東日本大震災曾野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末6
東日本大震災曾野綾子氏の間違いだらけの文書作法
東日本大震災曾野綾子氏の論理的破綻
また削除の洗礼を受けたようだ。「体罰と人間観」
という文言をタイトルに入れていたこともあり削除要請を行っ
たものと思われる。特に曾野氏が知られたくないのは「悪女の
深情け」に触れた件だ。こんなことも知らない「作家」がのう
のうと飯食っている
4月27日の読売新聞の1面に「公立校の体罰 急増840件
昨年度中間報告、前年度の倍」の見出し。一瞬目を疑ったが読んで
みると桜宮高校の体罰自殺問題を受け掘り起こしが進んだ結果で、
最終的には昨年度の体罰件数は2000件を超える見通しだという。
その他に3面の社説「再発防止へ問題意識を高めよ」とスキャナー
のコーナーでも3面の大半をさいて特集し38面にも「跳び蹴り、
頭突き、炎天下正座・・・教師、力で支配」とあった。跳び蹴り・・
そういえば1週間ほど前に「教育サポート」で小学校へ出向していた
大学生が制止も聞かずに廊下を走っていった小学生に後ろから跳び
蹴りをして怪我を負わせたというニュースがあったが、「教育
サポート」というのは、いじめや体罰を監視撲滅するための制度
だったはずだ。どうしてこうなるのか。もちろんこの学生の資質
に原因がある。つらつら考えているうちに、ふと気になったので
ネットを開いてみた。
3ヶ月ほど前の1月25日だったかブログを書こうと思い久しぶり
に当方のブログの管理画面を覗いたら、その前日のアクセスが500
ほどになっていたので、どうしたのだろうと思った記憶がある。
曾野綾子氏がまた何か発信をして世間を騒がしているのだろう
と思ってネットを見渡してみると橋下大阪市長と曾野綾子氏の間で
何かあったようだと分かった。「橋下市長と曾野綾子」のキーワ
ードで、あるタイトルがあったので開いてみた。
それは2chのスレッド。桜宮高校の体罰問題で曾野綾子氏が産経
新聞のコラム「透明な歳月の光」で「体罰と人間観」と題して発
言したのが橋下大阪市長の反発を招いたようだ。
原文をようやく探し当てたので読んでみた。それは「人は変え
られるという思い込み」という副題で始まっていた。
このタイトル・サブタイトルから曾野綾子氏の意図は明白で
「体罰等で人は変えられるという思い込みは薄っぺらな人間観」だ、
そう仰りたいのだろう。 ・・・・・さて。
どうして3ヶ月も過ぎて沈静化した今頃になって、蒸し返すように
曾野氏のことを書くのかというと、読売新聞の先日の記事に触発
されて、ネットを眺めているうちに曾野氏のことを「鋭利な感性
とロジックで切れ込んでいく」と持ち上げたり、終戦直後に朝鮮
半島で起きた「和夫一家惨殺事件」を挙げて人は教育では変らな
いとする曾野綾子擁護論と思しきタイトルが散見されるので、
俄然その気になったということだ。
(和夫一家惨殺事件に対する当方の見解は後述する)
まずは曾野綾子氏の文章から・・・。
曾野綾子氏は「近年、落ち込んでいるといわれる日本の凋落」
などと同義語を重ねて、文章にならない文章をお書きになる「文
化功労者」なので、まずは文章の「出来不出来」から入ってみる
ことにする。
案の定で、冒頭から「バスケット部の主将を務めるほどの子を・・・」
この文言は通常「生徒会長を務めるほどの子を」という
場合に使うが、バスケット部のキャプテンに対しては不適切であ
ろう。
確かに自薦他薦もしくは顧問等の推薦や選挙で選ばれるのは同じ
であっても、バスケット部のキャプテンは部の責任者として他の
部員の活動の責任の一端を負う立場だ。しかし、生徒会長は
体育部とは違って生徒会全体の代表ではあっても他の生徒の行動
に責任を負うことはないし、混同すべき立場ではない。
この文言一つで曾野綾子氏が、いかに教育的知見を持ち合わせ
