魏志倭人伝によると「卑弥呼の死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、100余人が殉葬された」とある。また、「倭の墓は棺をもってあるも槨なく、土を封じて塚をつくる」とある。箸墓古墳はこれに該当しないのではないかと思われる。
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伊射波神社より700mくらい南西にある。
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安楽島町から500mくらい北にある。
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軽自動車が通れるほどの道は左に大きく迂回するように造られている。
歩行者は丸い丘の上辺を通る近道がある。
それほど勾配のある丘でもないのに、広い道をつくる時に、なぜこの丸い丘を崩して真っすぐな道路をつくれなかったのだろうかという疑問が沸いた。
上空から見る限り、もともとは、卑弥呼(倭姫命=稚日女命)のいた伊射波神社に通ずる道が南北に真っすぐあったのではないか。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が亡くなってから卑弥呼(倭姫命=稚日女命)の居所に通ずる道を塞ぐ意味も込めてその道のど真ん中に墳墓をつくったのではないか、という推測が生まれる。
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円の直径は70m余り。魏志倭人伝に「百歩余り」とあるが、実際に誰かが歩いたものと思われる。身長170cmの男性の平均歩幅は70cmとされる(ヤフー知恵袋より)。70m余りは100余歩となる。
ここを通るときに、青谷上寺地遺跡が発掘されるまでの青谷町の薄気味悪い雰囲気が思い起こされた。風もそれほどないのに竹藪の竹の擦れる音が大きくて、助けをもとめているように聞こえた。私以外にも、神社に行くまでの薄気味の悪さを書いておられる方がいる。殉葬された者達の無念さが残っているのかもしれない。
追記(11月16日) 地元の方から情報をいただきました。「安楽島町では此処を松の鼻古墳と言っています。 昭和30年代中高生が剣と土器を発掘し鳥羽市 三重県 へ寄付した」そうです。「松の鼻」古墳は、「姫小松」に見立てられた稚日女尊(卑弥呼)の古墳と思われる。