1 「月下の宮」とはロマンチックなこの世にはないような宮だと思っていたが、現在の地図にのっている槻下(ツキノシタ)集落のことである。郷土史家は「この集落は加勢陀川の東にあり、山側(伊勢野か斉尾)に内宮の天照皇大神宮があった」とする。位置関係としてはピッタリである。加勢陀川の西にある旧方見郷とは文化圏が違っていたのかもしれない。いきなり天照皇大神宮を加勢陀川の西に持ってこられて、元大塚・中尾・上伊勢・下伊勢の四ヶ村の氏神を境内社に押しやってしまったのだから、この四ヶ村の住民は憤慨されたと思う。
2 しかし、「槻下」をどう読むのだろうと思っていた時期もあった。難しい字である。これが「月下」だったのならば、なぜこの字を残さなかったのか。こちらのほうが、よほどロマンチックですぐ読めるのにと思う。そこが、地名・人名なんでもござれの藤原氏である。古事記の字を日本書紀の字に変えたように「月下」を「槻下」に変えている。伊勢野でも後で「野」を付けたのかもしれない。伊勢の郷となぜ呼ぶのか。伊勢崎村も後で「崎」を付けたのかもしれない。
3 伊勢野にあった天照皇大神宮は、海側に下ったところに外宮の月下(ツキノシタ)の宮があり摂社十六社、末社十七社を附属させていた。まるで、三重県の伊勢神宮のミニチュア版のようである。なぜ、こんな田舎に真似てまでそんなものを造る必要があったのか。そうではなくて、ここがオリジナル(元伊勢)であったからである。
4 伊勢神宮も出雲大社も宇佐の八幡宮総本社も丹後の豊受大神社・皇大神社も大きくて立派な造りである。建築様式もよく似ており、みな同じ一族が建てたものである。時代も同じ頃にたてたものと思われる。現在の規模の大きさに造ったのは、奈良時代(八世紀)後半である。伊勢神宮も出雲大社も式年遷宮をするようにしたのは同じ頃に藤原氏が定めたと思われる。
5 法隆寺と同じ伽藍配置の斉尾廃寺にあった寺は天照皇大神宮に並べて建立されていたものと思われる。上淀廃寺にしろ斉尾廃寺にしろ焼いたり壊したりしたのは藤原氏である。再建しようにも人間も法華寺畑遺跡で殺されているので、どうしようもなかった。ちょうど内宮と外宮の間を通る県道倉吉東伯線を倉吉方面に道なりに行けば、法華寺畑遺跡の横にでる。葦原中津国も通るのでそこにいた大国主の子孫も連れて行って殺したのだろう。阿遅鋤高日子根の子孫(大山の大神山神社の宮司)は助かったそうだが。奈良時代の藤原朝廷は首を切って晒し首にしたそうである。「これこれの子孫は褒美を与えるから名乗り出よ」と言って名乗り出させておいて、他所にテーマパークを造ってから、「お前は嘘をついたから処刑する」という手法と思われる。