ていないか明々白々だ。この知見のない曾野綾子氏に俎上に載せら
れた橋下大阪市長が怒るのも無理はない。おまけに「教育再生会議」
の委員である曾野綾子氏が「私は人間というものを改変する力は、
多分に偶然によるものだろうと考えている」などと言うから「教育で
人は変らないというのであれば教育再生会議の委員を辞退しろ」と
橋下市長が主張するのは至極当然。
しかも滑稽なことに「世の中のこと、人間というものが、よく分かっ
ていない」と思われる曾野綾子氏が他人のことになると一刀両断で
曰く「この顧問は何歳の男性か公表されていないが、かなりの
年になっても、世の中のこと、人間というものが、よくわかって
いない人である。」と年齢は関係ないのに「かなりの年になって
も・・・・」と断じて恥じない。「世の中のこと、人間というものが、よ
く分かっていない」と他人を断定するのであれば、その顧問が、
どのようにして桜宮高校のバスケット部を全国一の強豪校に育て
あげたか、それにもかかわらず体罰に歯止めがかからなかった
のはなぜかなどなど理解した上でなければなるまい。
確かにその顧問にとっては体育部の生徒に「身体的に高い能力を
身に付けさせるためには時として体罰も含めた強い指導が必要」
との認識があって、そのような指導を行ってきたものと思われる。
おそらく顧問もそういう指導を受けて育ったに違いない。ところが
人間は体罰することを自ら常態化させてしまうと、時として感情を
コントロールすることが出来なくなり暴走してしまう。生徒の
唇が切れ、シャツを血で染めたのは教師の立場を忘れた行為以外
にない。「虐待」も同様で、最初はしつけのつもりで軽く叩いて
いたのが、いつの間にか遂に死に至らしめる虐待となる。
「殴ってよくなるということや人というものはほとんどいない」
仰る通りだが、その後の比喩がいけない。「少なくとも下手くそ
な小説を書いたからといって殴っても、小説は決して良くならない」
これなどはご自身の「人間観」の薄っぺらさを自白したような記述。
体育会系の話なのに、どうして比較しようのない「小説」を持ち出す
のだ?加えて「殴られるという体験は、不幸の中でも浅薄で根の浅
いものなので・・・・」。「浅薄」も「根の浅い」も同義語ではないに
しても同じような意味合いの言葉。「根の浅い」だけで十分ではな
いか。第一、「「殴られるという体験は、不幸の中でも浅薄で根の
浅いものなので・・・・」などと、これこそ「浅薄」な言葉で「浅薄さ」
を表わしていて笑止千万だ。考えないから、こういう表
現をしてしまう。当方は学校教育法第11条懲戒で「体罰」を禁止
していることもあり、決して「体罰」に賛同するものではないが、
もし自分が悪いことをしてしまって親なり教師が涙しながら自分を
殴ったとしたら、自分はそれをどう受け止め、どう思うだろうか?
現にそういう教師や親、指導者がいたに違いないし、そういう
「体罰」を受けた人も少なくないと思うが、そうして「殴られた
という体験は不幸の中でも浅薄」なものなのだろうか?世の中には、
このようなシチュエーションを体験して、その後、すばらしい成
績を修め、人生を立ち直せた人も多いはずだ。一括りに「不幸の
中でも浅薄」などと記述することは、いささか躊躇われる。
更に次ぎでも曾野綾子氏は立場の違う人を同列に扱って論ず
るという無分別をなんの躊躇いもなく犯している。「感性が鋭い」
とは、とても言える御仁ではない。曰く「私が驚くのは、顧問とい
い市長といい自分の影響で人を変えられるという信念に満ちて
いることだ」確かに顧問については曾野氏の言うとおり
ではあるが、市長に対しては、まるっきり見当違いだ。
自治体の首長として市の教育行政を司る立場から教育現場の
「体罰」や「いじめ」を撲滅していくには制度上の改革を推し
進めるしかないはずだ。
生徒にとっては「体罰」という危険な状況を少なくし、素因を
排除していくのが市長の仕事ではあっても「(自分の影響力で)人を
