1 高天原について
「古事記」においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所として高天原が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていた。天照大神が生まれたとき、伊邪那岐は高天原を治めるよう命じた。
高天原には「多くの神々(天津神)が住み、天安河原(鳥取県江府町下蚊屋明神)や天岩戸、水田、機織の場などもあった」ことが記述されている。
葦原中国が天津神によって平定され、邇邇芸命が天降って(天孫降臨)から、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとする。
2 高天原の各説(地名を根拠にするものは削除しました。)
(1)天上説(本居宣長)
戦前は皇国史観(天皇を神とする)と結びついてこの考え方が主流であった。※私見:天照大神は実在した人間なので地上にあった。
(2)滋賀県米原市伊吹山山麓
「平家物語」に、「天照大神が草薙剣を高天原から伊吹山に落とした」とある。※私見:平家物語は信用できるか
(3)阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町
「日の宮・幣立神宮」は高天原神話の発祥の神宮である、とする。御神体は豊国文字と阿比留文字が彫られた石板であり、「アソヒノオオカミ」と「日文」が表裏に刻まれている。ちなみに「幣立」とはヒモロギを意味し、太古 天の神が御降臨になった聖なる地とされている。※私見:天の神が高天原から降臨した地は高天原ではない。
(4)鳥取県八頭郡八頭町霊石山・伊勢ヶ平
天照大神が八上の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。※私見:田があった高天原とするには狭すぎる。
(5)大韓民国慶尚北道高霊郡
当初その比定地とされたのは、素戔鳴尊が立ち寄ったという江原道春川市であった。春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者。※私見:天孫降臨につながらない。
(6)九州邪馬台国説
筑後川流域山本郡や御井郡、山門郡、夜須郡など、邪馬台国の候補地のいずれかが高天原とする説。※私見:天孫降臨につながらない。
(7)岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)
茅部神社の山を登ったところ。天岩戸、真名井の滝、天の浮橋等がある。※私見:これは蒜山説ではない。蒜山説は高天原は蒜山高原全体とする。
3 蒜山高原を高天原とする根拠(私見)
(1) 高天原の主役は天照大神である。長田神社と加茂神社と福田神社と茅部神社と徳山神社は天照大神を祭神とする。 蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。
(2) 邇邇芸命は高天原から降った。(古事記)
長田神社と加茂神社は邇邇芸命を祭神とする。これでわかったことは、4歳の邇邇芸は旭川下流の岡山県内で生まれ、鏡ヶ成ではなく犬挟峠を越えて矢送神社に降臨したこと。猿田彦が待っていた鏡ヶ成から降ったのは邇邇芸ではなく饒速日だったということがわかった。そのあとも繋がっていく。
続きは別稿「天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった」を参照されたし。
(3) 神倭磐余彦も高天原から降った。(古事記)
古事記には「ここに饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。『天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました』」とある。
加茂神社と福田神社は神倭磐余彦を祭神とする。これでわかったことは、神倭磐余彦は福田神社まで行っているので、鏡ヶ成から降ったということである。犬挟峠から降れば道に迷うことはないが、鏡ヶ成から降ったので道に迷った。出雲族に気付かれないようにするために鏡ヶ成から降らなければならなかった。降った穿邑は倉吉市上大立であり、そのあとも繋がっていく。
続きは別稿「神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた」を参照されたし。
鳥取県江府町も高天原であった。
4 蒜山高原の夜明け
右下は高速米子道
高天原の比定地は全国に17あるという。高天原やそれに近い地名のあるところは高天原ではない。本当の高天原に「高天原」の地名がついていたらとっくに藤原氏が消している。本当の高天原はそれらしい名前の付いていないところである。
高天原の主役は天照大神である。天照大神に焦点をあてなければならない。高天原は5神社すべてに天照大神を祀る蒜山高原である。
蒜山周辺には旧石器時代・縄文時代の遺跡が発掘されており、天照大神以前の神々もいたはずである。高天原であるためには、三貴神以前の神々がいなければならないのであり、その点蒜山高原はこの条件を満たしている。
邇邇芸は高天原から降臨した(古事記・日本書紀)。神武天皇も高天原から降った(古事記)。蒜山高原には邇邇芸が長田神社と加茂神社、神武天皇が加茂神社と福田神社に祀られている。神社の位置関係より、邇邇芸は犬挟峠から降臨し、神武天皇は鏡ヶ成から降臨したことがわかる。
全国の17ヶ所の高天原候補地の中でその形跡がぴたりと残る候補地は蒜山高原だけである。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原を通過したのであり、高天原は蒜山高原(但し、鳥取県江府町も含む)であった。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨した。
5 蒜山高原に水田は多い。
高天原には水田があったとされるが、蒜山高原には水田が多くみられる。蒜山高原は水田稲作も多くみられるので、水田稲作ができないから高天原を去り葦原中津国に降ったという理由には疑問がある。葦原中津国(鳥取県中部)に降臨したのは他に理由があった。
紀元前210年の徐福一行は人口を増やしたかった大神(伊邪那岐)と葦原中津国(鳥取県中部)で再会し「連れてきた少年少女を水稲稲作の出来るここ(葦原中津国)に住まわすよう」指示されていた。徐福一行が蒜山高原を中心にして周辺の山々から仙薬を探している間に、徐福一行に遅れること16年後の紀元前194年に殷王朝末裔の準王一族(八十神)が葦原中津国を占拠して騒がしかった。遣わされた天忍穂耳も葦原中津国が騒がしいと言って帰ってきた。徐福一行は大神(伊邪那岐)との約束の地(広沢=水稲稲作の適地)を取られまいとして蒜山高原・鳥取県西部から鳥取県中部に降臨した。
根国での冒険のあと大国主は葦原中津国に住んでいた準王一族(八十神)を蹴散らして従わせていた。徐福は準王一族(八十神)の動向を探るために天穂日をその本拠地(熊野大社)に行かせた。紀元前185年頃に饒速日と徐福たちの大勢(第一次)は江府町下蚊屋→鏡ヶ成→野添→神田神社に降臨した。徐福は神田神社から琴浦町の斎王集落(伊勢)に降臨して平原(方見郷)と広沢(葦原中津国)を得て自ら天照大神と名乗った。鳥取県江府町にいた饒速日は神田神社から日吉神社に行き、船で小鴨川を下って河内国の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に降臨した。徐福(天照大神)一行にとって仙薬も大事だが連れてきた少年少女を育てるために、水田稲作に適した葦原中津国も重要であった。