1 海岸近くの日御碕神社
(1)総社 現住所 島根県出雲市大社町日御碕455
日沈宮はもと経島に鎮座した。
(2)鎮座地 東伯郡下中山村大字御崎字屋敷下通
現住所 鳥取県西伯郡大山町御崎86
由緒 天長年間島根県国幣小社日御碕神社の御分霊を鎮祭し瀧上神社と称し、当時出雲国日御碕神社宮司小野尊光の祖先小野政重この地に移住し宮司となり、政昭、昭高三代相継ぎて奉祀せしが、後昭高別に祭主を置きて帰国せしが、当時の領主厚く崇敬して箆津の庄を社領に附し、境内において殺生を禁じ、・・・。当社建立の際は出雲日御碕神社の古材を以て建立せられ、出雲日御碕神社造営の節は必ず当社も修繕せらるるを例とせり。現今の玉殿は日御碕の社より寄進せられしものなりと云えり。当社の北方境内に接する地に検校屋敷と称する所あり。これ天長年間より延長六年まで殆んど百年間、小野家の祖三代居住せらりし地なりと云う。
(3)鎮座地 米子市大字陰田字小天竺
現住所 鳥取県米子市陰田町535番
(4)鎮座地 西伯郡渡村大字渡字宮前(境港)
現住所 鳥取県境港市渡町1487-4
(5)鎮座地 西伯郡中村大字小篠津字本宮(境港)
現住所 鳥取県境港市小篠津町1174
2 海抜20m以上にある日御碕神社
(1)鎮座地 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
現住所 鳥取県西伯郡南部町東上656番
(2)鎮座地 西伯郡幡郷村大字岩屋谷字屋敷
現住所 鳥取県西伯郡伯耆町岩屋谷453番
(3)鎮座地 西伯郡幡郷村大字諸木字中屋敷
現住所 鳥取県西伯郡南部町諸木329
(4)鎮座地 西伯郡大幡村大字吉長字三才木
現住所 鳥取県西伯郡伯耆町吉長370番
3 大神山神社(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
由緒 神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり。
4 大神山神社奥宮(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
祭神 大巳貴命
由緒 上古よりこの山に座す大山神の事は本社の由緒に記せり。大神谷に本社の大山権現又は大山智明権現と称し、例祭祭祀の典式等旧時の遺風を存し、全く神事を廃せざるものあり。
特殊神事 古式祭 祭日7月14日15日
御祭神は医薬の神にませば、古式により神職等は斎戒沐浴して、15日の午前1時に神水汲派遣祭(もひとり神事)を宮司以下奉仕執行す。派遣使は白の装束にて随行の白衣の参籠者と共に出発。頂上の池より神水を汲み、付近より薬草を採取して帰路につく。
5 私見
(1) 日御碕神社は全国的にも珍しい神社である。出雲市日御碕神社を総社としてほかに伯耆国に8社確認できる。日御碕神社の祭神は天照大神命と素戔嗚命であるが、徐福(天照大神)と素戔嗚が辰韓から鳥取県中部の葦原中津国に到着するまでに停船したところであると解する。
海抜20m以上にある伯耆国の4社は遅れてくる徐福一行を迎えるために徐福(天照大神)と素戔嗚が蒜山から降りてきたところと思われる。
(2) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは強引すぎである。
神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。
神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(3) 大神山神社の由緒には「磯城の瑞垣神南備を築き」とあるが、大神山神社を築いたのは磯城の瑞垣(崇神天皇)であることを、暗に示している。卑弥呼と崇神天皇は天照大御神を擁して全国に神社を造っていった。崇神天皇が最初に大神山神社を創建したときは、天照大御神を祀っていたはずである。
また、天照大御神(徐福)は大国主より40歳くらい年配であるから、天照大御神(徐福)が先に大山の薬草を採取していたはずである。不老長寿の仙薬を探しに東海(日本海)の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)に来たのだから山を「セン」と読む蒜山高原周辺に50くらいある山には登っていた。大山(ダイセン)もその一つである。もひとり神事は白装束でなくてはならないのだから、これも徐福(天照大神)たちと重なる。