変える(教育する)」という立場ではないし、橋下大阪市長も、
そこまでは言っていないはずだ。
なによりも橋下市長はツイートの中で「教員、生徒や保護者の意識
の積み重ねでできた伝統が体罰を黙認して、生徒が命を落とした」
この「生徒が命を落とした」ことに市長としての痛恨の思いが
ある。曾野綾子氏は「作家」であるならば、その程度の推測や想像
をもってコラムを執筆すべきであろう。
更に「私は人間というものを改変する力は、多分に偶然による
ものだろうと考えている 」
曾野氏は、またもや、こういう欺瞞的な記述を平然とやってのける。
10年前のゆとり教育を推進した「教育改革国民会議」提出のレポ
ートで記述したことを忘れておられるようなので、改めて氏のレポ
ートの中の語録をピックアップしてみた。
「戦後の教育の荒廃は、精神から人間性を奪っ
た・・・。」「その原因は、長い年月、民主主義の名を借りた安易な
『自由 放任』の姿勢にありました」
「何であろうと筋を通さねば教育など出来るわけがありません」
「現世には、安心して暮らせる場所も時間もどこにもありません。
そういうものをあ ると信じ、要求し、約束する人々の精神からは、
真の教育は生まれるわけ がありません」
「そもそも教育は誰が行うかという点に注目しましょう。『教師
は労働者である』と自ら宣言するような 教師などに、教育ができ
るわけはありません。その時点で自ら思考する能力のある教師た
ちは、自分の使命と尊厳にかけて反対する戦いを始めるべきでした」
「それより幼い年頃の子供に対する教育の責任は、
50パーセント 親。
25パーセント 教師。
25パーセント その子の身の回りの社会。
と私は考えています。
いつの社会でも、どの時代でも、内外のさまざまな理由が、子供の
人生に介入します。人のせいにしていれば、望ましい要素でさえそ
の子を傷つける理由になります」
「実に教育を骨抜きにしたのは、皮肉にも戦後日本の幸運と政治
の成功にありました。現在の日本に、望ましくない要素が多くある
ことは事実です。・・・・。」
「それにもかかわらず、日本は悪い国だ、という人がいて、殊に
マスコミがそうした空気を後押ししまし た。私たちはもっと子
供たちに厳しい現実を教えるべきでありました」
以上の曾野語録は「真の教育で人を変えることが出来る」とし
ている。したがって曾野綾子氏には一貫性がないのだ。
しかも「人間は同じ外的刺激を受けても、化学反応のように、予測
されるのと同じ結果は生まない」と言いつつ「人間に関する限り、
薬を何ミリグラム与えれば、必ずこの病気が治るというものではな
いのだ。放置しておいても治る人もいれば、薬を与えることで薬害
が出る体質の人もいる。」などと肉体的生理的反応を
述べるという、全く論理のなさをさらけ出す。「鋭い・・・・ロジックで
切れ込んでいく」と賞賛する曾野綾子ファンの言説とは全く異なる。
ロジックなどという代物ではないのだ。
次の「ここで私は『悪女の深情け』という言葉を思い出すのだが、
現代では『悪女』というものがよくわからなくなった。女性たちは
全員が美女になったし、他人のことはどうでもいい女性ばかりだから、
深情けなどかけてもらっている男性もいないのではないかと思われ
る。女性は性悪女ではなく、全員が牝になったのである。」前段と
どう論理的につながるのか解らないが、この文脈からすると、どうも
曾野氏は「悪女」の意味を理解していないようだ。「悪女」を「性悪
女」と思っておられるようで、従って更に意味不明の文章になって
いる。「文化功労者」曾野綾子ちゃん!「悪女の深情け」の悪女は
容姿が醜い女=醜女、今風に言うならば「ブス」。顔に自信のない
女は愛情が深いが嫉妬心も強い、という意味でしょう。言葉も理解
しないでサンケイ新聞のコラムを書き続けているということはサン
ケイの読者を馬鹿にしているということだよ、綾ちゃん!
