今年のぼくの存在理由? 小説「研究室」、たったこれ一つだったかもしれない。
小説「研究室」(要旨)
小山右人
主人公の若手医師、「ぼく」は、臨床研修を数年積み重ね、機も熟したのを見計らい、博士号取得のための研究を教授に願い出たが、いきなり与えられた「精子の微細な尻尾の運動」に関わる主題に面食らう。
派遣された研究室を一人で取り仕切っていたのは、歳の頃三十過ぎの聡子という女性主任で、高度な理智を要求される仕事を請け負う一方で、豊かな情熱と華やかさも同時に秘めた人物だった。
さらに課題の詳細は、「精子の尻尾の付け根の運動エネルギーに関わる脂質を測定し、運動能と受精率を有意に改善する方法について考察せよ」という高度な技量を要するものだった。どう見ても、半年の猶予期間内で、自分一人で結果が出せそうな代物ではなかった。もしや博士号を取得した途端に医局を去る若い輩が跡を絶たない現状を憂い、医局幹部が、頓挫したぼくの惨めな例を晒しものにして、警鐘を鳴らすつもりかと邪推したくなったほどだった。
一方、唯一の頼りとしてすがるしかない主任の聡子には、新米の臨床医に過ぎないぼくは、迷惑以外の何ものでもなかった。しかし、それだけの弱みを端から握られているぼくは、つまり彼女の隠された顔、旺盛な欲望を秘めたもう一人の彼女にとっては好都合な存在であったことも、次第に浮き彫りになってくる。即ち、「精子ー快楽の種」、「実験の素材ー精子採取」という欲望と結び付いた避け難いこの実験過程の因縁を、彼女の鋭敏さが見逃がすはずもなく、思うがままの渦にぼくを巻き込もうとした。
しかし、ぼくは身を任せきりになったかというとそうではなく、深夜の研究棟の暗い廊下や、磨りガラスの窓越しにしばしば出没し、肉体を持つ身の猥雑さとそれに操られる振舞いの滑稽さを嘲笑う妖しい白い影に、しばしば脅かされ、かろうじて自分を保ち得た。
白い影の正体は、疑いようもなく、一年余り前、ぼくが病棟で主治医を務めた若い女性患者の「そよ」に違いなかった。彼女が病棟に現われたとき、大理石白の儚く弱々しい姿が放つ無垢な光りに誰しも目を奪われた。しかし彼女を冒す病は、すでに治療困難な段階に達していた。
彼女に深く心を捉えられたぼくは、医師として無謀とは知りつつも、最先端の治療にすがりつき足掻く。が、その甲斐もなく、彼女は謎めいた息の音と表情を残し、この世を去った。
ぼくに残されたのは、将来人形作りを志していた彼女が贈ってくれたおびただしい数の人形たちだった。しかしむしろ仇となり、夢の中で魔物の姿となり脅かしたため、ぼくはそれらを頑丈な箱に封印してしまった。
彼女の記憶が染み付いた、辛い場となってしまった病棟からも遠ざかることができたと、安堵を覚えた矢先のことだった。しかし、白い影と化したそよは、博士号取得にまつわる欺瞞と束縛、その周りに潜む矛盾を正視する力をぼくに与えた。その結果、大勢に流されてしまった場合の、疲れ果てた自分像まで見通すことができ、かつて抱いた自由闊達な医師の姿に託した夢から程遠い現実に、ぼくは愕然となる。「そよ」の透明な視点の助けも借りて、自由な未来を志向し続けるぼくの意志が甦る。
ついに博士号取得に関わるしがらみを捨てる決意をし、自分の意志を上司に伝えに行こうという前の晩、小さな自分の根城で、ぼくは仕舞い込んだ人形たちの封印を解き、逆に敢えて悪魔たちと、未来を志向する燃え立つ情熱の魂とを闘わせる出立の祝宴を企んだ。赤ワインを煽り、そよ自身を象ったに違いない日本人形に頬擦りして踊るうち、牙城内の引き締まった空間に、かの人の息衝きまで甦り、魔の宿った人形どもを蹴散らしていく。深酔いから我に返った時、ほの白い影は、制圧し鎮まり返った暗室で、摺り足の音が聞こえるまで実在感を増して迫る。影は幾度か狭い部屋を重厚な足取りで巡り、神々しく立ち止まり、崇高な気持ちにぼくを清めた後、これから向かおうとする曙光が射し始める窓辺にぼくを導き明るませ、消えていった。
