川のかたちは木の根に似ている。
1 古事記・根国での冒険
「大国主は須勢理姫を背中に負い逃げ出した。素戔嗚が髪をいちいちほどいている間に、二人はいっそう遠くへ、遠くへとのがれて行った。素戔嗚は風のようにあとを追って、ようやく黄泉比良坂まで達したが、そこはもう根国の境である。そこで大声で『・・・・・ここな奴め!』といった」とある。
2 古事記・黄泉国
「伊邪那岐は追われて鬘を投げ捨てた。それがブドウとなり、なお遠く逃れることができた。つぎに櫛を投げ捨てた。それが竹の子となり、さらに遠くへ、遠くへとのがれていった。伊邪那美は八柱の雷神と夜見国の軍隊をつけて追いかけさせた。伊邪那岐は十握剣を振りながら遠くへ、遠くへとのがれて行った。伊邪那岐はようやく黄泉比良坂の麓まで辿り着くことができた」とある。
「伊邪那岐は追われて鬘を投げ捨てた。それがブドウとなり、なお遠く逃れることができた。つぎに櫛を投げ捨てた。それが竹の子となり、さらに遠くへ、遠くへとのがれていった。伊邪那美は八柱の雷神と夜見国の軍隊をつけて追いかけさせた。伊邪那岐は十握剣を振りながら遠くへ、遠くへとのがれて行った。伊邪那岐はようやく黄泉比良坂の麓まで辿り着くことができた」とある。
3 素戔嗚の本拠地から黄泉比良坂の麓までと伊邪那美の収容されていた洞窟から黄泉比良坂の麓までとはどれくらいの距離であったのだろうか。
素戔嗚の本拠地(倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社)から黄泉比良坂の麓(倉吉市不入岡)までは約2kmくらいであった。「二人はいっそう遠くへ、遠くへとのがれて行った」距離は2kmほどであった。
伊邪那美の収容されていた洞窟は塞がれている可能性がある。百済国再興(比定地を他所にする)のためには隠さなければならなかった。原古事記には夜見国の軍隊の記載はなかった。「千五百人の夜見国の軍隊」は平安時代に藤原氏が書き加えたものである。伊邪那美の洞窟は打吹山の周辺にあったはずであるから、黄泉比良坂の麓(不入岡)までは、2km~3kmくらいである。
4 伊邪那岐・伊邪那美は第1次(紀元前219年)の徐福一行に会ってから、高天原(蒜山)より降臨し根堅洲国(倉吉市中心市街地)を治めていた。二人で葦原中津国(北栄町)の国造りも始めていたが、伊邪那美が病気になったので中断していた。素戔嗚と出会ったのは伊邪那美を見舞いに行って追われて逃げていた時であった。素戔嗚は徐福の第2次(紀元前210年)の2番目のリーダーとして辰韓(のちの新羅)より伯耆国(伯州)に結集していた。伊邪那岐は素戔嗚に「私に代わって海原を治めよ」と言った。海原とは長谷(泊瀬)の海原であり根堅洲国と同じ地域である。
5 素戔嗚は海原を治めようと泊瀬の海原を調べているうちに、八岐大蛇を発見した。八岐大蛇を退治してから伊邪那岐の後を追って稲田姫とともに鳥取県八頭郡に住んでいた。その後、神大市比売との間に出来た宇迦之御魂命(須勢理姫)とともに蒜山側から根国の清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)に移って住んでいた。古事記・「根国での冒険」の舞台はここと思われる。