従って意味不明のまま「そういう意味で」と支離滅裂。
加えて「この人間を信じている2人の男性の闘いは、当節
珍しい見物であるという気がしないでもない」。すべて他人事で高
みの見物だから、こういう表現しか出来ない。顧問を擁護する人た
ちと橋下市長の闘いではあるが、「信じる」ということでは、確か
に顧問はキャプテンを信じるあまり体罰を加えたかもしれないが、
顧問は生徒の死の知らせを受けて衝撃を受けて憔悴しきっていて
言葉もなかったはず。
一方、橋下大阪市長は「人間を信じて」というのではなく自分を信
じて市長の立場から制度等を変えようとしているということだ。
第一「二人が闘っている」という構図にしか見えないところに
曾野綾子氏の浅薄さがある。
「いじめの問題も制度を作るくらいではほとんど解決しないだろう
と思う。」いじめを根絶することは無理ではあっても一件で
も、いじめを少なくし体罰をなくすことが我々大人の役目では
ないのか?それこそ「教育再生会議」のメンバーである曾野綾
子氏の役目ではないのですか?
そして最後の締めくくり。「人間は心の体質を変えて、免疫力を
つけることが大事なのだ。」
なんだ、これは!「体質を変える、免疫力をつける」のは、誰が、ど
のようにしてつけるのかっ!生徒がそれらを身につけるのは「偶然に
よる」のですか?生徒の体質を変え、免疫力をつけさせるには、曾野
氏の言うところの「外的刺激」つまり「教育」によるしかない。
「人間というものを改変する力は、多分に偶然による」などと結論
めいた気取った文言は論理矛盾を自ら暴露したことになった。
恥を知るがいい!
ここで、先に触れた「和夫一家殺害事件」に触れておく。
詳細は上記をクリックしてください。
ネットを見ると、この事件は終戦直後、朝鮮半島で起き
た日本人一家惨殺事件のようだが、当方も初めて知って衝撃を
受けた。
あらましはこうだ。「和田和夫という夫婦から深い恩を受けていた
加害者の一人金ソンスという若者が証言した内容を記録した出版
物が韓国社会に衝撃を与えて事件が明るみになったものだ。
「・・和夫は、小作料を収穫全体の十分の一とし、村人たちを家
族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。・・・ 貧しい
小作人が食料がないと泣きつけば、喜んで食べるものを分けてや
ったし、村で誰かの葬礼があれば、家族総出で駆けつけ、食事の
支度はもちろん、自ら慟哭して、悲しみを分かちあうこと
もあった。このように、和夫は人間への温かい愛情をもった、真
の人間だった。また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると、
連れ帰って面倒を見ていたが、その数は、一人、二人と増え、
四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまっ
た。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、
自ら喜んで彼らの父、母を称した。・・・しかし、彼らは、日本
の天皇が降伏宣言をした一九四五年八月十五日、自分たちが育て
た朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。・・・彼がわが子
のように育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼
の家で教育を受け、育ち、成人した青年たちが、斧と鍬、スコッ
プを手に、和夫のもとに押しかけた。・・・・・・・・・・・・」
この記事を読みながら当方は彼ら朝鮮人に対する怒りで胸が
震えた。教育で人は変らないとする曾野綾子擁護論者の胸中も
察するに余りある。しかし、東大を出た者が、どうして事件を主
導したかという疑問が残る。これは当方の推測だが、首謀者Aは
大学で朝鮮半島の歴史を学ぶうちに、日本の植民地政策のあまり
の暴虐に怒りを募らせて、恩讐の狭間を彷徨ううちに更に憎悪を
募らせて暴挙に及んだものと思われる。
とりわけ抗日の歴史は、日清戦争後の日本軍守備隊と朝鮮訓
