「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった

2018-05-26 05:49:20 | 天照大神(徐福)

1 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけた、という説がある。
 春秋時代の呉があったのは、現在の揚子江河口辺り(上海・蘇州のあたり)である。ここから船で出航すれば半分以上は九州に到着する。彼らは九州の山々にセンという読み方をつけていったと思われるが、九州にセンと読む山は少ない。従って、春秋時代の呉から来た者達が蒜山でも山をセンと付けたのだという仮説は成り立たない。そもそも、呉から来た集団は山に関心はなかったと思われる。
 山に関心があり、山の読みをセンと付けたのは、山に仙人がおり仙薬が山にあり神仙を追い求めていた道教の集団であった。それは、3千人余りの徐福の集団であった。徐福の集団は不老長寿を求めるという一つの目的によって結束していた集団である。これが、呉の集団であるならば、目的もなくバラバラであった。呉の集団が山に関心があり山に命名していたのならば、九州の山にもたくさんセンという山があるはずである。九州の山に少ないのは、蒜山にいて山をセンと名付けた集団は呉の出身者ではなかったということである。


2 なぜ、全国で蒜山高原の周辺の山だけをセンと読むのか、昔から疑問に思っていたのだが、道教の方士たちが蒜山高原にいたという前提にたてば、山は鉱物や薬草が取れる不老長寿には欠かせない重要なところだから仙人の住む仙という字を付けてもおかしくないと思われる。徐福は大山を蓬莱山だと思い小さな湾(葦原の中津)に到着し、蒜山高原に上がった。蒜山高原にしばらくいて周辺の山々を探索して薬草や鉱物を探したものと思われる。大山の大神山神社では頂上から薬草を採って帰るもひとり神事が今でも行われている。
 奈良時代までは蒜山高原周辺の山を「仙」と書いてセンと読んでいた。例えば大仙であり蒜仙であり烏ヶ仙であったと思われる。


3 道教の方士は不老長寿の仙人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見いだし、仙人たちを信仰し仙人にいたるための実践を求めようとした。その究極の目的は不老長生である。
 古代中国ではなんとかして東海中の三神山に住むという仙人に会い、長寿の薬をもらおうとした。道教の方術は気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことから山と結びついていた。
 彼らは山に「仙」の字をあて「セン」と読んだ。大山(ダイセン)蒜山(ヒルゼン)烏ヶ山(カラスガセン)甲ヶ山(カブトガセン)矢筈ヶ山(ヤハズガセン)などの中心である蒜山高原には道教の方士のいる一族集団が住んでいた。それは、方士徐福の本隊であったと思われる。鳥取県・島根県・岡山県・兵庫県の四県あわせて50くらいの山をセンと読む。


4 蒜山高原一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
 古事記における三貴神より以前の神は96神いたと思われるが、蒜山高原の神社の祭神は24神であり約4分の1が祀られている。珍しい神が多い。蒜山高原は日本最初の首都であり、天都と言ってもおかしくない。
 蒜山高原の神社の祭神は以下のとおりである。
福田神社-川上村
上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 大山祇命 火之迦具土神  久久能智神 志那津彦神 志那津姫神 彌都波能賣神 
長田神社---八束村
伊邪那岐命 伊邪那美命 闇淤加美神 
加茂神社--八束村
金山比古命 速秋津比古命 速秋津比売
茅部神社 大綿津美命  軻遇突命  大山祇命  神直日神  句々廼馳命   
徳山神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 水分神(天之水分神 國之水分神) 三柱底男(上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神) 


5 徐福は方士と呼ばれる学者であり、彼らの学ぶ方術の中には「未来を予測する学」も含まれていた。
 道教では鏡を使って明照法を行なうことによってさまざまな方術が身につくという。たとえば、分身の術、一瞬のうちに千里の彼方まで行く術、雲に乗り氷を踏む術、天地の間のどこにでも出没できる術などである。これらの方術を体得すると、次には神の姿を見ることができるようになる。さらに修行を積むと、未来を予見できるようになり、ついには神仙になれるという。
 卑弥呼が習得していたのも道教の方術であったと思われる。



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