「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

豊玉毘売命・玉依毘売命は辰韓出身であった。海神(綿津見の大神)は船頭の頭領であり慶州近くの港にいた

2018-07-09 04:45:33 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1  豊玉毘売命・玉依毘売命を記載する古事記の抜粋
(1) 塩土の神は、无間勝間の小船を作り、御子を乗せて、「私がこの舟を押し流しますから、そのまましばらく行きなさい。快適に進める海路があるでしょう。その海の道に沿って行くと、魚の鱗のように作った宮殿があります。それは海神の宮です。その宮殿にたどり着くと、門のところに湯津香木があります。その木の上に登っていたら、海神の娘に会って、彼女がはからってくれるでしょう」と教えた。
 彦火々出見尊は香木に登って座っていた。豊玉毘売は外へ出て火遠理命を見ると、すっかり一目惚れしてしまった。豊玉毘売と彦火々出見尊は互いに視線を交わし、思いは双方同じだった。豊玉毘売は父に「私の門のところに、とても美しく立派な殿方がいます」と言った。すると海神は自ら出て彦火々出見尊を見ると、「この人は、天津日高の御子で、虚空津日高でいらっしゃるぞ」と言い、宮の中に連れて入り、娘の豊玉毘売を彦火々出見尊に娶(めあわ)せた。その後三年になるまで、その国に留まった。
 鯛の喉を調べてみると、釣り針があった。それを取り出してきれいに洗い、彦火々出見尊に奉った。綿津見の大神は海の鰐たちをすべて呼び集め、「いま天津日高の御子、虚空津日高が地上の国に帰ろうとしておられる。お前たちの中で、だれが御子を何日で送って還ってこられるか」と尋ねた。一尋鰐は「私は一日で御子を送って帰ってこられます」と言った。そこでその一尋鰐に、「ではお前が御子を送れ」と命じ、その首に御子を乗せて送り出した。すると本当に言った通り、一日で送った。その鰐が帰ろうとしたとき、御子は持っていた紐小刀を鰐の首に付けて送り返した。その一尋鰐を、今は佐比持神と呼ぶ。
(2) ある日豊玉毘売の命が自分から穂々手見命のところへやって来て、「私は以前からあなたの御子を妊娠していたけれど、もうお産の時になったの。でも天神の子を海原で生むのはよくないことだわ。それでこちらへ来たのよ」と言った。そこですぐに海辺の渚に鵜の羽根で屋根を葺いた産屋を造った。ところがその産屋の屋根をまだ葺き終えないうちに、急に産気づき、産屋に入った。まさに子供が生まれようとするとき、彼女は夫に向かって「他国の人は、みな臨産の時に、本国の姿になって子を生むと言うわ。私も今元の姿になっているの。お願いだから見ないでね」と言った。彦火々出見尊はその言葉を奇妙に思って、子を生んでいる最中の姿を垣間見ると、毘売は八尋鰐の姿になって這い回っていた。穂々手見命はこれを見て驚き恐れて、逃げ去った。豊玉毘売命は彼がのぞいて見たことを知り、恥ずかしいと思って、生んだ子たちを放置し、「私はこれまで、海の道を通って(子育てに)通うつもりだったのに、生んでいるところを見られたのは、恥ずかしいことだわ」と言って、海の通い路を鎖して帰って行ってしまった。その生んだ子の名を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命という。
(3) 豊玉毘売命は恋しさに耐えかねて、姉に代わって御子を育てていた玉依姫に託して、歌を送った。この天津日高波限建鵜葺草葺不合命が、その叔母である玉依毘売命を妻にして、生んだ子は五瀬命。次に稲氷命。次に御毛沼命。次に若御毛沼命、またの名は豊御毛沼命、また神倭伊波禮毘古命とも言う。この御毛沼命は、波の穂を踏んで、常世の国に行ってしまった。稲氷命は母の国だからというので、海原に入ってしまった。

2 私見
(1) 1の(2)は京都でひまを持て余していた藤原氏が改ざん挿入したものと思われる。男性はこういう状況になれば身につまされるため、我が事のように思い、作り話だとは思わない。だから改ざん挿入説は出てこなかった。豊玉毘売は木花之佐久夜毘売であったという説がある。1の(2)は改ざん挿入されている。
 鵜葺草葺不合は彦火々出見のあだ名であった。彦火々出見(鵜葺草葺不合)は倉吉市の四王寺山に宮を定めた。神武天皇の4兄弟は四王寺山で育てられた。「鵜葺草葺不合は彦火々出見のあだ名であった」を参照されたし。
(2) 塩土の神が小舟を出したところは対馬と思われる。「快適に進める海路」とは対馬海流と思われる。
(3) 稲氷命は母の国だからというので、海原に入ってしまった。「海原に入ってしまった」の「海原」とは辰韓の「海原」(海抜4m~20mの平地)のことである。辰韓、慶州のあたりには徐福一行の子孫が残っていたはずである。玉依毘売命は辰韓に残っていた徐福一行の子孫である可能性が高い。綿津見の大神は徐福一行を伯州へ送った船頭の子孫と思われる。
 「天神の子を海原で生むのはよくないことだわ」と豊玉毘売命が言ったが、ここでも「海原」とは辰韓の海原(海抜4m~20mの平地)のことである。決して海中の竜宮城のことではない。
(4) 1の(1)にある「鰐」とは船の船頭のことである。彦火々出見は到着してからチップを渡しているので、綿津見は海上タクシーであった。竜王神社は綿津見神と住吉神を祀る神社である。「鰐=竜」という説がある。一尋鰐、八尋鰐は船の大きさであった。
 辰韓の慶州近くの港から伯州(倉吉市北面)に行くのに一日で到着するのは早い。直線で400kmくらいである。24時間で到着しようと思えば毎時16.6kmで進まなければならない。対馬海流は普通は毎時2.8km~4.3kmくらいであるから、海流を差し引いても毎時12.3Km~13.8kmのスピードで漕がなければならない。一日で到着するのは大変であるが速い海流に乗れば不可能ではない。
  火火出見が行ったのは島根県の隠岐の島とする説があるが、倭国(鳥取県中部)と隠岐の島の距離は90km程度であり24時間かかってやっと到着するような距離ではない。また、新羅を建国した稲氷命は母の国に行った。稲氷命の母は玉依姫であり、玉依姫の出身国は稲氷命が建国した新羅(辰韓)であった。

3 参考
 シーカヤックレースの上位入賞者達は、時速9~10km位を長時間維持するという。
 シーカヤックで大韓海峡を航海した人は「通常大韓海峡では、対馬海流は1.5ノット(時速2.8km)~ 2.3ノット(時速4.3km)です。ここも、海流と潮流が重なるとたいへんです。3.7ノット(時速6.8km)の時がありました」とする。時速6.8kmならば毎時9.8kmで漕げばよく、不可能ではない。



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