「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地

2018-07-29 14:31:08 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 崇神天皇の皇居は原古事記の表記は「水垣宮」であった。瑞籬宮は同じ読みの別の漢字を持ってきた改ざん表記である。崇神天皇の水垣宮は水辺に近い長和田集落と思われる。
 奈良の宮跡
 「磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探し出しました。そして彼に託して三輪山に大物主神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。また、東海や、北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたところから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています」とある。
 古事記には「師木の水垣宮」とあるので水に近いところにあったはずである。皇居は鳥取県湯梨浜町長和田にあり、二ノ宮は岡山県津山市中山神社にあった。奈良の宮は三ノ宮か四ノ宮である。

2 崇神天皇の皇居は師木の水垣宮であり、東郷池周辺の水辺に近く、国譲りで事代主と百八十神(出雲神族)が移ってきた湯梨浜町長和田集落と思われる。
 200年頃、長和田の周辺は水で囲まれていた。はえ(波延とも蠅とも書く)という地名や一族は長和田集落や長和田集落出身と思われる。当時地形的に、日本海の波が真っすぐ届いていた。大吉備津日子(崇神天皇)の母親の蠅伊呂泥の出身地でもある。

 長和田(ナゴウタ)集落です。

3 崇神天皇の和風諡号は御真木入日子印恵命であるから、御真木国に入って活動していた。御真木国とは岡山県津山市中山神社あたりと思われる。
 
 中山神社の奥には猿神社がある。中山神社は猿の伝承が全面に出されている。この手法は父の孝霊天皇が居た倭文神社のある湯梨浜町宮内の伝承を下照姫に置き換えて全面に出す手法と似ている。

4 垂仁天皇の皇居は師木の玉垣宮にあったから、東郷池周辺の少し高いところにある湯梨浜町川上集落と思われる。
 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は・・・川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・石上神宮に納めた」とある。
 垂仁天皇の在位は220年から250年頃までであり、古墳時代前期である。弥生時代後期には、すでに青谷に鉄を高度に加工する技術者がおり(青谷上寺地遺跡発掘調査報告書より)、五十瓊敷命は青谷からその技術者を川上に連れてきた。玉鋼も伯耆国河村郡の三朝町で採取できた。三朝町で204ものたたら遺跡が発掘されている。その玉鋼を伯耆国河村郡の川上字鍛冶屋谷に集めて太刀一千口を造った。太刀一千口を伯耆国河村郡の忍坂邑に納め、のちに河村郡の石上(大原)の石上神宮(倉)に納めた。
 三朝町片柴の北野神社の横には三徳川が流れ、船で降れば倉吉市大原に至る。太刀一千口は三朝町片柴の北野神社に納めていた。

5 垂仁天皇の和風諡号は伊久米伊理毘古伊佐知命だから岡山県久米郡美咲町の大宮神社あたりを活動拠点にしていたと思われる。
 

 瓊々杵命の大宮神社はまわりが畑であるが、垂仁天皇の大宮神社は集落の中にある。鳥羽や奈良には中山神社より近い。

6 倭建命(若日子建吉備津日子)や倭姫命(倭迹迹日百襲姫)のヤマト王権による東国の平定後、倭建命(若日子建吉備津日子)は豊田市の猿投神社を東国の拠点にし、倭姫命(倭迹迹日百襲姫)は神戸市の旧生田神社を拠点にしていたが、倭建命が亡くなってからも崇神天皇(大吉備津日子)は猿投神社を東国の拠点にしていた。この頃、全国に創建した神社の代表者を集めての祭祀は倭姫命(倭迹迹日百襲姫)も来て、鳥取県北栄町下神の神浅茅原で行っていた。北栄町下神の三輪山では弥生時代(大物主は弥生前期)の土器が発掘されている。
 しかし、東国の代表者の便宜のため、代表者を集めての祭祀は奈良の纒向ですることに決めた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)は神戸市の旧生田神社から鳥羽市の伊射波神社に本拠地を移した。


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