「人間にとって・・・・」の広告のサブタイトルと
「紹介文」に変化があった。最初に指摘していた「人は年相応に
変化する方が美しい」が「憎む相手からも学べる。あきらめるこ
とも一つの成熟」となり「人はみな平等に年を取るが、しだいに
人生が面白くなる人と不平不満だけが募る人がいる。両者の違い
はいったい何か。まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に、
自分らしく生き抜くコツを提言」を「充実した晩年を過ごす人と
不満ばかりで虚しく過ごす人の違いは何か。それは「人間の本質」
に対する「考え方である」と文章を入れ替えて当方?の批判を
かわそうと必死だ
7月30日の読売新聞の3面の下四段に幻冬舎のぶち抜き広告
があり、その大半を曾野綾子氏の写真を入れての曾野氏の新書
「人間にとって成熟とは何か」の宣伝に当てていた。
幻冬舎といえば、ドキュメンタリーで見たことのある見城徹氏が
社長の出版社だ。見城氏は休筆中の五木寛之氏に手紙を書き続け
18通目に返事を貰い25通目に会う約束がとれ、ついに五木寛之氏
執筆にこぎ着けたという内容がドキュメンタリーで紹介されて
いた人物で、幻冬舎を立ち上げてから15年でミリオンセラー14冊
という伝説の人物。その人さえも「老いの才覚」100万部の記録を
持つ曾野綾子氏を無視できないのだろう。果たして見城氏の思惑
通りに行くのかどうか・・・・。
さて、広告の内容を吟味する。
まず、サブタイトルに「人は年相応に変化する方が美しい」とあ
るが、これは曾野氏が考え、記載を指示したものと思われる。
「人は年相応に変化する方が美しい」なんの変哲もないありき
たりの言葉のように聞こえるが、解釈しようとすると、とてつも
なく難しい。まず「年相応」とは平たくいえば「年齢に相応しく」
ということだが、人それぞれに思想性があり、更に道徳観念や文化
の変遷が急激に進む中で「年齢に相応しい」といっても定義は簡単
ではない。まして「成熟」を基準にして「年相応に変化」というの
だから、厄介だ。そのうえで「美しい」とは、どういう状態を指す
のか?曾野綾子氏は自ら発したこの言葉の意味をどの程度、理解し
ているのだろうか。ど素人の当方が作家先生に、このような疑問を
呈するのは甚だ身の程知らずというか僭越極まりない所業と非難さ
れるかもしれないが、曾野氏には、あまりにも「前科」が多い。
例えば当方の先のブログ「東日本大震災 曽野綾子氏の間違いだら
けの文章作法」で取り上げた週刊ポストに掲載された曾野氏のコラ
ムの冒頭部分。
「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に起きた地震が、近年
落ち込んでいると言われる日本の凋落に、決定的な追い打ちをか
けるか、それとも、長い間の物心両面の沈滞を打破するきっかけ
になるか、というと、私は後者に望みを託したいと感じている。」
と「落ち込んでいると言われる日本の凋落」と同義語を重ねて表現し
「物心両面の沈滞」と意味不明の文言を連ねるという作家にはある
まじき作文能力の欠如の他、ロジックのなさには驚くばかりである。
以上のことから曾野綾子氏ご自身は「年相応に変化した」と言えるの
だろうか。
さらに広告には、曾野氏の写真の上部に紹介文がある。
これは見城氏もしくは編集者が書いたものと思われる。
「人はみな平等に年を取るが、
しだいに人生が面白くなる人と
不平不満だけが募る人がいる。
両者の違いはいったい何か。
まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に、
自分らしく生き抜くコツを提言。」
この紹介文の二行目、三行目はなんだ?まさか老人をこの二種
類に分類しているわけではないと思うが、もし、その通りだった
としたら随分と失礼な話ではないか。見城氏らは老境に入ろうと
する者またはその域にある者に対する「しだいに人生が面白くな
る人」と「不平不満だけが募る人」の二通りしか判別できないと
いうことになる。勝ち組から見ると、その程度の見方しかないの
か?それでは、あまりにも洞察力に欠けるというものだ。当方な
どは、負け組みではあるが、そのどちらにも属さない。「しだい
に人生が面白くなる」わけでもなく、「不平不満だけが募る」わ
けでもない。老後のお金がさほどあるわけではないので、仕事を
して金を稼いでいる。好き勝手に生きてきたので今の負け組みの
人生があるという悟りというわけではないが、「俺の人生はこん
なもんだ」という諦めに似た諦念があって、至って静かだ。仕事
が終えるとスポーツクラブへ行ったり、テレビを見て泣いたり笑
ったり、コンサートへ行くほどのお金はないので自宅のステレオ
でクラシックやポップスを聴いたり、たまにはキーボードを取り
出して作曲を試みたりしている。68歳の人生は、現在の人生を人
のせいにして「不平不満を募らせる」年代ではないと思うが、如
何か?
