案内板には「長谷寺はいつごろ建てられたかはっきりしない。縁起では養老5年(721年)に建てられた」とある。日本書紀が完成したのが720年であり、不比等が亡くなった年(720年)の翌年721年まで山上憶良はこの近くの伯耆国庁にいた。山上憶良が帰る年に長谷寺は建立されたことになっている。
1 葛城山から長谷の山の登り口までのルート
原古事記には、「神は来目川を越えて長谷の山の登り口まで見送った」、と書いてあったはずである。日本書紀は来目川まで送ったことにした。
2 長谷寺の登り口(長谷の山の登り口)
神は長谷の山の登り口まで見送った。
長谷寺の登り口に中国自然歩道案内板がある。この山は「いのしし」が出る。
途中で、火火出見命と神武天皇四兄弟がいた四王寺山(畝傍山)が見える。木がなければ全体が見える。
打吹山の中腹にあるため登り口からかなり高いところにある。
石段を数百段上がったところに長谷寺がある。
長谷寺の内部です。
3 倉吉市打吹山
雄略天皇が「何とも言えず美しい」といった長谷の山(打吹山)。打吹山の山体は、おもに流紋岩から成っている。この流紋岩は中生代白亜紀の火山活動によって形成された。周辺の山々の地層と独立しており、より古いものである。
打吹天女伝説は、藤原氏によって広められたものと思われる。孝霊天皇の居た湯梨浜町宮内の下照姫伝説や崇神天皇の居た津山の中山神社の猿の伝説と同じであり、そこにいた天皇の伝承を隠すためである。
打吹天女伝説は、藤原氏によって広められたものと思われる。孝霊天皇の居た湯梨浜町宮内の下照姫伝説や崇神天皇の居た津山の中山神社の猿の伝説と同じであり、そこにいた天皇の伝承を隠すためである。
4 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡は東郷池周辺であり、シキ(志幾・斯鬼)にある。このシキ(志幾・斯鬼)に大県主の鰹魚木をのせた家があった。雄略天皇は打吹山の長谷寺にあった皇居から東郷池周辺に来た。
蘇我稲目天皇と同じように、雄略天皇はシキ(志幾・斯鬼)にも宮があった。