内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった
1 京都帝大教授の内藤湖南は明治43年にその論文「卑弥呼考」において「卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鋤入姫である」とした。「卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豊鍬入姫の豊(トヨ)といへるに近し。国史にては豊鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豊鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん」とする。
内藤湖南の講義を聞いた笠井新也は大正13年の「邪馬臺國は大和である」において「内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う」とし、「卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳である」とした。
2 私見 「倭迹迹日百襲姫命=稚日女命=倭姫命」について
(1)倭迹迹日百襲姫命=稚日女命について
鳥取県伯耆町鬼の館の説明板には「孝霊天皇が鬼と戦っているとき、ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました」とある。
鳥取県伯耆町栃原の山田神社の祭神は孝霊天皇である。
孝霊天皇と稚日女は鳥取県神社誌のなかで出雲国に接する日野郡と西伯郡に集中している(この時鳥取県は2市7郡であった)ので、倭国大乱の時代に一緒に出雲族と戦っていた。孝霊天皇と稚日女は同時代の人物である。この天津神は孝霊天皇の後ろにいた稚日女である。
孝霊天皇の時代このようなお告げができる人物は誰だったのだろう。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた女性であった」とされる。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫がお告げをしたと思われる。出雲王家の子孫の富氏の口伝に「出雲族は天孫族と戦っていた」とある(「謎の出雲帝国」より)ので、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇と一緒に出雲国と隣接する地域(日野郡と西伯郡)で出雲族と戦っていた。
倭国大乱とは天孫族と出雲族の争いであり、この時代の天孫族は孝霊天皇一族であった(神武即位年を紀元前60年とすると、倭国大乱の時代は孝霊天皇になる)。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であったと解することによって魏志倭人伝にある「台与は卑弥呼の属していた宋女(王室の女)」という記述にも合致する。
稚日女は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(日女)であった。
(2)稚日女命=倭姫命について
全国の稚日女命を祀る神社の由緒を見ていくと稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)を終の棲家にしたことが判る。
伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)には伊射波登美も祀られている。倭姫命は伊雑(いざわ)神社(志摩国一之宮)で天照大神を伊射波登美に祀らせた。どちらの姫も伊射波登美と関係しているので同時代の姫である。魏志倭人伝にある「ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する」とは伊射波登美であった。
どちらの姫も海女からアワビの献上を受けている。纏向遺跡からアワビの殻がたくさん見つかった。どちらの姫も纏向遺跡の時代の姫であった。
魏志倭人伝に「下女千人を自ら侍らせる」とある。下女千人は志摩国の海女であった。現在でも千人近くいる。志摩国の海女は倭姫の時代に始まっているから倭姫が連れてきた采女が志摩国の海女のルーツであった。
どちらの姫も伊射波登美と関係しており、同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
稚日女命は倭姫命であった。
(3)倭迹迹日百襲姫=倭姫命について
(1)より倭迹迹日百襲姫命=稚日女命、(2)より稚日女命=倭姫命だから倭迹迹日百襲姫=倭姫命となる。
ちなみに、倭迹迹日百襲姫は讃岐国で水稲稲作のためにため池を造ることを始めた。倭姫命は志摩国で水稲の良い品種を発見し全国に普及させた。どちらの姫も水稲稲作の普及に尽力している。
3 国史では豊鍬入姫(台与)が先であり倭姫(卑弥呼)が後であることについて
(1)国史では豊鋤入姫は10代崇神天皇の皇女、倭姫は11代垂仁天皇の皇女とされるが、史実は倭姫は7代孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫は8代孝元天皇の皇子の彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記)であった。豊鋤入姫は魏志倭人伝の台与であり、神功皇后のモデルである。
倭姫命世記は伊勢神宮の起源を表すものとされるが改ざん創作されている。また、古事記・日本書紀も倭姫命世記に合わせて改ざんされている。