それから「まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に、自分
らしく生き抜くコツを提言」この言葉はそっくり曾野氏にお返しし
たい文言だ。見城氏よ、曾野綾子氏のコラム等を中心に読破した
らどうか。見城氏は五木寛之氏を口説いた時、五木氏の全作品を
読んだといわれている。しかし、曾野綾子氏の場合は、おそらく
見城氏はじめ編集者は曾野氏の作品は一部しか読んでいないだろう。
なぜなら曾野氏の作品をある程度読んだだけで辟易するだろうか
らだ。それよりも団塊世代800万人をターゲットにしていて、さら
にその中で全国に最低5万人ほどはいると思われる曾野氏のファン
を目当てにして目論見を立てれば、この手の文庫本で10万部は達成
可能と見ているはずだ。しかも、うまいことに本の内容の18話の
タイトルを網羅しているのは、なかなか抜け目がない。
占いと同じで、18のタイトルのうち、一つぐらいは該当するか思い
当たる人は必ずいるはずだし、複数の人もいるだろう。当たるも八卦
当たらぬも八卦だが、18話のタイトルを読む限り確率は低くはない
と思われる。これが幻冬舎のセールスプロモーションのうまさだ。
では、18話のタイトルをサブタイトルも含めて列記してみよう。
第1話正しいことだけをして生きることはできない。
・すべてのことに善と悪がある。
第2話「努力でも解決できないことがある」と知る。
・人生は想定外そのもの
第3話「もっと尊敬されたい」という思いが自分も他人も
不幸にする。
・「自分の不運の原因は他人」と考える不幸
第4話身内を大切にし続けることができるか
・憎む相手からも人は学べる
第5話他愛のない会話に幸せはひそんでいる
・最期を迎える老人の心は柔軟である
第6話「権利を使うのは当然」とは考えない
・遠慮という言葉で表される美学
第7話品がある人に共通すること
・思ったことをそのまま言わない
第8話「問題だらけなのが人生」とわきまえる
・他人より劣ると自覚できれば謙虚になれる
第9話「自分さえよければいい」という思いが
未熟な大人を作る
・内面は言葉遣いに表れる
・謙虚な人に貴重な情報を教えたくなるのが人間
第10話辛くて頑張れない時は誰にでもある
・どんな仕事にも不安や恐怖はある。
・諦めることも一つの成熟
第11話沈黙と会話を使い分ける
・お酒以上に魂を酔わせる会話
第12話「うまみのある大人」は敵を作らない
・人間はみんな「ひび割れ茶碗」
第13話存在感をはっきりさせるために服を着る
・「目立ちたくない」は卑怯な姿勢
第14話自分を見失わずにいるためには
・自分を正当に認識できるか
第15話他人を理解することはできない
・礼を言ってもらいたいくらいなら、何もしてやらない
第16話甘やかされて得することは何もない
・なぜ退化したことを自覚できない老人が増えたのか
第17話人はどのように自分の人生を決めるのか
・人生は最後の一瞬までわからない
・ずたずたの人生」を引き受ける覚悟
第18話不純な人間の本質を理解する
・いいだけの人生もない、悪いだけの人生もない
このタイトルを読み進めるうちに当方の顔が綻んでくるのが
解った。これは明らかに曾野綾子氏の自戒を記したものとしか
受け取れないからだ。第一、曾野綾子氏は人様に提言できる
「成熟」さを持ち合わせていないではないか。先の当方のブロ
グで指摘しているように、サンケイ新聞の氏のコラム「透明な
歳月の光」の「体罰と人間観」は大阪・桜宮高校の体罰問題で
橋下大阪市長の反発を受けたものだが、この中の一文に次の件
がある。
「ここで私は『悪女の深情け』という言葉を思い出すのだが、
現代では『悪女』というものがよくわからなくなった。女性たちは
全員が美女になったし、他人のことはどうでもいい女性ばかりだ
から、深情けなどかけてもらっている男性もいないのではないか
と思われる。女性は性悪女ではなく、全員が牝になったのである」
