1 古事記・日本書紀の石上神宮
(1)古事記・履中「天皇は、その道から大和にのぼって、石上の神宮に難を逃れた。・・・弟君はこうして石上の神宮に参上して天皇のもとに、『仰せの通りに平定いたしましたので、ただ今、戻ってまいりました。』このように取り次がせた。」とある。
崇神天皇の時代に十握剣は石上布都魂神社に移されていたが石(イソと読ませる)上神宮は倉吉市大原にあった。天神川の川下には江戸時代まで石(イソ)山があった。石山は海岸近くにあり磯山である。天神川の上流の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていたはずである。
ここに出てくる「難波」とは東郷池のことである。北山古墳より西を波延といい北山古墳より東を難波と言っていた。東郷池は大陸との直接交流があった。そのため、歴代の天皇は磯城・斯鬼(シキ)に第二の宮を置いていたようである。
(2)日本書紀・垂仁「イニシキの命は川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。よってその剣を川上部という。忍坂邑に納め、その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。・・・」とある。
石上神宮は倉吉市大原にあった石上神宮である。川上宮は湯梨浜町川上集落にあったと思われる。忍坂とは波関峠のある坂と思われるから忍坂邑は三朝町片柴集落と思われる。
(3)日本書紀・雄略「雄略天皇は呉人をもてなそうと思われて、群臣につぎつぎ尋ねられ、『会食者には誰が良いだろうか』といわれた。群臣は皆『根使主がよいでしょう』といった。天皇は根使主を任じられた。石上の高抜原で饗宴をされた。・・・」とある。
安康天皇は雄略天皇の兄であり、前天皇である。雄略天皇の皇居は打吹山の長谷寺にありシキ(斯鬼)にも宮があったようだから、忍坂邑(三朝町片柴)経由で東郷池にもよく行っていたようである。その途中に大原(石上の高抜原)がある。兄の皇居のあった地(石上穴穂宮)で雄略天皇は呉人をもてなした。
(4)古事記・神武 「高倉下は夢の中で『葦原中津国はひどく騒がしくて、乱れているようだ。わが御子たちも、病を得て困り果てている。葦原中津国は汝が平定した国であるから、今度も、汝建御雷之男神が降っていくがよい。』と天照大御神が命じられましたところ『私が降ってゆきませんでも、この前に平定の役目を果たした剣がございます。これを私の代わりに降しましょう。』と答えた」とある。この剣の名は佐士布都神と言う。別名を、布都御魂と言う。この剣は石上の神宮にある。
場所は熊野とあるが、これは後の改ざんである。最初から石上神宮は奈良にあったと思わせるためのカムフラージュである。葦原中津国は十と利権中部にあり、天孫降臨も鳥取県中部であったから、建御雷之男神が降ったのは鳥取県中部(倭国)である。
崇神天皇の時代に十握剣は石上布都魂神社に移されていたが石(イソと読ませる)上神宮は倉吉市大原にあった。天神川の川下には江戸時代まで石(イソ)山があった。石山は海岸近くにあり磯山である。天神川の上流の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていたはずである。
ここに出てくる「難波」とは東郷池のことである。北山古墳より西を波延といい北山古墳より東を難波と言っていた。東郷池は大陸との直接交流があった。そのため、歴代の天皇は磯城・斯鬼(シキ)に第二の宮を置いていたようである。
(2)日本書紀・垂仁「イニシキの命は川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。よってその剣を川上部という。忍坂邑に納め、その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。・・・」とある。
石上神宮は倉吉市大原にあった石上神宮である。川上宮は湯梨浜町川上集落にあったと思われる。忍坂とは波関峠のある坂と思われるから忍坂邑は三朝町片柴集落と思われる。
(3)日本書紀・雄略「雄略天皇は呉人をもてなそうと思われて、群臣につぎつぎ尋ねられ、『会食者には誰が良いだろうか』といわれた。群臣は皆『根使主がよいでしょう』といった。天皇は根使主を任じられた。石上の高抜原で饗宴をされた。・・・」とある。
安康天皇は雄略天皇の兄であり、前天皇である。雄略天皇の皇居は打吹山の長谷寺にありシキ(斯鬼)にも宮があったようだから、忍坂邑(三朝町片柴)経由で東郷池にもよく行っていたようである。その途中に大原(石上の高抜原)がある。兄の皇居のあった地(石上穴穂宮)で雄略天皇は呉人をもてなした。