中国には倭国の歴史を改ざんする動機がない。魏志倭人伝は改ざんされておらず、国史のほうが改ざんされている。なぜ国史は豊鋤入姫を先にし倭姫を後にしたのであろうか。
もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなかったらどうであろうか。宇陀は纏向遺跡から隠れたような場所にある。纏向から段々遠のいていく倭姫の巡行だけなら、纒向で祭祀をするのだが、安全な居所を探すための巡行だとわかって、全国から神道の代表者を集めて祭祀をしていたことが判ってしまう。藤原氏以前に全国を統一していた王朝があったことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。
(2)伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が倭国を乗っ取る以前に全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために創られた。伊勢神宮を創建したもっともらしい由来も必要であった。
倭姫命世記は伊勢神宮の由来を表すものとしてつぎはぎして作られた。豊鋤入姫と倭姫の巡行はもともと違う巡行であり、目的も時代も違うものであった。それを継ぎ接ぎし、まだなかった伊勢神宮を書き加えて伊勢神宮に帰ったように書いた。
倭姫命世記に「伊勢神宮を礒宮(いそのみや)といふ」とあるが、画像を見れば伊雜宮こそ礒宮であった。伊雜宮に使われていた礒宮(いそのみや)を伊勢神宮に移し替えた。
「丁巳冬甲子、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る」からの記述は急ににぎやかになるので、にぎやかなのが好きな藤原氏による加筆が見られる。すでに伊勢神宮があったかのように思わせるためである。「戊午秋九月の千穂」からの記述は原文のままだが、「また明る年秋のころの八百穂」からの記述は八の好きな藤原氏によるのちの加筆である。伊勢神宮に帰ったと思わせるためである。倭姫命は伊勢国に引き返してはいない。この時代は倭姫命の創った磯部の伊雜宮しかなかった。倭姫命は志摩国(邪馬台国)の鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)に名を変えて生涯を終えた。
(3)倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、豊鋤入姫は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行であったから倭国(鳥取県中部)とその周辺の3ヶ所を巡行するだけでよかった。別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。
卑弥呼は全国・半島と21国を巡行した倭姫命であり、台与は6ヶ所だけを巡行した豊鋤入姫命であった。豊鋤入姫の時代は倭姫によって既に全国は統一されていた。
藤原氏は整合性を考えてひとひねりした。それは、6か所を巡行して三輪神社に帰ってきた豊鋤入姫命を倭姫命より先にすることであった。欠史8代の皇女とすることは禁止されていたから、許されるぎりぎりの10代の皇女にした。そして、倭姫命を次代の姪(11代の皇女)に持ってきた。そうすれば、三輪神社で終わる豊鋤入姫命から、奈良の宇陀で始まる倭姫命がバトンタッチしたように整合性を謀れる。この作り話のために宇陀の近くに三輪神社がなければならなかった。そのために奈良の三輪神社(本当の三輪神社は鳥取県北栄町下神の三輪神社)は創られた。このことによって、藤原氏以前に全国を統一していた王朝があり、全国から神道の代表者を纒向に集めて祭祀をしていたことを消すことができる。
「倭姫命世記」は「倭姫命が奈良の纒向で祭祀をするために安全な居所を探すための巡行」と「台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」とを順序を入れ替えて創作した創作物語であった。倭姫命は21国を巡行しても元気なのに、豊鋤入姫命はわずか6国しか巡行していないのに疲れたとする。その点でもこのバトンタッチはおかしいことがわかる。
4 卑弥呼は倭国大乱の時期(146年~189年、霊帝が168年からだから少なくとも170年頃までは終結していない)に活躍して、のちに女王となったから170年頃には成人であった。したがって卑弥呼は150年頃には生まれていなければならない。私見では151年~248年の96歳の生涯であった。魚介類を食し、人に尊敬されていれば長生きできるようである。卑弥呼が生きていた時代は纏向遺跡の時代と重なる。倭姫命も纏向遺跡と同時代の姫である。倭姫命の巡行は纒向に祭祀場を創ってそこで祭祀をすることを前提とした安全な居所を探す巡行なので纒向遺跡の時代でも初期の時代の姫である。
纒向1類の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向に祭祀場を造ることを前提として190年ごろに唐古・鍵集落などの環濠を埋めさせた。纒向編年では270年から290年に百済・馬韓ではなく古式新羅加耶土器(慶尚南北道、新羅・加耶地域のもの)が出土している。豊鋤入姫(神功皇后)の時代である。神功皇后は三韓征伐をしたとされるが、倭朝廷は新羅と兄弟国であった証拠である。