という具合に「悪女の深情け」を「性悪女の深情け」だと、とんでも
ないことをコラムに書くという図々しさを披露して恥じない。
作家生活を60年もやっていて、こんな常識的なことも知らない
で今日があるということは甘やかされて来た為、勉学を疎かにし
て来たということではないか。
到底、人様に「提言」なんてできる御仁ではないだろうっ。
「第16話 甘やかされて得することは何もない
・なぜ退化したことを自覚できない老人が増えたのか」
このタイトルなどは、そっくり曾野氏ご自身のことではないか。
だから曾野綾子氏に「品がある」とはとても思えない。
「第7話品がある人に共通すること
・思ったことをそのまま言わない」
この反対が曾野氏にうってつけなので「品がない人に共通
すること」を挙げるならば、作家を60年やっていても「悪女の
深情け」も知らない人で、「思ったことをそのまま言う人」曾野
綾子氏ご自身だ。当方のブログでも再三に亘って取り上げてきた
曾野綾子氏の弱者に対する容赦のない発言は、まさに「思った
ことをそのまま言ってきた」ことの証左だ。
新潟中越沖地震の際、避難場所で弁当が配られているのを茶の
間のテレビのニュースで見て「避難する時、食料は自分で持って
来るのが世界の当然だ」とか台風等の災害等で避難した人々に、
「学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を
支給されていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私
はわからない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠
って当たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負っ
て避難するだけの個人の才覚の訓練が要る」と自宅の茶の間で言う
事に留まらずコラム等にまで書くという行為は、自らの「書く権利」
を行使していて「第6話「権利を使うのは当然」とは考えない
・遠慮という言葉で表される美学」とは真逆で下品そのものと
しか言いようがない。
更に「WILL」の対談では
曽野「放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればい
いんですよ。何も若者を危険にさらすことはない。私も行きますよ。
もう運転免許は失効していますが、あそこは私有
地だから無免許でも構わないでしょう(笑)。
ほうれん草からヨウ素が出たときも、ある人が「五年後に症状
が出るなら、そのころは八十五歳だからちょうどいい」なんて言
っている人がいました。」
渡部 「養老院で使うとかね。」
曽野 「かえって元気になるかもしれません(笑)。」
と品格のなさ丸出しだ。従って、これらの発言や言辞の
底流をなすものは
「第9話「自分さえよければいい」という思いが
未熟な大人を作る
・内面は言葉遣いに表れる」のタイトルそのものである。
従って、曾野綾子氏に対して言えることは、
「第15話他人を理解することはできない」
ではなく曾野綾子氏ご自身が
「他人を理解することはしない」人だということであろう。
そして、最期の第18話
「不純な人間の本質を理解する」
これは、どういう意味だろう。この文言こそ曾野綾子氏の
「未熟さ」そのものだ。
このタイトルを直訳すると、年を取ると先ず「不純な人間」を
見つけて、その人間の本質を理解すべきだとなるはずだが、
違いますか?「不純な人間」とはどういう人間か?「良からぬ
思いや考え方をし、そのような行動をする人間」の本質を理解
することが、人間として「成熟」するという解釈になるが、如何
ですか。
ところが、これはそうではないのではないか。これは明らかに
文法上の間違いであって曾野氏の文章力の「未熟さ」を表わして
いる。「不純な人間の本質」ではなく「人間の不純な本質」もし
くは「人間の本質の不純な部分」とすべきところではなかったの
ですか?