小説「研究室」(要旨)
小山右人
主人公の若手医師、「ぼく」は、臨床研修を数年積み重ね、機も熟したのを見計らい、博士号取得のための研究を教授に願い出たが、いきなり与えられた「精子の微細な尻尾の運動」に関わる主題に面食らう。
派遣された研究室を一人で取り仕切っていたのは、歳の頃三十過ぎの聡子という女性主任で、高度な理智を要求される仕事を請け負う一方で、豊かな情熱と華やかさも同時に秘めた人物だった。
さらに課題の詳細は、「精子の尻尾の付け根の運動エネルギーに関わる脂質を測定し、運動能と受精率を有意に改善する方法について考察せよ」という高度な技量を要するものだった。どう見ても、半年の猶予期間内で、自分一人で結果が出せそうな代物ではなかった。もしや博士号を取得した途端に医局を去る若い輩が跡を絶たない現状を憂い、医局幹部が、頓挫したぼくの惨めな例を晒しものにして、警鐘を鳴らすつもりかと邪推したくなったほどだった。
一方、唯一の頼りとしてすがるしかない主任の聡子には、新米の臨床医に過ぎないぼくは、迷惑以外の何ものでもなかった。しかし、それだけの弱みを端から握られているぼくは、つまり彼女の隠された顔、旺盛な欲望を秘めたもう一人の彼女にとっては好都合な存在であったことも、次第に浮き彫りになってくる。即ち、「精子ー快楽の種」、「実験の素材ー精子採取」という欲望と結び付いた避け難いこの実験過程の因縁を、彼女の鋭敏さが見逃がすはずもなく、思うがままの渦にぼくを巻き込もうとした。
しかし、ぼくは身を任せきりになったかというとそうではなく、深夜の研究棟の暗い廊下や、磨りガラスの窓越しにしばしば出没し、肉体を持つ身の猥雑さとそれに操られる振舞いの滑稽さを嘲笑う妖しい白い影に、しばしば脅かされ、かろうじて自分を保ち得た。
白い影の正体は、疑いようもなく、一年余り前、ぼくが病棟で主治医を務めた若い女性患者の「そよ」に違いなかった。彼女が病棟に現われたとき、大理石白の儚く弱々しい姿が放つ無垢な光りに誰しも目を奪われた。しかし彼女を冒す病は、すでに治療困難な段階に達していた。
彼女に深く心を捉えられたぼくは、医師として無謀とは知りつつも、最先端の治療にすがりつき足掻く。が、その甲斐もなく、彼女は謎めいた息の音と表情を残し、この世を去った。
ぼくに残されたのは、将来人形作りを志していた彼女が贈ってくれたおびただしい数の人形たちだった。しかしむしろ仇となり、夢の中で魔物の姿となり脅かしたため、ぼくはそれらを頑丈な箱に封印してしまった。
彼女の記憶が染み付いた、辛い場となってしまった病棟からも遠ざかることができたと、安堵を覚えた矢先のことだった。しかし、白い影と化したそよは、博士号取得にまつわる欺瞞と束縛、その周りに潜む矛盾を正視する力をぼくに与えた。その結果、大勢に流されてしまった場合の、疲れ果てた自分像まで見通すことができ、かつて抱いた自由闊達な医師の姿に託した夢から程遠い現実に、ぼくは愕然となる。「そよ」の透明な視点の助けも借りて、自由な未来を志向し続けるぼくの意志が甦る。
ついに博士号取得に関わるしがらみを捨てる決意をし、自分の意志を上司に伝えに行こうという前の晩、小さな自分の根城で、ぼくは仕舞い込んだ人形たちの封印を解き、逆に敢えて悪魔たちと、未来を志向する燃え立つ情熱の魂とを闘わせる出立の祝宴を企んだ。赤ワインを煽り、そよ自身を象ったに違いない日本人形に頬擦りして踊るうち、牙城内の引き締まった空間に、かの人の息衝きまで甦り、魔の宿った人形どもを蹴散らしていく。深酔いから我に返った時、ほの白い影は、制圧し鎮まり返った暗室で、摺り足の音が聞こえるまで実在感を増して迫る。影は幾度か狭い部屋を重厚な足取りで巡り、神々しく立ち止まり、崇高な気持ちにぼくを清めた後、これから向かおうとする曙光が射し始める窓辺にぼくを導き明るませ、消えていった。