「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

神功皇后の民間伝承のもとは豊鋤入姫命(台与)の伝承であった

2020-02-26 06:44:31 | 邪馬台国・卑弥呼

1 神功皇后のモデル(豊鋤入姫)は実在したが、百済人によって百済色に色濃く染められている。
神功皇后の三韓征伐は倭国女王の豊鋤入姫命(台与)と倭国大王の武内宿禰が三韓に行った記事を亡命百済王朝(日本)が百済色に書き換えたものである。
 系譜を調べると、景行・成務・仲哀は百済国の王であった(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。13代倭国王は武内宿禰であり、12代倭国王は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であり14代倭国王は武内宿禰の4男であった。
 台与は豊鋤入姫命であり彦太忍信命の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自であった。第12代倭国男王の屋主忍男武雄心の妹となる。屋主忍男武雄心の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であり、神功皇后のモデルであった。
 豊鋤入姫命は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命)とある。臺與は豊鋤入姫命であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段には武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫命であった。
 神功皇后は新羅に敵対する皇后として描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなかった。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫命の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。亡命百済人たちは八幡神社を創建し神功皇后を八幡神社の祭神の一人とした。九州周辺に多く残っていた豊鋤入姫命や倭姫命の民間伝承は神功皇后の伝承として多くの八幡神社に吸収させていった。
 強奪に喜びを感じる扶余族(百済人)である。倭国の歴史を強奪した。

2 豊鋤入姫は倉吉市鋤を本拠地にした(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」と「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。これは私が調査研究した結果である。定例会で会員の方が「神功皇后は倉吉市上神にいて、倉吉市の北面で出産された、という伝承がある」と言われた。その伝承は調査結果と一致する。倉吉市鋤を本拠地にして倉吉市上神におり、倉吉市北面で出産した。この3ヶ所とも「つくし」の日向の地である。記紀には「神功皇后はつくしで出産した」とだけあり、九州の「つくし」とは書いていない。この地が木を切り「つくし」ていた地ということは波波岐神社の神社明細帳に「一ツ木の神クシフルネ(亀谷丘陵)」という記述でわかる。倉吉市北面は「つくしの日向」の地であるが、なぜ「つくしの日向」と書かずに「つくし」とだけ書いたかは容易に察することができる。九州では「つくし」と「日向」は別の地だからである。
 また、新羅を西の国と書いている。九州から新羅は北の国である。神功皇后の時代から記紀を発表するまで九州から新羅には何度も行っているはずだから方角は判っているはずである。倭国歴史書原文には倭国(鳥取県中部)から西の国の新羅がどういう国か書いてあったのだろう。百済史官はそれをおかしいと思うことなくそのまま書き写した。ここでもほころびが生じた。

3 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている」とされる。
 鳥取県湯梨浜町宮内集落の倭文神社は伯耆国一宮で昨年は中央から雅楽の演奏に来ていた。また平安後期(1100年頃)に埋納された国宝の経筒(伯耆一宮経塚から銅経筒、金銅仏、銅鏡、檜扇、短刀、刀子、玉類、銅銭、漆器などが出土した)も発掘されている。京都の藤原氏はこの神社を重要視していた。伝承では「高姫(下照姫)が国譲りで出雲からこちらに来て、助産婦の仕事をしていた。」高姫(下照姫)に仕えた者たちの子孫も数軒あるという。高姫(下照姫)が涙ぐんでいた様子まで伝承されている。
 伯耆国に宮内は3ヶ所しかない。2ヶ所の神社は孝霊天皇を祀った神社である。では残る1ヶ所の倭文神社も孝霊天皇を祀っていたのではないか。また、宮内遺跡からは弥生時代後期(倭国大乱の頃)の国内最長の鉄刀が出土している。
 湯梨浜町宮内に行って聞いてみると、「倭文神社には高姫(下照姫)がいた。伝承も残っている。宮内に遺跡などない。きっと、橋津に古墳があるからそこのことだろう。橋津にいってみたら。」という返事が返ってきた。あくまでも「調べるな」といった口調であった。また、倉吉市大谷の長老に聞いた時もあくまでも「四王寺があるから四王寺山という」の一点張りであった。
 河村哲夫氏はここで「はい、そうですか」と引いてしまっている。三千ヶ所の伝承の中に大和(藤原)朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、藤原氏は伝承を創設する名人である。倭国の歴史を強奪するためには何でもしている。
 倉吉市寺谷に天稚比古と住んでいた高姫(下照姫)は天稚比古が亡くなってから夫の出身地の高天原(蒜山)に近い倉吉市志津の倭文神社で助産婦の仕事をしていた。藤原氏は志津の伝承を宮内に移し、孝霊天皇一族の伝承を隠した。