ただ、いずれにしてもサブタイトルの
「・いいだけの人生もない、悪いだけの人生もない」という諦念
と、どう結びつくのか、あるいは結びつけるのか興味はあるが
曾野氏の論理性のなさから推測すると「支離滅裂」であろう。
見城氏よ
曾野綾子氏の老醜は目に余る
曾野氏のコラムを
精読すれば明らかだ
「人間にとって
成熟とは曾野氏のような
老人にならないこと」と知るべし
のキーワードで検索しても9月18日現在、当方のこのブログは
ヒットしない。どうも見城氏側の徹底した削除要請の洗礼を受け
ているようだ。現在50万部を記録しているようで100万部を
達成するまでは続きそうだが、削除要請のキーワード「曾野綾子・
欺瞞・愚劣」をはずせばどうかな
今日(9/18)の「人間にとって・・・・」の広告のサブタイトルと
「紹介文」に変化があった。最初に指摘していた「人は年相応に
変化する方が美しい」が「憎む相手からも学べる。あきらめるこ
とも一つの成熟」となり「人はみな平等に年を取るが、しだいに
人生が面白くなる人と不平不満だけが募る人がいる。両者の違い
はいったい何か。まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に、
自分らしく生き抜くコツを提言」を「充実した晩年を過ごす人と
不満ばかりで虚しく過ごす人の違いは何か。それは「人間の本質」
に対する「考え方である」と文章を入れ替えて当方?の批判を
かわそうと必死だ
7月30日の読売新聞の3面の下四段に幻冬舎のぶち抜き広告
があり、その大半を曾野綾子氏の写真を入れての曾野氏の新書
「人間にとって成熟とは何か」の宣伝に当てていた。
幻冬舎といえば、ドキュメンタリーで見たことのある見城徹氏が
社長の出版社だ。見城氏は休筆中の五木寛之氏に手紙を書き続け
18通目に返事を貰い25通目に会う約束がとれ、ついに五木寛之氏
執筆にこぎ着けたという内容がドキュメンタリーで紹介されて
いた人物で、幻冬舎を立ち上げてから15年でミリオンセラー14冊
という伝説の人物。その人さえも「老いの才覚」100万部の記録を
持つ曾野綾子氏を無視できないのだろう。果たして見城氏の思惑
通りに行くのかどうか・・・・。
さて、広告の内容を吟味する。
まず、サブタイトルに「人は年相応に変化する方が美しい」とあ
るが、これは曾野氏が考え、記載を指示したものと思われる。
「人は年相応に変化する方が美しい」なんの変哲もないありき
たりの言葉のように聞こえるが、解釈しようとすると、とてつも
なく難しい。まず「年相応」とは平たくいえば「年齢に相応しく」
ということだが、人それぞれに思想性があり、更に道徳観念や文化
の変遷が急激に進む中で「年齢に相応しい」といっても定義は簡単
ではない。まして「成熟」を基準にして「年相応に変化」というの
だから、厄介だ。そのうえで「美しい」とは、どういう状態を指す
のか?曾野綾子氏は自ら発したこの言葉の意味をどの程度、理解し
ているのだろうか。ど素人の当方が作家先生に、このような疑問を
呈するのは甚だ身の程知らずというか僭越極まりない所業と非難さ
れるかもしれないが、曾野氏には、あまりにも「前科」が多い。
例えば当方の先のブログ「東日本大震災 曽野綾子氏の間違いだら
けの文章作法」で取り上げた週刊ポストに掲載された曾野氏のコラ
ムの冒頭部分。
「二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に起きた地震が、近年
落ち込んでいると言われる日本の凋落に、決定的な追い打ちをか
けるか、それとも、長い間の物心両面の沈滞を打破するきっかけ
になるか、というと、私は後者に望みを託したいと感じている。」
と「落ち込んでいると言われる日本の凋落」と同義語を重ねて表現し
「物心両面の沈滞」と意味不明の文言を連ねるという作家にはある
まじき作文能力の欠如の他、ロジックのなさには驚くばかりである。
以上のことから曾野綾子氏ご自身は「年相応に変化した」と言えるの
だろうか。
さらに広告には、曾野氏の写真の上部に紹介文がある。
これは見城氏もしくは編集者が書いたものと思われる。
「人はみな平等に年を取るが、
しだいに人生が面白くなる人と
不平不満だけが募る人がいる。
両者の違いはいったい何か。
まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に、
自分らしく生き抜くコツを提言。」
この紹介文の二行目、三行目はなんだ?まさか老人をこの二種
類に分類しているわけではないと思うが、もし、その通りだった
としたら随分と失礼な話ではないか。見城氏らは老境に入ろうと
する者またはその域にある者に対する「しだいに人生が面白くな
る人」と「不平不満だけが募る人」の二通りしか判別できないと
いうことになる。勝ち組から見ると、その程度の見方しかないの
か?それでは、あまりにも洞察力に欠けるというものだ。当方な
どは、負け組みではあるが、そのどちらにも属さない。「しだい
に人生が面白くなる」わけでもなく、「不平不満だけが募る」わ
けでもない。老後のお金がさほどあるわけではないので、仕事を
して金を稼いでいる。好き勝手に生きてきたので今の負け組みの
人生があるという悟りというわけではないが、「俺の人生はこん
なもんだ」という諦めに似た諦念があって、至って静かだ。仕事
が終えるとスポーツクラブへ行ったり、テレビを見て泣いたり笑
ったり、コンサートへ行くほどのお金はないので自宅のステレオ
でクラシックやポップスを聴いたり、たまにはキーボードを取り
出して作曲を試みたりしている。68歳の人生は、現在の人生を人
のせいにして「不平不満を募らせる」年代ではないと思うが、如
何か?