練隊による朝鮮の国母である王妃を斬殺した「閔妃暗殺事件」に
始まるといわれている。首謀者Aは当然、朝鮮側の史観に基づい
て学び、考察したものと思われる。さらに、その後の朝鮮併合と
植民地政策の中の同化政策や創始改名は朝鮮文化の抹殺だったと
する説は朝鮮社会では根強く朝鮮人知識階級の反発を招いた。
だからと言って「和夫一家殺害事件」の犯人たちに同調するもの
ではないが、特殊なこの事件をもって「教育によって人を変える
ことは出来ない」とする論調は、あまりにも短絡的だ。もっと
冷静に分析すべきであろう。
現に「教育」は古今東西、国家の政治・経済の発展の
礎であり大きく貢献したことは言を俟たない。
曾野綾子氏の欺瞞的で支離滅裂な言説に惑わされないことを願う
のみだ。
こうなると曾野綾子氏は
「文化功労者」ではなく
「噴火功労者」だ
恥をかくだけだから
世間のことに口を出すのは
おやめなさい
東日本大震災曾野綾子氏の間違いだらけの文書作法
東日本大震災曾野綾子氏の論理的破綻
また削除の洗礼を受けたようだ。「体罰と人間観」
という文言をタイトルに入れていたこともあり削除要請を行っ
たものと思われる。特に曾野氏が知られたくないのは「悪女の
深情け」に触れた件だ。こんなことも知らない「作家」がのう
のうと飯食っている
4月27日の読売新聞の1面に「公立校の体罰 急増840件
昨年度中間報告、前年度の倍」の見出し。一瞬目を疑ったが読んで
みると桜宮高校の体罰自殺問題を受け掘り起こしが進んだ結果で、
最終的には昨年度の体罰件数は2000件を超える見通しだという。
その他に3面の社説「再発防止へ問題意識を高めよ」とスキャナー
のコーナーでも3面の大半をさいて特集し38面にも「跳び蹴り、
頭突き、炎天下正座・・・教師、力で支配」とあった。跳び蹴り・・
そういえば1週間ほど前に「教育サポート」で小学校へ出向していた
大学生が制止も聞かずに廊下を走っていった小学生に後ろから跳び
蹴りをして怪我を負わせたというニュースがあったが、「教育
サポート」というのは、いじめや体罰を監視撲滅するための制度
だったはずだ。どうしてこうなるのか。もちろんこの学生の資質
に原因がある。つらつら考えているうちに、ふと気になったので
ネットを開いてみた。
3ヶ月ほど前の1月25日だったかブログを書こうと思い久しぶり
に当方のブログの管理画面を覗いたら、その前日のアクセスが500
ほどになっていたので、どうしたのだろうと思った記憶がある。
曾野綾子氏がまた何か発信をして世間を騒がしているのだろう
と思ってネットを見渡してみると橋下大阪市長と曾野綾子氏の間で
何かあったようだと分かった。「橋下市長と曾野綾子」のキーワ
ードで、あるタイトルがあったので開いてみた。
それは2chのスレッド。桜宮高校の体罰問題で曾野綾子氏が産経
新聞のコラム「透明な歳月の光」で「体罰と人間観」と題して発
言したのが橋下大阪市長の反発を招いたようだ。
原文をようやく探し当てたので読んでみた。それは「人は変え
られるという思い込み」という副題で始まっていた。
このタイトル・サブタイトルから曾野綾子氏の意図は明白で
「体罰等で人は変えられるという思い込みは薄っぺらな人間観」だ、
そう仰りたいのだろう。 ・・・・・さて。
どうして3ヶ月も過ぎて沈静化した今頃になって、蒸し返すように
曾野氏のことを書くのかというと、読売新聞の先日の記事に触発
されて、ネットを眺めているうちに曾野氏のことを「鋭利な感性
とロジックで切れ込んでいく」と持ち上げたり、終戦直後に朝鮮
半島で起きた「和夫一家惨殺事件」を挙げて人は教育では変らな
いとする曾野綾子擁護論と思しきタイトルが散見されるので、
俄然その気になったということだ。
(和夫一家惨殺事件に対する当方の見解は後述する)
まずは曾野綾子氏の文章から・・・。
曾野綾子氏は「近年、落ち込んでいるといわれる日本の凋落」
などと同義語を重ねて、文章にならない文章をお書きになる「文
化功労者」なので、まずは文章の「出来不出来」から入ってみる
ことにする。
案の定で、冒頭から「バスケット部の主将を務めるほどの子を・・・」
この文言は通常「生徒会長を務めるほどの子を」という
