「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倉吉市の法華寺畑遺跡は処刑場であった

2018-05-12 03:46:50 | 藤原氏
 法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく国庁に関連した役所です。全国に類例がなく何のための役所だったかは判らない。 (公式)
 「祭祀の場だったかも知れない。空間が広くとってあるのも儀式を行うためか。」という説もある。
※ 私見
 処刑場であった。
 伯耆国は他の国と違い、天照大神から34代倭国大王までの血筋の者も多くいた。藤原朝廷は鳥取県中部にあった葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・宇陀・磐余邑・河内・難波・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮・三輪神社などを宮崎県・島根県・奈良県・大阪府南部・和歌山県にテーマパークとして移したから、天照大神から34代倭国大王までの血筋の者が伯耆国にいては嘘になってしまう。そのような血筋は伯耆国にあってはならないので、家系抹消をするために特別に処刑場を造る必要があった。
  南の四棟に血脈狩りで見つけ出されたすべての男子を収容し、順番に処刑していった。理由は藤原氏得意のでっち上げである。だから、怨まれる、祟られる。また伝承を伝える者や神主や伯耆の風土記を書いた者や初期天皇がいたことの証人も殺していった。
 この建物は十世紀まで存在したそうである。すべてを消し去るのに二百年かかったことになる。藤原道長が望月の欠けることなしと言ったのもこの頃である。
 北東隅に銘のない墓石がたくさんある。祟られないように、国分寺で拝んだのだろう。この墓場の前に両墓制についての案内板があるが、誰の墓石か特定できないので、両墓制というようなものではない。
 これは法華寺畑遺跡の内側にあり発掘中骨が出てきたので新しい御影石で墓石(銘はない)を造った。
 逆さ戒名で有名な倉吉市関金町の地蔵院でも処刑が行われていた。731年頃に行基が創建したので首切りや残酷の好きな藤原氏の創建とわかる。憎しみを込めて逆さ戒名にした。


最新の画像もっと見る