稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。
1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」と言う説が有力であり、調べてみることにした。
孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみた。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であったが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していた。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみた。ところが、祭神として日女命も倭迹迹日百襲媛命も祀っている神社はなかった。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかった。しかも、孝霊天皇の祀られている神社と関連があるような位置関係である。もしかしたら、稚日女命は日女命と同神ではないか。倭姫命も倭迹迹日百襲媛命と同神ではないかとの推測のもと調べてみた。
古事記・うけいの勝負において「織女の一人は、機具の梭の端(はし)のところで陰処を突き、それがもとで死んでしまった」とあり、日本書紀の一書に「稚日女命は梭で身体を傷つけられて死なれた」とある。また、日本書紀・崇神天皇において「倭迹迹日百襲媛命は箸(はし)で陰部を撞いて死んでしまわれた」とある。日本書紀を信じるかぎり、稚日女命はただの織女で倭国女王の卑弥呼ではないと思われる。
しかし、まてよ倭迹迹日百襲媛命も陰部を撞いて死んだことにしている。何か関連がありそうだ。しかも稚日女命は日女命と似ている。大「王」も大「臣」に変えられている。もともと倭国では祭神「日女命」とあったものを日本が倭国を乗っ取ってから「稚」を付けて「稚日女命」にしたのではないのか。
2 私見
(1) 鳥取県旧溝口町の鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。
饒速日に十種の神宝を与えたのは天神の御祖神とする。じつは饒速日と須佐之男は鳥取県中部の哮峰で会っており天神の御祖神とは須佐之男のことであった。しかし、須佐之男は出雲の神とし饒速日は大阪の生駒山の上を岩船で飛び回っていたことにしたので、天神の御祖神が須佐之男ということは隠さなければならなかった。
「笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせよ」とお告げをしたのを稚日女と書けば、孝霊天皇の背後にいてお告げをした稚日女は神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫ではないかと疑われてしまう。そう思わせないために天津神という代名詞を使った。
倭迹迹日百襲姫の弟の大吉備津彦と若日子建吉備津日子は吉備国を平定した(古事記)。一族は吉備国と接する伯耆国にも来ていた。伯耆国には孝霊天皇一族を祀る楽々福神社が多くある。倭迹迹日百襲姫は伯耆国で父の孝霊天皇と一緒に行動していた。
「稚日女命」でわかったことは、もともと祭神を日女命として祀られていた全国の多くの神社に「稚」をつけさせた今の神社庁は、最初に神社を創った神社組織とは別の神社組織であるということである。倭国を日本に変えたのも雅でないからではなくて別の国だからである。万世一系の皇統とはいうだけで実は連続していなかった。
(2) 倭国歴史書原本を読んだ藤原不比等や百済史官にとってみれば、非常に面白くない。弥生時代後期に倭迹迹日百襲姫や若日子建吉備津日子の倭朝廷によって全国と半島はすでに統一されていた記録を残すわけにはいかなかった。
日本書紀を作るにあたって、卑弥呼(日女命)を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。倭国では日女命はすでに全国の神社の祭神となっていた。日本は日女命を祀っている全国の神社に指示を出し、稚日女命に変えさせた。
全国に祀られている稚日女命ももとは日女命(卑弥呼)であった。全国の神社は藤原氏が掌握していたから、日女命に「稚」を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社だけでなく賀茂神社や日吉神社や天満宮や春日大社も藤原氏が造ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込んだ。
(3) 鳥取県神社誌に見る孝霊天皇と稚日女命を祀る神社
鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。孝霊天皇と稚日女命は協力して出雲国に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と戦っていた。
日光村での陣形(女性を敵から遠い背後に置く)は倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(倭朝廷)の陣形と思われる。
鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は稚を付けられた日女命(神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫)であった。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命となる。
3 次に、稚日女命は「倭姫命世記」の倭姫命と同神となるか。