場合に使うが、バスケット部のキャプテンに対しては不適切であ
ろう。
確かに自薦他薦もしくは顧問等の推薦や選挙で選ばれるのは同じ
であっても、バスケット部のキャプテンは部の責任者として他の
部員の活動の責任の一端を負う立場だ。しかし、生徒会長は
体育部とは違って生徒会全体の代表ではあっても他の生徒の行動
に責任を負うことはないし、混同すべき立場ではない。
この文言一つで曾野綾子氏が、いかに教育的知見を持ち合わせ
ていないか明々白々だ。この知見のない曾野綾子氏に俎上に載せら
れた橋下大阪市長が怒るのも無理はない。おまけに「教育再生会議」
の委員である曾野綾子氏が「私は人間というものを改変する力は、
多分に偶然によるものだろうと考えている」などと言うから「教育で
人は変らないというのであれば教育再生会議の委員を辞退しろ」と
橋下市長が主張するのは至極当然。
しかも滑稽なことに「世の中のこと、人間というものが、よく分かっ
ていない」と思われる曾野綾子氏が他人のことになると一刀両断で
曰く「この顧問は何歳の男性か公表されていないが、かなりの
年になっても、世の中のこと、人間というものが、よくわかって
いない人である。」と年齢は関係ないのに「かなりの年になって
も・・・・」と断じて恥じない。「世の中のこと、人間というものが、よ
く分かっていない」と他人を断定するのであれば、その顧問が、
どのようにして桜宮高校のバスケット部を全国一の強豪校に育て
あげたか、それにもかかわらず体罰に歯止めがかからなかった
のはなぜかなどなど理解した上でなければなるまい。
確かにその顧問にとっては体育部の生徒に「身体的に高い能力を
身に付けさせるためには時として体罰も含めた強い指導が必要」
との認識があって、そのような指導を行ってきたものと思われる。
おそらく顧問もそういう指導を受けて育ったに違いない。ところが
人間は体罰することを自ら常態化させてしまうと、時として感情を
コントロールすることが出来なくなり暴走してしまう。生徒の
唇が切れ、シャツを血で染めたのは教師の立場を忘れた行為以外
にない。「虐待」も同様で、最初はしつけのつもりで軽く叩いて
いたのが、いつの間にか遂に死に至らしめる虐待となる。
「殴ってよくなるということや人というものはほとんどいない」
仰る通りだが、その後の比喩がいけない。「少なくとも下手くそ
な小説を書いたからといって殴っても、小説は決して良くならない」
これなどはご自身の「人間観」の薄っぺらさを自白したような記述。
体育会系の話なのに、どうして比較しようのない「小説」を持ち出す
のだ?加えて「殴られるという体験は、不幸の中でも浅薄で根の浅
いものなので・・・・」。「浅薄」も「根の浅い」も同義語ではないに
しても同じような意味合いの言葉。「根の浅い」だけで十分ではな
いか。第一、「「殴られるという体験は、不幸の中でも浅薄で根の
浅いものなので・・・・」などと、これこそ「浅薄」な言葉で「浅薄さ」
を表わしていて笑止千万だ。考えないから、こういう表
現をしてしまう。当方は学校教育法第11条懲戒で「体罰」を禁止
していることもあり、決して「体罰」に賛同するものではないが、
もし自分が悪いことをしてしまって親なり教師が涙しながら自分を
殴ったとしたら、自分はそれをどう受け止め、どう思うだろうか?
現にそういう教師や親、指導者がいたに違いないし、そういう
「体罰」を受けた人も少なくないと思うが、そうして「殴られた
という体験は不幸の中でも浅薄」なものなのだろうか?世の中には、
このようなシチュエーションを体験して、その後、すばらしい成
績を修め、人生を立ち直せた人も多いはずだ。一括りに「不幸の
中でも浅薄」などと記述することは、いささか躊躇われる。
更に次ぎでも曾野綾子氏は立場の違う人を同列に扱って論ず
るという無分別をなんの躊躇いもなく犯している。「感性が鋭い」
とは、とても言える御仁ではない。曰く「私が驚くのは、顧問とい
い市長といい自分の影響で人を変えられるという信念に満ちて
いることだ」確かに顧問については曾野氏の言うとおり
ではあるが、市長に対しては、まるっきり見当違いだ。