 藤原氏は創作伝承を守るための人員を京都から派遣し重要な集落の住民として古くより(統一新羅滅亡の931年頃より)住まわせている。百済出身の京都の藤原氏は新羅を恐れていた。京都で検非違使をしていた山田氏は931年に北条山田八幡神社を鳥取県北栄町北尾に創建した。「北条」の地名は北の京(条里制)と付けたかったのだろうが、北京とはできなかった。「北条」という地名も山田氏が付けたと思われる。
 高姫(下照姫)を登場させて八橋の地名由来を創作して笠縫邑を隠したのも京都の藤原氏であった。鳥取県南部町手間山の赤猪伝説も倭国大乱の激戦地の手間山の伝承を隠すために藤原氏によって創作された。手間山には妻木晩田から逃げてきた出雲族(兄の八十神)がおり、手間山のふもとには、孝霊天皇や倭建命に従っていた大国主の14世孫の武牟口命がいた。

4 神武天皇に関係する伝承に「神武天皇が生まれた狭野神社・15歳で宮を遷した宮崎神宮・神武天皇が祈願した都農神社・矢研の滝・立磐神社の腰掛岩・美美津港のおきよ祭り・早吸日女神社」などがある。「速吸の門」は明石の多くの弥生遺跡より間違いなく明石海峡である。したがって、「速吸の門」は豊予海峡ではなく、豊予海峡までは藤原氏の作り話であった。神武天皇の腰掛岩も創作である。神功皇后の腰掛岩も創作である。
 河村哲夫氏は「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、騙されているだけである。私は騙されない。神社庁に輪をかけたように教育委員会が加担しているのでたちが悪い。明治政府は藤原政府から始まっているから、神社庁も教育委員会も藤原氏の流れにある。

5 倭姫命や倭建命や豊鋤入姫命や武内宿禰は実在していた。原古事記には彼らの旧事も書いてあった。対馬海流があるため倭(鳥取県中部)朝廷にとって九州は中国に朝貢するために通らなければならない大事な場所であった。それは神武天皇の時代から同じであった。豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰も九州の平定をしている。また、稚日女命を祀る神社が九州の各地にあるので、倭姫命や倭建命も九州に来ている。熊襲を平定して伊万里から船を出している。佐賀県伊万里市黒川町の若宮神社(祭神 若日孁尊=稚日女命)の由緒に神功皇后が出てくるので、豊鋤入姫命(台与)が三韓に向けて出発したのも伊万里からと思われる。奈良時代になっても豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰や倭姫命と倭建命の伝承は残っていた。
 神功皇后は百済色が濃厚である。おそらく、百済が新羅を攻撃した百済の伝承を倭国歴史書原本にあった豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰が三韓に行った旧事を改ざんして創作したのが神功皇后と思われる。倭国(鳥取県中部)の女王の豊鋤入姫命(台与)が建国以来、兄弟国であった新羅を攻撃するわけがない。

6 百済王朝(藤原氏)にとって応神天皇(葛城長江襲津彦)は特別な存在であった。百済が最初に倭国に朝貢したときの天皇であったからである。不比等は特別な存在の応神天皇を祭神とする八幡神社を創建することにした。不比等は女王であった豊鋤入姫(台与)や倭国13代大王であった武内宿禰を応神天皇に関係する神として八幡神社の祭神にした。
 太安万侶は原古事記を天武天皇の皇子の穂積大王に渡したつもりであったが、不比等に渡ってしまった。不比等は原古事記に記載されていた女王の豊鋤入姫(台与)の段を百済色の濃い神功皇后の段に書き換えた。13代武内宿禰大王の代わりに成務天皇を創作した。14代には応神天皇の父親として仲哀天皇を創作した。本来14代であった仁徳天皇は16代とした。特別な存在の応神天皇の15代は動かすことをしなかった。応神天皇の在位は354年~394年と思われる。13代の武内宿禰大王と15代の応神天皇(葛城長江襲津彦)は八幡神社や古事記・日本書紀に利用されているが、倭国(鳥取県中部)に皇居のあった正統な天皇であった。豊鋤入姫命(台与)の本拠地も鳥取県中部(倉吉市鋤集落)にあった。

            
7  原古事記には、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の段があった。倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の民間伝承も多くあった。不比等は原古事記の記述や伝承を消したり改ざんしていったが、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承は広範に渡り、すべてを消したり改ざんすることは不可能であった。そのために八幡神社を造った。神社に住民を集めて、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承を聞き「その姫の名は神功皇后である」と暗示にかけていった。そして八幡神社の祭神を神功皇后とし、古事記・日本書紀に新羅に敵対する神功皇后の段を作った。八幡神社は全国に4万4千社あるという。八幡神社以外の神社よりも多い。
 倭王朝と亡命百済王朝とは642年より列島に並立し、734年に亡命百済王朝(日本)が倭国を呑み込むが、それ以前から呑み込む準備をしていた。亡命百済王朝はそれまでに崇神天皇や倭姫命(卑弥呼)によって造られていた全国の神社を呑み込んで、自分たちの神社ネットワークを新たに創っていった。それが八幡神社である。