(4)古事記・神武 「高倉下は夢の中で『葦原中津国はひどく騒がしくて、乱れているようだ。わが御子たちも、病を得て困り果てている。葦原中津国は汝が平定した国であるから、今度も、汝建御雷之男神が降っていくがよい。』と天照大御神が命じられましたところ『私が降ってゆきませんでも、この前に平定の役目を果たした剣がございます。これを私の代わりに降しましょう。』と答えた」とある。この剣の名は佐士布都神と言う。別名を、布都御魂と言う。この剣は石上の神宮にある。
場所は熊野とあるが、これは後の改ざんである。最初から石上神宮は奈良にあったと思わせるためのカムフラージュである。葦原中津国は十と利権中部にあり、天孫降臨も鳥取県中部であったから、建御雷之男神が降ったのは鳥取県中部(倭国)である。
2 岡山県赤磐市の石上布都魂神社
宮司によると、崇神天皇の御代に疫病が流行り、霊剣が備前の石上布都魂神社に在ることを知った天皇が、霊剣を大和に移されて、疫病をしずめたということであった。つまり、天理の石上(イソノカミ)神社は、この石上布都魂神社の神剣を移した先であり、この備前の石上布都魂神社の方が元ということになる。
この「大和」とは「倭」を書き換えたものであり、奈良ではない。崇神天皇の時代の疫病は倭国(鳥取県中部)で発生しており、鳥取県西部から大田田根子を呼び、北栄町下神の三輪神社で祭祀をした。疫病を鎮めるために神剣を移したのも倭(鳥取県中部)である。天理が元か備前が元かではなく、大和は奈良ではなく鳥取県中部(倭)であった。倉吉市大原の石上神宮(現大原神社)が元であった。
3 鳥取県倉吉市大原にある大原神社の由緒 (昭和9年の鳥取県神社誌より)
鎮座地 東伯郡西郷村大字大原字宮ノ下 現在地 鳥取県倉吉市大原619番
祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳神、天穂日神、天津彦根神、活津彦根神、熊野樟日神、素戔鳴神、倉稲魂神、天満天神
由緒(抜粋)
旧記に拠れば大化三年(647)丁未九月社殿を創建した。
元禄時代には、この社を伯耆式内六社の一つの波々岐神社なりと言っていたようである。元禄七年武内自安子の記せる「伯陽六社みちの記」に「大原の里に行き・・・二の宮の波々岐ノ神社へ先まうて奉らんといへば」とある。大原の安綱の出身もこちらである(伯耆民談記)。
4 私見
大原神社の創建は647年とあるが、647年は蘇我入鹿(聖徳太子)が暗殺された2年後である。石上神宮は647年に波々伎神社と社名を変えられた。その時に剣一千口などを奈良に移した。大原神社の前身は波々岐ノ神社であったから、素戔嗚命が八岐大蛇退治をした後まもなく創建されているはずである。素戔嗚命が辰韓から伯耆国に着いて(紀元前210年)大国主が青年になった頃、紀元前160年頃にはあったものと思われる。ちなみに、琴浦町の伊勢神宮は天孫降臨の前に内宮と外宮ができているから、紀元前160年頃と思われる。
今の福庭の波々伎神社は元禄時代に命名された。元禄時代までは大原神社を波々岐ノ神社と呼んでいた。倉吉市大原には「大原ほうき」と言う地名があり、櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだ痕跡が残っている。素戔嗚命はそのころ東山神社(倉吉市米田町)に住んでおり、対岸にある大原の石上神宮に十握剣を奉納した。
三朝町には二か所(大瀬と助谷)櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだと伝承される地がある。そしてもう一か所「母来ませ」と叫んだ地が大原である。
「血洗いの滝」は八岐大蛇伝説が伯耆国の三朝町山田であったことを隠すために元禄時代に創作されたと思われる。また、石上布都魂神社の宮司の名前は十代前(30歳で世継ぎができるとすると300年前であり元禄時代)に物部に変えられたそうである。これも藤原氏によるカムフラージュ(整合性)である。
倉吉市大原に最初の石上神宮があった。崇神天皇の時代に岡山県赤磐市の石上布都魂神社に十握剣を移した。崇神天皇の皇居は東郷池の畔にあったが、活動拠点は岡山県津山市であったから、倉吉市大原はその途中にある。大原にあった石上神宮の十握剣を石上布都魂神社に移したとしても不思議ではない。
伯耆大原の安綱はここの出身である(伯耆民談記)。藤原氏の常套手段として本当の場所でないところ(伯耆町大原の地名は伯耆民談記の時代はなかった)を宣伝する。
5 天神川を下った海側に石(イソ)山があった。石山より山側の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていた。石上神宮は鳥取県倉吉市大原にあり、第20代安康天皇の石上穴穂宮と第24代仁賢天皇の石上広高宮も倉吉市大原にあった。