「はァ~? 姫子がひとを殺したかもしれない──だって? 面白いこというねえ。いま、それ、日本で流行ってんの? マジ受けるんだけど、アハハっ」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、大親友マコちゃんこと早乙女真琴の呆れ声。
からからとした声だけど、歯に衣に着せぬ言いかた。昔から、変わってない。遠く離れても友だちじみた声で、嬉しくなる。短距離走者からマラソンランナーに転向して実業団に所属する彼女はいま、海外で強化合宿中だった。空気の薄い高山の坂道で走りを鍛えているという。
「冗談も休み休みに言いなさいよ、あんたは~。というか、休み過ぎておかしくなってんじゃないの。寝相の悪い姫子さんは夢見も悪いんだぞっと」
「そうかなぁ」
「そうだろ、そうだろ。だいたいなぁ、あたしの知ってる姫子が、んな物騒なことしないっての。あたし、やだかんね、帰国したらインタビュー受けてさ、犯人はおとなしくて蚊も殺せないタイプだったのに…(泣)、なんてヘリウムガス飲んだ声で証言しなきゃならないのは!」
実際、マコちゃんが変声をつくったので、ちょっと吹き出しそうになる。ピカチュウの声真似もうまいもんね。
「…うん、そうだね」
「で。拘置所で面会したときの差し入れは何がいいんだ? やっぱ、国産のしいたけか?」
「…うぅ。それはごめんだね」
これにはふたりで大爆笑。
やっぱり、相談先はマコちゃんがいい。泣きたくなるようなことも笑い飛ばしてくれようとするし、他人から軽んじられてしまうことは口を出してもくれる。そもそも、これは事件じゃなかった。死体も犯人もいない、でも殺しちゃったかもしれない可能性。ひょっとすると、もう時効なのかもしれない。でも、自分の犯した罪を悔いるのにいついつまではない。法の定めた年月の長さで区切れるもんじゃないだろう。
「わからないならさぁ、本人に訊けばいいじゃん。ゴール見えてんのにさ、なんで走り出さないかなぁ。あんたって子はぁ」
「うん、でもね…その人は」
「運命の人、だったんだろ。なのに、そいつのこと、姫子は信用できないのかねぇ。どうしちゃったのさ」
胸の中身がかくんと下に引き下げられたような気がした。
そうだ、わたしは…千歌音ちゃんを、愛する千歌音ちゃんを信じていないんだ。心から、信頼しきっていない。どこか怖がってもいる。許してもらえないような気がして怖い。融けかけた綿菓子みたいに、甘くておいしいのに喉に引っかかるような、得体のしれないモヤモヤがある。だから、あんな不吉な夢を見たりして…。夢そのものよりも、不信感があったという気づきの重さに、わたしは愕然とした。自分の不甲斐なさに思わず、ぽろりと涙を落としそうになった。
「運命の相手とか、生まれる前から結ばれてるとかさ、そういうキラキラした漫画みたいなことはいいとして。姫子がきちんと信じて待ってたからこそ、そいつに出会えたんだろ。探そうと思ってなきゃ、見逃してただろ。だったら、そいつが少々頭のネジがおかしかろうが、変態さんだろうが、酒飲みでだらしなかろうが、まあとことん付き合ってみればいいじゃん。当たって砕けろだ! はい、よ~いドンで、スタート切れ!」
いや、そうじゃないんだけど。
へんだな。どこで話がズレたんだろう。わたしが首をかしげていると、後ろの首筋になんだか生暖かい風が吹いてくる。廊下側のどこかの窓が開いているのだろうか。もどかしくて、黒電話の螺旋を巻いたコードへひとさし指を巻きつけてみたり、ダイヤル番号の穴を小指の先でいじってみたりしたくくなる。
「そんなに気になるならさ、そのご本人を知る人に訊いてみればいいじゃんか。うまい伝え方、考えてくれるかもよ~」
あ、もうタイムアップ、またね。とばかりにマコちゃんのほうから一方的に切れた電話。
受話器を置こうとして、わたしは目をぱちくりさせた。紙コップの糸電話をわたしの背中にあてて、盗み聞きしていたのは、そう姫宮邸の侍女長・如月乙羽さんだった。しかも、ふたつともわたしにぴったり当てているから、糸電話の意味がまるでない。っていうか、それ聴診器? 心臓バクバクが聞こえそう。まさに、これから探しにいこうとしたその人がいたなんて。
「お話は重々伺いました、来栖川さま。千歌音お嬢さまが、客間でお待ちになっています」
「…あ、ハイ」
なんだか、とても手際がいい。打ち切り漫画の急展開みたいだ。でも、気にしないことにしよう。
とぼとぼとその背中についていこうとした矢先、廊下の中央でくるりと振り返った乙羽さん。
縦ロールが勢いよく弾んでいる。ギンと睨みの利いたまなざしが間近に迫って、
「お断りしておきますが、先ほどの行為は盗聴などではございません。ええ、ご・ざ・い・ま・せ・ん・と・もッ! まかり間違っても、通信の秘密を侵すなぞ不正不実なことが、この姫宮邸においてあろうはずがありませんッ! これは、ご当家家伝の由緒正しき情報取集でございますから。御承知おきを」
コホン、とひとつ咳払いして、冷静な顔に戻る乙羽さん。
あまりの剣幕にひたすら、うん、うん、と首を振るしかない。乙羽さん、やっぱ怖いよ。
今のこんな弱気だったら、オレオレ詐欺にでも引っかかりそうだな、わたし。
きびきびとした動作の乙羽さんに促されて入ったのは、グランドピアノのある客間。
客間なんだけど、実質は千歌音ちゃんのピアノ練習場でもあり、ふたりで過ごすリビングみたいにもなっていた。
扉が開かれたとき、わたしはさらに目を見開いた。
胸がどくんと跳ねる。そこに立っていたのは、あざやかな藤の袴を履いた巫女すがたの千歌音ちゃん。そう、あの重く息苦しい夢のなかで、わたしが着ていたはずの衣裳だった──。
【目次】神無月の巫女二次創作小説「君の瞳に生まれたエフェメラ」