それから「まわりに振り回され、自分を見失いがちな人に、自分
らしく生き抜くコツを提言」この言葉はそっくり曾野氏にお返しし
たい文言だ。見城氏よ、曾野綾子氏のコラム等を中心に読破した
らどうか。見城氏は五木寛之氏を口説いた時、五木氏の全作品を
読んだといわれている。しかし、曾野綾子氏の場合は、おそらく
見城氏はじめ編集者は曾野氏の作品は一部しか読んでいないだろう。
なぜなら曾野氏の作品をある程度読んだだけで辟易するだろうか
らだ。それよりも団塊世代800万人をターゲットにしていて、さら
にその中で全国に最低5万人ほどはいると思われる曾野氏のファン
を目当てにして目論見を立てれば、この手の文庫本で10万部は達成
可能と見ているはずだ。しかも、うまいことに本の内容の18話の
タイトルを網羅しているのは、なかなか抜け目がない。
占いと同じで、18のタイトルのうち、一つぐらいは該当するか思い
当たる人は必ずいるはずだし、複数の人もいるだろう。当たるも八卦
当たらぬも八卦だが、18話のタイトルを読む限り確率は低くはない
と思われる。これが幻冬舎のセールスプロモーションのうまさだ。
では、18話のタイトルをサブタイトルも含めて列記してみよう。
第1話正しいことだけをして生きることはできない。
・すべてのことに善と悪がある。
第2話「努力でも解決できないことがある」と知る。
・人生は想定外そのもの
第3話「もっと尊敬されたい」という思いが自分も他人も
不幸にする。
・「自分の不運の原因は他人」と考える不幸
第4話身内を大切にし続けることができるか
・憎む相手からも人は学べる
第5話他愛のない会話に幸せはひそんでいる
・最期を迎える老人の心は柔軟である
第6話「権利を使うのは当然」とは考えない
・遠慮という言葉で表される美学
第7話品がある人に共通すること
・思ったことをそのまま言わない
第8話「問題だらけなのが人生」とわきまえる
・他人より劣ると自覚できれば謙虚になれる
第9話「自分さえよければいい」という思いが
未熟な大人を作る
・内面は言葉遣いに表れる
・謙虚な人に貴重な情報を教えたくなるのが人間
第10話辛くて頑張れない時は誰にでもある
・どんな仕事にも不安や恐怖はある。
・諦めることも一つの成熟
第11話沈黙と会話を使い分ける
・お酒以上に魂を酔わせる会話
第12話「うまみのある大人」は敵を作らない
・人間はみんな「ひび割れ茶碗」
第13話存在感をはっきりさせるために服を着る
・「目立ちたくない」は卑怯な姿勢
第14話自分を見失わずにいるためには
・自分を正当に認識できるか
第15話他人を理解することはできない
・礼を言ってもらいたいくらいなら、何もしてやらない
第16話甘やかされて得することは何もない
・なぜ退化したことを自覚できない老人が増えたのか
第17話人はどのように自分の人生を決めるのか
・人生は最後の一瞬までわからない
・ずたずたの人生」を引き受ける覚悟
第18話不純な人間の本質を理解する
・いいだけの人生もない、悪いだけの人生もない
このタイトルを読み進めるうちに当方の顔が綻んでくるのが
解った。これは明らかに曾野綾子氏の自戒を記したものとしか
受け取れないからだ。第一、曾野綾子氏は人様に提言できる
「成熟」さを持ち合わせていないではないか。先の当方のブロ
グで指摘しているように、サンケイ新聞の氏のコラム「透明な
歳月の光」の「体罰と人間観」は大阪・桜宮高校の体罰問題で
橋下大阪市長の反発を受けたものだが、この中の一文に次の件
がある。
「ここで私は『悪女の深情け』という言葉を思い出すのだが、
現代では『悪女』というものがよくわからなくなった。女性たちは
全員が美女になったし、他人のことはどうでもいい女性ばかりだ
から、深情けなどかけてもらっている男性もいないのではないか
と思われる。女性は性悪女ではなく、全員が牝になったのである」
という具合に「悪女の深情け」を「性悪女の深情け」だと、とんでも
ないことをコラムに書くという図々しさを披露して恥じない。
作家生活を60年もやっていて、こんな常識的なことも知らない
で今日があるということは甘やかされて来た為、勉学を疎かにし
