「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

三徳山と大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)について

2018-08-03 13:59:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  鎌倉時代末頃の成立と考えられる『金峯山草創記』には、「役行者の前世の姿である震旦国の好積仙人が、『仏法を開き行う所に落ちよ』と願い、三本の黄色い蓮華を投げたところ、伊予国石辻(石鎚山)、大和国弥勒長(金峯野山)、伯耆国三徳山に落ちたため、この三所は『仏法霊験の勝地』である」とある。

2  源頼朝は三徳山に剣を奉納している。

源頼朝寄付の剣(伯耆国の三徳山の宝物殿にて)

3  「吾妻鏡」によると、文治二年(1185)源義経は兄頼朝の迫害を逃れ、吉野山の吉水院に潜居したとある。吉水神社の社伝によると、「吉水神社は役の行者の休息の庵室として創立された金峯山寺の僧坊(僧房)・吉水院であった」とある。

4. 大御堂廃寺は久米寺といっていた。
 泊瀬は長谷であり、来目は久米である。長谷はハセであり、ハッセではない。古事記の「長谷や久米」の文字は実際に地名や人名として残っているが日本書紀の「泊瀬や来目」の文字は実際の地名や人名としては残っていない。造語である。
 日本書紀の文字は古事記の発音を別の漢字をあてて改ざんした造語である。現実の地名とピッタリあてはまる古事記の文字が稗田阿礼が述べて太安万侶が書き留めた文字である。日本書紀は原古事記を改ざんしたものであり、古事記は原古事記の残欠である。
 大御堂は地名であり大は王であり「王の御堂」とよめる。
 
 久米寺(大御堂廃寺)は新羅系の道場であり、天武天皇や役行者や大来皇女や長屋王はここで格義仏教に混ざった道教の修行をした。


最新の画像もっと見る