8 参考
(1) 神功皇后の壱岐と対馬の伝承 
 壱岐に13ヶ所  
「風本→勝本」「東風石」「聖母宮」「馬蹄石」「印通寺」「錦浜」「衣かけ石」「七湊」「夕部」「御掛けの石」「御手洗川」「柄杓江」「湯ノ本温泉」など
 対馬に15ヶ所
「腰掛石」「神住居神社」「雷神社」「雷浦」「与良祖神社」「桜橋公園(志良石)」「笠渕・截裳渕」「砥石渕」「阿須浦・阿須神社」「綱掛崎」「八点島」「千尋藻・入彦神社」「櫛」「胡禄神社」「本宮神社」など 
※ここにある伝承地でもあとで藤原氏(八幡神社)によって造られたと思われる伝承がある。 
(2) 鳥取県神社誌にも、神功皇后が5神社の由緒に書かれている。
P32
宮長神社
古伝に「竹内宿禰因幡国を巡視するや、未だ村里尠(すくな)し。僅かに河邊に一小村あり。白衣の老人あり。天鈿女命の裔胤(いんえい)と称し、宿禰に謂いて曰く「吾がために祖宗の祠廟を建てよ」と、宿禰乃ち社を築き奉斎せるに始まる。その後神功皇后(豊鋤入姫命)新羅より凱旋せられ因幡国北浜に着せらるるや、本社に報賽せられ、神託によりて社領を附し、本社に宮長の号を奉られし」と伝う。
P66
彌長神社
かって彌長大明神また凱陣の宮と称す。即ち因幡誌に「凱陣山、凱陣の宮、土人の御凱陣山という二つ山の南の連岡是なり。その地、松林鬱茂の間に小社あり。伊與長大明神と号す。相伝う。神功皇后(豊鋤入姫命)征韓御帰国の時、此のところに鷁首を繋ぎ給うその跡なるを以て、御魂を祭りて凱陣の宮と崇む、とぞ。按るに神功皇后(豊鋤入姫命)、御諱を気長足姫と称す神号、彌長気長と和訓相似たり。疑うらくは気長訛謬??なるにや」
P123
和多理神社
因幡誌に「和多理の神社一座、延喜式神名帳所載、八上郡和多理神社是なり。社伝に曰く猿田彦命を祭る。神功皇后(豊鋤入姫命)筑前国大渡島より神主を此処に遷す。よって和多理神と称す。云々。土俗今大多羅大明神と呼ぶもの大和多理の誤りならんか。和漢三才図会曰く。和多理明神は八上郡にある。社領三十五石。祭神猿田彦命。景行天皇朝、これを祭る。云々。按に景行天皇の時始めて筑前国に斎て神功皇后(豊鋤入姫命)の御世、当国に遷座なるにや。時代少し異なりと雖も、今に至って凡そ二千年。その旧趾紛乱なし崇むべし。・・・。木石あり。和多理の長寿石と号す。天明年中この石の下に神鏡を掘出す。円五寸厚さ四分裏鶴亀模様あり。神前に納む。と見え。また社伝に大同二年九月和多理の山(一に越山という)より現地に遷座せられ、松樹および二股の竹を各一株、長寿石、この他種々の神宝を遷し奉れり」と。
P256
板井神社
当社縁起書の写しに「勧請の儀は、人皇十五代神功皇后(豊鋤入姫命)三韓安く平け給う勅願による御神社なり。よって本朝安全のため人皇四十代天武天皇白鳳四年まで御勅使在之為金銭領被附置御儀は勧請記に分明云々」
この宮石家は元因幡国造伊福部氏より出でしたりしが後氏を宮石と称したるなり。
P425
国信神社
旧記によれば欽明天皇(蘇我稲目大王)元年霊験に由って勸請すという。神功皇后(豊鋤入姫命)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生。御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣。出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。(伯耆民談記に「祭神一座神功皇后(豊鋤入姫命)なり。人皇五十六代清和天皇の御宇当郡稲光の庄国信の村に鎮座ありと云う。御船に移らせこの村の灘に着船ある。その地を船磯という。蓋聞國山八幡と号することは、国を治民を守るの鎮座の山なるゆえに國山八幡とは称すなり。御船着岸の時御籏鋒たちし所を幡鋒と云来れり。当村を国信という。左右に連なる村を末長、末吉という。蓋し、その称すことは当社鎮座の時よりしてなり。神能国に信なるが故に国信とす。末世の神威を寿き末吉と号す。神徳萬齢不易に長なることを祝して末長と称する」と云う。社伝に曰く・・・。)
※ 私見
 国信神社由緒の「神功皇后(豊鋤入姫命)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生」は日本書紀に従って書いている。人力船で新羅から筑前港へ凱陣することは不可能である。半島西側から出港した。史実は「神功皇后(豊鋤入姫命)は出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。その後、御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣」である。武内宿禰は神功皇后(豊鋤入姫命)より早く三韓を出発し宮長神社に到着していた。

 

 
 


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