遭難碑に関わって、情報を頂きましたので報告させていただきます。
情報をいただきました河崎さん、林さん、山本さんに感謝いたします。
設置したのは昭和54年10月26日~27日です。その当時現役の土肥、大山、倉重、山口、OBの山 本、光田氏達で苦労して設置されたようです。
設置場所の選定は それ以前に現地におもむき決定されたようです。そのメンバーは河崎氏と何名かの OB(不明)です。
レリーフの銅板は日立電線の高級品無酸素銅でOBの井上靖さんが提供されました。
碑文については河崎さんが橋崎さんとの交流があることから次の事がわかりました。お母さんは現在も ご健在で、河崎氏より写真を送ると「何年経っても思い出して下さる方があることに感謝しておりま す。とのことでした。又妹さんから、碑文の「恩愛はなはだ絶ち難し」は葬儀をして頂いたお寺の住職 さんがどうですかと教えていただきました。この言葉は浄土真宗の開祖親鸞聖人のもので、親子の縁は 永遠ですよというものでした。またレリーフの文字は父の直筆ですとのことでした。
翌年の昭和55年8月2日~3日河崎氏が企画して追悼登山が行われました。両家のご両親も参加され 現役、OBも多数参加され、プレートの前でしめやかに追悼しました。その後も合宿や個人山行き慰霊が
行われたと推察いたします。この度、その場に立つと追悼の跡がみられました。
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淺田記
写真は27年9月29日の鹿島槍ヶ岳
情報をいただきました河崎さん、林さん、山本さんに感謝いたします。
設置したのは昭和54年10月26日~27日です。その当時現役の土肥、大山、倉重、山口、OBの山 本、光田氏達で苦労して設置されたようです。
設置場所の選定は それ以前に現地におもむき決定されたようです。そのメンバーは河崎氏と何名かの OB(不明)です。
レリーフの銅板は日立電線の高級品無酸素銅でOBの井上靖さんが提供されました。
碑文については河崎さんが橋崎さんとの交流があることから次の事がわかりました。お母さんは現在も ご健在で、河崎氏より写真を送ると「何年経っても思い出して下さる方があることに感謝しておりま す。とのことでした。又妹さんから、碑文の「恩愛はなはだ絶ち難し」は葬儀をして頂いたお寺の住職 さんがどうですかと教えていただきました。この言葉は浄土真宗の開祖親鸞聖人のもので、親子の縁は 永遠ですよというものでした。またレリーフの文字は父の直筆ですとのことでした。
翌年の昭和55年8月2日~3日河崎氏が企画して追悼登山が行われました。両家のご両親も参加され 現役、OBも多数参加され、プレートの前でしめやかに追悼しました。その後も合宿や個人山行き慰霊が
行われたと推察いたします。この度、その場に立つと追悼の跡がみられました。
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淺田記
写真は27年9月29日の鹿島槍ヶ岳