自治体の首長として市の教育行政を司る立場から教育現場の
「体罰」や「いじめ」を撲滅していくには制度上の改革を推し
進めるしかないはずだ。
生徒にとっては「体罰」という危険な状況を少なくし、素因を
排除していくのが市長の仕事ではあっても「(自分の影響力で)人を
変える(教育する)」という立場ではないし、橋下大阪市長も、
そこまでは言っていないはずだ。
なによりも橋下市長はツイートの中で「教員、生徒や保護者の意識
の積み重ねでできた伝統が体罰を黙認して、生徒が命を落とした」
この「生徒が命を落とした」ことに市長としての痛恨の思いが
ある。曾野綾子氏は「作家」であるならば、その程度の推測や想像
をもってコラムを執筆すべきであろう。
更に「私は人間というものを改変する力は、多分に偶然による
ものだろうと考えている 」
曾野氏は、またもや、こういう欺瞞的な記述を平然とやってのける。
10年前のゆとり教育を推進した「教育改革国民会議」提出のレポ
ートで記述したことを忘れておられるようなので、改めて氏のレポ
ートの中の語録をピックアップしてみた。
「戦後の教育の荒廃は、精神から人間性を奪っ
た・・・。」「その原因は、長い年月、民主主義の名を借りた安易な
『自由 放任』の姿勢にありました」
「何であろうと筋を通さねば教育など出来るわけがありません」
「現世には、安心して暮らせる場所も時間もどこにもありません。
そういうものをあ ると信じ、要求し、約束する人々の精神からは、
真の教育は生まれるわけ がありません」
「そもそも教育は誰が行うかという点に注目しましょう。『教師
は労働者である』と自ら宣言するような 教師などに、教育ができ
るわけはありません。その時点で自ら思考する能力のある教師た
ちは、自分の使命と尊厳にかけて反対する戦いを始めるべきでした」
「それより幼い年頃の子供に対する教育の責任は、
50パーセント 親。
25パーセント 教師。
25パーセント その子の身の回りの社会。
と私は考えています。
いつの社会でも、どの時代でも、内外のさまざまな理由が、子供の
人生に介入します。人のせいにしていれば、望ましい要素でさえそ
の子を傷つける理由になります」
「実に教育を骨抜きにしたのは、皮肉にも戦後日本の幸運と政治
の成功にありました。現在の日本に、望ましくない要素が多くある
ことは事実です。・・・・。」
「それにもかかわらず、日本は悪い国だ、という人がいて、殊に
マスコミがそうした空気を後押ししまし た。私たちはもっと子
供たちに厳しい現実を教えるべきでありました」
以上の曾野語録は「真の教育で人を変えることが出来る」とし
ている。したがって曾野綾子氏には一貫性がないのだ。
しかも「人間は同じ外的刺激を受けても、化学反応のように、予測
されるのと同じ結果は生まない」と言いつつ「人間に関する限り、
薬を何ミリグラム与えれば、必ずこの病気が治るというものではな
いのだ。放置しておいても治る人もいれば、薬を与えることで薬害
が出る体質の人もいる。」などと肉体的生理的反応を
述べるという、全く論理のなさをさらけ出す。「鋭い・・・・ロジックで
切れ込んでいく」と賞賛する曾野綾子ファンの言説とは全く異なる。
ロジックなどという代物ではないのだ。
次の「ここで私は『悪女の深情け』という言葉を思い出すのだが、
現代では『悪女』というものがよくわからなくなった。女性たちは
全員が美女になったし、他人のことはどうでもいい女性ばかりだから、
深情けなどかけてもらっている男性もいないのではないかと思われ
る。女性は性悪女ではなく、全員が牝になったのである。」前段と
どう論理的につながるのか解らないが、この文脈からすると、どうも
曾野氏は「悪女」の意味を理解していないようだ。「悪女」を「性悪
女」と思っておられるようで、従って更に意味不明の文章になって
いる。「文化功労者」曾野綾子ちゃん!「悪女の深情け」の悪女は
容姿が醜い女=醜女、今風に言うならば「ブス」。顔に自信のない
女は愛情が深いが嫉妬心も強い、という意味でしょう。言葉も理解
しないでサンケイ新聞のコラムを書き続けているということはサン
ケイの読者を馬鹿にしているということだよ、綾ちゃん!
