1 日本書紀に「孝元天皇の皇后の欝色謎命は開化天皇の皇后になり、御眞木入日子印惠命と御眞津比賣命を生んだ」とある。兄が亡くなったので、兄の妻を娶り子供が生まれるということは時々聞く。年齢的に出産が可能であるからである。しかし、自分の実の母親を娶り子供を作ることは聞いたことがない。女性の生理年齢的にもあり得ないと思われる。開化天皇は孝元天皇の皇子ではなく弟であった。蝦夷(準王一族)は男女・親子・兄妹の区別なく妻としたから、日本書紀は準王一族(百済人)が制作し書き直したと思われる。
開化天皇の父は孝霊天皇と思われるが、開化天皇は孝霊天皇のどの皇子であろうか。古事記にある大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命であると思われる。「この二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた」のであるからその功績を認められ天皇になったと思われる。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した。この功績により、二人とも天皇になったと思われる。
倭建命の伝承が鳥取県中部に2ヶ所残っている。時代は、その伝承の内容より倭国大乱の時代であり、倭建命も吉備国を平定している。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命も吉備を平定している。同時代なので大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命が倭建命であると思われる。「建」の字は熊襲を成敗したときにもらった字である。「建」が付いている方が倭建命と思われる。若日子建吉備津日子命が倭建命であり、開化天皇であった。大吉備津日子命が崇神天皇であった。
大碓・小碓の双子の小碓が倭建命である、とするのは改ざんである。大吉備津日子命は異母兄であった。日本書紀は双子とするくらいだから、おそらく生年は同じ頃と思われる。倭建命は倭大乱の時代(146年~189年)に生きた。私見では157年生まれ188年没である。
倭建命は西国を平定していた時は皇子であったが、東国を平定したときは天皇になっていた。全国の平定が終わってから、倭建命は尾張国に住んだ。倭建命も若くして亡くなったが、次の崇神天皇は開化天皇の皇子であったのだろうか。倭国天皇家では天皇が戦いなどで若くして亡くなった場合、兄弟承継をしていたようである。開化天皇(若日子建吉備津日子命)の兄の大吉備津日子命がまだ生きているではありませんか。卑弥呼は大吉備津日子命を次期天皇に指名したはずである。崇神天皇は開化天皇の兄の大吉備津日子命であった。崇神天皇は御真木(私見では木国は鳥取県智頭町であり御真木国は岡山県津山市)入彦なので岡山県津山市に宮を造っていたはずである。
2 (参考) 孝霊天皇の系譜
日本書紀の系譜は先代旧事本記と重なるので比較するのは古事記と先代旧事本記である。
(1) 蠅伊呂杼(紐某弟)の皇子
日子寤間命は針間の牛鹿臣の先祖である(古事記)。
彦狭嶋命は海直(あまのあたい)らの祖である(先代旧事本記)。
若日子建吉備津日子命は、吉備の下道臣、笠臣の先祖である(古事記)。
稚武彦命は宇自可臣(うじかのおみ)らの祖である(先代旧事本記)。
日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直(あまのあたい)の先祖である(古事記)。
弟稚武彦命(先代旧事本記)。
(2)孝霊天皇
(古事記)
細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)である。
(先代旧事本記)
細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
(古事記)
また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。
また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。
(先代旧事本記)
妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。
(古事記)
またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼(紐某弟はえいろど)を娶って生んだ子が日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。
(先代旧事本記)
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。
(古事記)
この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>
大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>
次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>
次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>
次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>
(先代旧事本記)
天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)。
彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。
次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。
次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖)]
次に、弟稚武彦命。
(3)孝元天皇
(古事記)
この天皇が穗積臣らの先祖、内色許男命の妹、内色許賣命を娶って生んだ御子は大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命である。
(先代旧事本記)
欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。
(4)開化天皇
(古事記)
庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。
(先代旧事本記)
伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(崇神天皇)をお生みになった。