(1) 倭姫命は草薙剣を持っていたので女王であった。女王だから卑弥呼と思われる。倭姫命=卑弥呼=稚日女命である。
(2) 倭姫命も倭迹迹日百襲姫命も水稲の普及に尽力しており、同一人物と思われる。
(3) 勘注系図では11世孫の妹である日女命の亦の名として稚日女命と倭姫命を記載している。
(4) 倭姫命は海女の祖お弁にアワビを奉納されている。稚日女命もアワビを奉納されている。海女にアワビを奉納される姫が何人もいたとは思われない。
(5) 伊射波登美が仕えた倭姫命のいた伊雜宮(志摩市磯部町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)から遠いが伊射波神社(安楽島町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)と近い。伊射波登美は稚日女命がいた伊射波神社に行き来していたと思われる。倭姫命に仕えた伊射波登美を稚日女命を祀る伊射波神社の祭神にしている。伊射波登美は稚日女命にも仕えていた。伊射波登美は複数の姫に仕えていたとは思われない。
以上により、高い確率で稚日女命=倭姫命と思われる。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)=倭姫命(内藤湖南説)となる。
倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)は孝霊天皇の皇女であるが、倭姫命は日本書紀・倭姫命世記では11代垂仁天皇の皇女になっている。倭姫命(内藤湖南説)は本当に11代垂仁天皇の皇女であろうか。
4 「倭姫命世記」について
倭姫命は巻向で祭祀をすることになったので安全な居所を探すための巡行をした。
豊鋤入姫命の巡行については、別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。それを見ると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係する一族がいた地域であることがわかる。魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなり男王が立ったが国中が不服で互いに殺しあった。台与を立てて王と為し、国中が遂に安定した」とある。台与は豊鋤入姫命以外見つからない。なぜ豊鋤入姫命は倭朝廷に深く関係する一族がいた地域を巡行しなければならなかったのか。それは倭朝廷に深く関係する一族がいた地域で互いに殺しあっていたからである。なぜ互いに殺しあっていたかは、倭国女王の倭姫命が亡くなって悲観したのと男王に対する失望からである。倭姫命の巡行と豊鋤入姫命の巡行は目的も時代も違うものであった。
藤原氏は全国を統一した倭姫命の事蹟を消したかったのだろうが、伊勢神宮を創建した由来を創らなければならなかった。伊勢神宮を創建した由来の「倭姫命世記」を作るために、本来孝霊天皇の皇女であった倭姫命の奈良の宇陀から志摩の伊雜宮まで巡行した事蹟を利用することを考えた。
しかし、倭姫命の巡行は宇陀から始まるためなぜ宇陀から始まるのか説明できない。藤原氏は三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に持ってくることを考えた。欠史8代とすることはできなかったので豊鋤入姫命は10代崇神天皇の皇女、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女とした。巡行目的も一つにした。国史(日本書紀・倭姫命世記・勘注系図)はすべてこれで統一した。
本来、二人の巡行は目的も時代も違うものであった。豊鋤入姫命の巡行は倭姫命が亡くなってからおこなわれた。倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は孝元天皇皇子の彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)であった(住吉大社神代記)。彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)が神功皇后のモデルである。彦太忍信命の孫の武内宿禰大王と行動をともにした。11代垂仁天皇と彦太忍信命は従兄弟の関係になる。11代垂仁天皇には後継ぎがおらず、12代は彦太忍信命の子の屋主忍男武雄心命であった。12代は11代の反省から子孫を多く作ることに励んだ。古事記では12代の子は80人いたとする。
5 海部氏勘注系図について
籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えられている。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を眩ますためであった。
9世孫乙彦命(彦國玖琉命)の妹の日女命。亦名、倭迹迹日百襲媛命これだけが参考になる。
勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。これ以上深入りすると、藤原氏の目を眩ますために書かれたあり得ない同一神に惑わされ、泥沼に入り込む。
6 参考
※ 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命)
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命
※ 鳥取県神社誌
大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
現住所 日野郡江府町栃原
稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
現住所 西伯郡伯耆町大原