従って意味不明のまま「そういう意味で」と支離滅裂。
加えて「この人間を信じている2人の男性の闘いは、当節
珍しい見物であるという気がしないでもない」。すべて他人事で高
みの見物だから、こういう表現しか出来ない。顧問を擁護する人た
ちと橋下市長の闘いではあるが、「信じる」ということでは、確か
に顧問はキャプテンを信じるあまり体罰を加えたかもしれないが、
顧問は生徒の死の知らせを受けて衝撃を受けて憔悴しきっていて
言葉もなかったはず。
一方、橋下大阪市長は「人間を信じて」というのではなく自分を信
じて市長の立場から制度等を変えようとしているということだ。
第一「二人が闘っている」という構図にしか見えないところに
曾野綾子氏の浅薄さがある。
「いじめの問題も制度を作るくらいではほとんど解決しないだろう
と思う。」いじめを根絶することは無理ではあっても一件で
も、いじめを少なくし体罰をなくすことが我々大人の役目では
ないのか?それこそ「教育再生会議」のメンバーである曾野綾
子氏の役目ではないのですか?
そして最後の締めくくり。「人間は心の体質を変えて、免疫力を
つけることが大事なのだ。」
なんだ、これは!「体質を変える、免疫力をつける」のは、誰が、ど
のようにしてつけるのかっ!生徒がそれらを身につけるのは「偶然に
よる」のですか?生徒の体質を変え、免疫力をつけさせるには、曾野
氏の言うところの「外的刺激」つまり「教育」によるしかない。
「人間というものを改変する力は、多分に偶然による」などと結論
めいた気取った文言は論理矛盾を自ら暴露したことになった。
恥を知るがいい!
ここで、先に触れた「和夫一家殺害事件」に触れておく。
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ネットを見ると、この事件は終戦直後、朝鮮半島で起き
た日本人一家惨殺事件のようだが、当方も初めて知って衝撃を
受けた。
あらましはこうだ。「和田和夫という夫婦から深い恩を受けていた
加害者の一人金ソンスという若者が証言した内容を記録した出版
物が韓国社会に衝撃を与えて事件が明るみになったものだ。
「・・和夫は、小作料を収穫全体の十分の一とし、村人たちを家
族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。・・・ 貧しい
小作人が食料がないと泣きつけば、喜んで食べるものを分けてや
ったし、村で誰かの葬礼があれば、家族総出で駆けつけ、食事の
支度はもちろん、自ら慟哭して、悲しみを分かちあうこと
もあった。このように、和夫は人間への温かい愛情をもった、真
の人間だった。また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると、
連れ帰って面倒を見ていたが、その数は、一人、二人と増え、
四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまっ
た。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、
自ら喜んで彼らの父、母を称した。・・・しかし、彼らは、日本
の天皇が降伏宣言をした一九四五年八月十五日、自分たちが育て
た朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。・・・彼がわが子
のように育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼
の家で教育を受け、育ち、成人した青年たちが、斧と鍬、スコッ
プを手に、和夫のもとに押しかけた。・・・・・・・・・・・・」
この記事を読みながら当方は彼ら朝鮮人に対する怒りで胸が
震えた。教育で人は変らないとする曾野綾子擁護論者の胸中も
察するに余りある。しかし、東大を出た者が、どうして事件を主
導したかという疑問が残る。これは当方の推測だが、首謀者Aは
大学で朝鮮半島の歴史を学ぶうちに、日本の植民地政策のあまり
の暴虐に怒りを募らせて、恩讐の狭間を彷徨ううちに更に憎悪を
募らせて暴挙に及んだものと思われる。
とりわけ抗日の歴史は、日清戦争後の日本軍守備隊と朝鮮訓
練隊による朝鮮の国母である王妃を斬殺した「閔妃暗殺事件」に
始まるといわれている。首謀者Aは当然、朝鮮側の史観に基づい
て学び、考察したものと思われる。さらに、その後の朝鮮併合と
植民地政策の中の同化政策や創始改名は朝鮮文化の抹殺だったと
する説は朝鮮社会では根強く朝鮮人知識階級の反発を招いた。
だからと言って「和夫一家殺害事件」の犯人たちに同調するもの
ではないが、特殊なこの事件をもって「教育によって人を変える
ことは出来ない」とする論調は、あまりにも短絡的だ。もっと
冷静に分析すべきであろう。
現に「教育」は古今東西、国家の政治・経済の発展の
礎であり大きく貢献したことは言を俟たない。
曾野綾子氏の欺瞞的で支離滅裂な言説に惑わされないことを願う
のみだ。
こうなると曾野綾子氏は
「文化功労者」ではなく
「噴火功労者」だ
恥をかくだけだから
世間のことに口を出すのは
おやめなさい