1 米子の宗形神社 西伯郡成実村宗像向塔
「祭神」田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神
※三女神は天照大御神・素戔嗚命の御子神とある。血はつながっていないが親といえば親である。
「由緒」 延喜式神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして古来上下の崇敬殊に篤い。古昔鎮座の地は現在地より北3丁(330m)あまりの宮谷というところにして本宮と呼ぶ。本殿ありしと伝える山頂の地には数多の小石あり。中腹に清泉ありて井戸といい断水することなし。
古昔当社の祭神は今の大字長田(長砂町小林)に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしという)海路御来着、宗像の地に鎮座せられしと云い、御着船の地を今に船塚と称え御舟は石に化したりと云い伝ふ。
※戦後宅地として造成されたが二千数百年で木が石になったりしない、と全国の神社を掌握していた藤原氏に一言。今でも宮司に多い。
「当時この辺まで入海なりし」とは倉吉の住吉神社と表現が似ており、またその時の海抜は20mになるため、合併した住吉神社の由緒を転用したものと思われる。
◎ 重要だと思われる合併
住吉神社 表筒男命、中筒男命、底筒男命 成実村日原中尾山
熊野神社 伊弉諾、伊弉冉、天照大神 成実村奥谷字谷奥山
「祭神」田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神
※三女神は天照大御神・素戔嗚命の御子神とある。血はつながっていないが親といえば親である。
「由緒」 延喜式神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして古来上下の崇敬殊に篤い。古昔鎮座の地は現在地より北3丁(330m)あまりの宮谷というところにして本宮と呼ぶ。本殿ありしと伝える山頂の地には数多の小石あり。中腹に清泉ありて井戸といい断水することなし。
古昔当社の祭神は今の大字長田(長砂町小林)に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしという)海路御来着、宗像の地に鎮座せられしと云い、御着船の地を今に船塚と称え御舟は石に化したりと云い伝ふ。
※戦後宅地として造成されたが二千数百年で木が石になったりしない、と全国の神社を掌握していた藤原氏に一言。今でも宮司に多い。
「当時この辺まで入海なりし」とは倉吉の住吉神社と表現が似ており、またその時の海抜は20mになるため、合併した住吉神社の由緒を転用したものと思われる。
◎ 重要だと思われる合併
住吉神社 表筒男命、中筒男命、底筒男命 成実村日原中尾山
熊野神社 伊弉諾、伊弉冉、天照大神 成実村奥谷字谷奥山
2 古事記の「誓約」の所に、次の文がある。音を表すとしてある。
その霧の中から生まれた神の名は、(タギリヒメ)、またの名は(オクツシマヒメ)という。次に(イチキシマヒメ)、またの名は(サヨリヒメ)という。次に(タギツヒメ)。合わせて三柱の姫神が生まれた。このとき、先に生まれた神のうち、(タギリヒメ)は胸形の奥津宮に鎮座している。次の(イチキシマヒメ)は同じく胸形の中津宮に、また(タギツヒメ)は辺津宮にいる。この三女神は胸形の君たちが奉斎する三前(ミサキ)の大神である。
「三前」は、「岬」である。古事記に書かれている「胸形」とは延喜式神名式に伯耆国会見郡「胸形」神社とあり伯耆国の胸形の地のことである。延喜式神名式が作られたとき古事記はまだ隠されていたので藤原氏はそのまま胸形神社と延喜式神名式に記載したのであるが、その後古事記に胸形と書いてあることを知り、判らないようにすることを考えた。「宗形」神社としたのは宗像と胸形の一字づつを採った苦肉の策である。
三女神は徐福の少女一行でありこの地に着船した年は紀元前210年である。目の前には秀麗な山容の蓬莱山(伯耆富士)が見える。徐福たちは、これを目標に東海(日本海)を渡ってきた。表筒男命、中筒男命、底筒男命はその時の船の船頭と思われる。
米子市観音寺集落の藤内稲荷神社(保食神社)の祭神は市杵島比売である。海抜も20mの所にあり、古事記の「胸形の中津宮」のあったところと思われる。
3 宗像大社の沖ノ島の出土品の時代は主に4世紀後半~9世紀末であり、海上交通の安全のために供えられたと思われる。魏志倭人伝には「その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり」とある。 魏志倭人伝には海上交通の安全のために命を懸けて、船に乗る持衰がいたそうである。それほど海上交通の安全は重要であった。いくら国宝があるからと言っても宗像大社は本家にはならない。胸形神社の創立は三女神が亡くなったときには祀ったであろうから紀元前であるし、三女神は実際に伯耆国に着船したと由緒にあるから、伯耆国の胸形神社が本家である。
4 宗像三女神
宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた倭国での最初の巫女である。到着した順に奥津宮、中津宮(米子市観音寺の藤内稲荷神社)、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は倭国天皇家の子孫として徐福(天照大神)の子孫となる。
5 伯耆国の胸形神社です。
この日は黄砂でかすんでいたのでシルエットだけであるが、秀麗な山容の大山
6 合併された近くの熊野神社です。
ほとんど小さな祠状態。しかし、実際に祭神がいた可能性はある。
7 青森県の棟方さんよりコメントをもらいました。それによると「青森県の棟方一族はもともと山陰(米子)で胸形と名乗っており、江戸時代に北九州に行かされたが、今は棟方と名乗り青森県にいる」ということであった。
8 宗像大社のある地は641年に百済の船が筑紫に到着したところと思われる。
2017年7月9日ユネスコ世界遺産に「沖ノ島」、構成資産8つすべてが登録された。当初九州本土の4構成遺産は除外するように勧告されていたが、8遺産すべてが登録された。延喜式神名帳(927年)には米子の胸形神社の記載がある。古事記の胸形氏が米子で祭祀をしていたのは712年よりずっと以前からである。宗像大社が造られたのは江戸時代初め頃と思われる。ユネスコ世界遺産に登録してもらうには、地元の強力な働きかけが必要だという。ただの穴倉にすぎない石見銀山が世界遺産に登録されたのは地元の有力者が20年かけて訴え続けてきたおかげだと聞いた。宗像も地元の強力な働きかけがあったものと思われる。やはり、宗像大社など(藤原氏の造った神社)4遺産も日本政府(藤原氏)が強力に登録申請を勧めていた。偽の胸形(宗像)が公認された。
神武東征に関係する19自治体が日本遺産登録に向けて活動を開始した。橿原神宮が中心になっているが、これも「日本を取り戻す」といった藤原氏が橿原神宮に働きかけて、亡命百済人によって日本書紀に創られた神武東征関連地を日本遺産にし、また戦前のように軍国主義を復活しようとしている。
おまけ
胸形三女神の子孫?!