て来たということではないか。
到底、人様に「提言」なんてできる御仁ではないだろうっ。
「第16話 甘やかされて得することは何もない
・なぜ退化したことを自覚できない老人が増えたのか」
このタイトルなどは、そっくり曾野氏ご自身のことではないか。
だから曾野綾子氏に「品がある」とはとても思えない。
「第7話品がある人に共通すること
・思ったことをそのまま言わない」
この反対が曾野氏にうってつけなので「品がない人に共通
すること」を挙げるならば、作家を60年やっていても「悪女の
深情け」も知らない人で、「思ったことをそのまま言う人」曾野
綾子氏ご自身だ。当方のブログでも再三に亘って取り上げてきた
曾野綾子氏の弱者に対する容赦のない発言は、まさに「思った
ことをそのまま言ってきた」ことの証左だ。
新潟中越沖地震の際、避難場所で弁当が配られているのを茶の
間のテレビのニュースで見て「避難する時、食料は自分で持って
来るのが世界の当然だ」とか台風等の災害等で避難した人々に、
「学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を
支給されていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私
はわからない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠
って当たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負っ
て避難するだけの個人の才覚の訓練が要る」と自宅の茶の間で言う
事に留まらずコラム等にまで書くという行為は、自らの「書く権利」
を行使していて「第6話「権利を使うのは当然」とは考えない
・遠慮という言葉で表される美学」とは真逆で下品そのものと
しか言いようがない。
更に「WILL」の対談では
曽野「放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればい
いんですよ。何も若者を危険にさらすことはない。私も行きますよ。
もう運転免許は失効していますが、あそこは私有
地だから無免許でも構わないでしょう(笑)。
ほうれん草からヨウ素が出たときも、ある人が「五年後に症状
が出るなら、そのころは八十五歳だからちょうどいい」なんて言
っている人がいました。」
渡部 「養老院で使うとかね。」
曽野 「かえって元気になるかもしれません(笑)。」
と品格のなさ丸出しだ。従って、これらの発言や言辞の
底流をなすものは
「第9話「自分さえよければいい」という思いが
未熟な大人を作る
・内面は言葉遣いに表れる」のタイトルそのものである。
従って、曾野綾子氏に対して言えることは、
「第15話他人を理解することはできない」
ではなく曾野綾子氏ご自身が
「他人を理解することはしない」人だということであろう。
そして、最期の第18話
「不純な人間の本質を理解する」
これは、どういう意味だろう。この文言こそ曾野綾子氏の
「未熟さ」そのものだ。
このタイトルを直訳すると、年を取ると先ず「不純な人間」を
見つけて、その人間の本質を理解すべきだとなるはずだが、
違いますか?「不純な人間」とはどういう人間か?「良からぬ
思いや考え方をし、そのような行動をする人間」の本質を理解
することが、人間として「成熟」するという解釈になるが、如何
ですか。
ところが、これはそうではないのではないか。これは明らかに
文法上の間違いであって曾野氏の文章力の「未熟さ」を表わして
いる。「不純な人間の本質」ではなく「人間の不純な本質」もし
くは「人間の本質の不純な部分」とすべきところではなかったの
ですか?
ただ、いずれにしてもサブタイトルの
「・いいだけの人生もない、悪いだけの人生もない」という諦念
と、どう結びつくのか、あるいは結びつけるのか興味はあるが
曾野氏の論理性のなさから推測すると「支離滅裂」であろう。
見城氏よ
曾野綾子氏の老醜は目に余る
曾野氏のコラムを
精読すれば明らかだ
「人間にとって
成熟とは曾野氏のような
老人にならないこと」と知るべし