北栄町下神に東の茶臼山より少し小さい三輪山があった。三輪山は今は崩されているが三輪神社跡の石碑は残っている。この山こそ奈良の三輪山のモデルである。ここに「日向御子」が祀られていた。
下神の隣の松神神社には木花之佐久夜毘売・猿田彦が祀られている。ここに結婚前の木花之佐久夜毘売と猿田彦がいた。木花之佐久夜毘売は結婚して後は亀谷集落にいたが、下種の大宮神社にいた瓊々杵命に伴って天忍穂耳に会うために三輪山と大宮神社の間を行き来していた。下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
瓊々杵命は四歳で関金の神田神社に降りて、成長するまで矢送神社におり、その後、楯縫神社にしばらくいて下種の大宮神社に御所を築いたのだが、矢送神社も楯縫神社も日照時間が短く日当たりの良くないところである。下種の大宮神社に移ってから、「この地は朝日の直に射し、夕日が火照る国で非常に良い地だ」と言った。地元の住民(国神)はこれを聞いて瓊々杵命を「日向御子」と名付けた。瓊々杵命は日当たりの良さばかりを言うので地元の住民は「日向御子」のあだ名をつけた。
また地元の住民は神阿多都比売に「木花之佐久夜毘売」というあだ名をつけた。神阿多都比売が通ると桜が咲いたように華やかになるので、このあだ名をつけた。鳥取県中部の集落の住民はすぐにあだ名をつける習性がある。
私の祖母の母はたいそうな美人で娘のころは「お札去った」というあだ名をつけられていたそうである。お札とは明治時代の神功皇后の肖像が入った一円札・五円札・十円札である。お札の神功皇后はたいそうな美人である。祖母の母は神功皇后の肖像に比べられるほど美人であったらしい。
このように鳥取県中部の集落はあだ名をつけるのが好きな地域性である。このような集落の地域性というものは、二千年たっても変わらないと思われる。
「日向御子」とは瓊々杵命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名であった。「鵜草葺不合」も彦火火出見命のあだ名である。鵜草葺不合を生んだのは、木花之佐久夜毘売であった。
米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を放火焼失して消し去ろうとしているが、米子の三輪神社ではなく、下神の三輪神社が本当のモデルである。瓊々杵命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説がある。日向とは北栄町の葦原中津国と倉吉市の四王寺山のことであり、なぜ日向というのかは、瓊々杵命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは「日当たりの良い」と言った本人の瓊々杵命に付けられたあだ名であり、神武天皇ではない。
原因は、藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、奈良の三輪山の祭神を日向御子とし、神武天皇は宮崎県の日向から出発して奈良に到着した、としたからである。日向の地名の成り立ちと、瓊々杵命(日向御子)が鳥取県北栄町下種の大宮神社から北栄町下神の三輪山によく行き来していたことが分かっていないからである。
下神の三輪山にいたのは、瓊々杵命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。
「日向御子」とは瓊々杵命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名であった。「鵜草葺不合」も彦火火出見命のあだ名である。鵜草葺不合を生んだのは、木花之佐久夜毘売であった。
米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を放火焼失して消し去ろうとしているが、米子の三輪神社ではなく、下神の三輪神社が本当のモデルである。瓊々杵命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説がある。日向とは北栄町の葦原中津国と倉吉市の四王寺山のことであり、なぜ日向というのかは、瓊々杵命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは「日当たりの良い」と言った本人の瓊々杵命に付けられたあだ名であり、神武天皇ではない。
原因は、藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、奈良の三輪山の祭神を日向御子とし、神武天皇は宮崎県の日向から出発して奈良に到着した、としたからである。日向の地名の成り立ちと、瓊々杵命(日向御子)が鳥取県北栄町下種の大宮神社から北栄町下神の三輪山によく行き来していたことが分かっていないからである。
下神の三輪山にいたのは、瓊々杵命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。