倭姫命と倭迹迹日百襲姫命はどちらも卑弥呼であり同一人物であった。内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった。混乱の原因は、倭国の元(原本)を書き換え、倭姫命と豊鋤入姫命の順番を入れ替えた藤原氏であった。
5 参 考(鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神)
西伯郡・日野郡(当時、鳥取県は2市7郡)はどちらも出雲国と接している。
〇 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
〈鳥取県東部〉
久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511
〈鳥取県西部〉
高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
現住所 西伯郡大山町宮内
楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中
現住所 西伯郡南部町中(篠相)
楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
現住所 米子市上安曇
山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
現住所 日野郡江府町杼原
楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
現住所 西伯郡伯耆町宮原
楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原
〇 倭建命
〈鳥取県東部〉
武王(倭武王)大明神と称していた神社
古市神社(武王大明神) 現住所 鳥取市古市657
安富神社(武王大明神) 現住所 鳥取市天神町
神護神社(武王大明神) 現住所 鳥取市国府町神護675
面影神社(武王大明神) 現住所 鳥取市正蓮寺192
禰宜谷神社(武王大明神) 現住所 鳥取市祢宜谷227
細川神社(武王大明神) 現住所 鳥取市福部町細川350
恩志呂神社(武王大明神) 現住所 岩美郡岩美町恩志95
杉森神社(武王大明神) 現住所 鳥取市下砂見530番
宮小谷神社(武王大明神) 現住所 鳥取市用瀬町赤波2441
〈鳥取県中部〉
今泉神社 鎮座地 東伯郡旭村大字今泉字上ノ山
祭神 日本武尊
中田神社 鎮座地 東伯郡安田村大字尾張字家の上
祭神 日本武尊
〈鳥取県西部〉
阪本神社 鎮座地 米子市長田字長砂
祭神 日本武尊
宗形神社 鎮座地 西伯郡成実村宗像
祭神 日本武尊
熱田神社 鎮座地 西伯郡幡郷村大字大殿字矢口
祭神 日本武尊
一ノ具神社 鎮座地 日野郡二部村福岡字鑪ヶ谷
祭神 日本武尊
菅福神社 鎮座地 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
祭神 稚武彦
菅沢神社 鎮座地 日野郡大宮村大字菅沢字秋原
祭神 稚武彦
湯谷神社 鎮座地 日野郡多里村大字湯河字岩田
祭神 倭武命
楽々福神社 鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字東宮
祭神 若建日子吉備津日子
楽々福神社 鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
境内神社 祭神 稚武彦
〇 伊福部氏系図第十四代 武牟口命
虫井神社 現住所 鳥取県八頭郡智頭町大呂967
多加牟久神社 現住所 鳥取市河原町本鹿387
〇 稚日女命
〈鳥取県東部〉
折井神社 岩美郡成器村大字新井字宮の谷
〈鳥取県西部〉
平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
現住所 米子市淀江町平岡
富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
現住所 西伯郡大山町妻木
前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
現住所 西伯郡大山町古御堂
古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
現住所 西伯郡大山町加茂
前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
現住所 西伯郡南部町西
岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
現住所 日野郡日南町多里
吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
現住所 日野郡江府町吉原
大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
現住所 西伯郡伯耆町大原
安屋咩神社 安来市赤江町400
〇(神)倭姫(比女)命
〈鳥取県西部〉
天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
現住所 西伯郡南部町天萬
高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
現住所 西伯郡南部町高姫
蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
現住所 西伯郡日吉津村日吉津