中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

出口の見えない高齢化社会、あるNYの二人

2018-11-23 13:39:22 | 海外留学

出口の見えない高齢化社会、あるNYの二人

2018/11/23記


NYに住むある退職者との出会い
 1990年頃、私はNYのタイムズ・スクエア―近くのインターナショナル・センターという留学生を主にサポートする場所に英会話のの練習目的で頻繁に出入りしていました。
(現在、センターは移転しています → 80 Maiden Ln, NY)
(センターに興味のある方は → www.newintlcenter.org )
センターはそこで私にJOSE(ホセ)という男性・退職者、年齢は70前後を紹介してくれました。
私達は次第に仲良くなり、ついには彼のCond(住まい)に行くようになりました、玄関入口にはセキュリティ常駐のマアマアの住まい。 彼の生い立ちを聞いたり、お母さんは小さい頃、TB(Tuberculosis:結核)で亡くなり、後妻のお母さんで苦労した事を聞かされました。
私の親族も昔のことですが結核で、たくさん若くして亡くなっています。
憧れの大国アメリカでさえも例外なく世界中、結核は猛威を震っていたのですね
大戦後、軍隊を退役NYにて酒の卸業を生業とし生涯独身そして事業を整理していた。

彼の遺言書の話
それからも、自分は英語(GMAT・SLAT)のスコアーが足りない、資金的にも問題を抱えているにも拘わらずNYでビジネス・スクールや法律系の大学院へ進みたい夢を時折、彼に語っていました。
そんな私達もかなり付き合いが進む中、彼の別荘に行くことになりました。
そこで庭の芝生を歩いていた時、彼は“今度、WILL(遺言状)を書きなおそうと思う。”と言いだしました。 アメリカですから彼が勝手に単に自分でしたためるのでは無く当然、弁護士の下での話です。
直感で私の進学希望と彼の遺言を書き直す話は、もしかすると繋がっている?と思いました。 推測するに経済的に私の学費を援助する見返りに、現在健康だがJOSEも将来、気の合う私に周りの世話を期待する?とか。
 彼の遺言状の変更、その点ついて私が“どうして?或いはどんな風に変更するのか?”などは聞ける話ではありません。
ただ私は、ここまで進学の夢を彼に語っていたのは確かですが、私達は男女の関係ではあるまいし、“それを、オネダリしたり”、そんな素振りをした覚えはありません。

彼もそれ以上の話は出しませんでした、それにはとても勇気の要る話です、お金にからむ不確定の話を易々と口外する人は何処にも居ません。
彼に拘わらず、誰しも人間、DEATH-BED(デス・ベッド -死の淵)にいない限り、“俺の財産を(一部たりとも)譲る”など口外できないし、また話してはいけない話題です。

仮にでも、そこまで私を思ってくれたのは嬉しいけど、そうとなったら私は彼の車椅子(介護も含め)を一生押さなければならないと思いました当時アラフォーだった私は彼からの経済的援助額の大小にかかわらず、仮にもJOSEの意には添えないと思いました、途中で投げ出すことの出来ない大変な話です



(また別の女性英語ボランティアの場合) そして1年後には、センターの英語パートナーはロシェル(ROCHELLE)という女性に代わりました。 もちろん彼女もリタイアー組です、NYのハンター・カレッジ卒、その後、教師を長らくしていたそうです。
ROCHELLEは文系卒そして教師の経歴通り、私の学校での英語クラスのESSAY(文章)やプロジェクトで教授より”ダメ出し(やり直し)“を食らった所を的確に指導してくれました。
同じく日本人がペラペラ日本語を話しているからと言って、いざ日本で大学在学中の留学生の課題を全ての日本人がスラスラと添削出来るものではありません、それと同じです。
しかしROCHELLEは、それが可能な人でした。

月日と共に彼女と親しくなり始め、私達の会話の中に彼女のルーツでは人が亡くなっても、再興した魂が戻れるように火葬にしないと言っていました。 また、いつか一緒にメッカの“嘆きの壁へ巡礼に行こうとも言っていました。
そんな彼女が、私を教え子の留学生というよりも、少し親近感を持っているのも感じました
私も仮に、仮にでもながら自分に問いかけました“もしも彼女が自分を異性の対象として考え初めていたら、どうする?”。
“かなり年上の彼女と万一、○○。 考えられるか?”
“ゲスな話、手に入れずらいグリーンカードはクリヤーするだろうけど”
その先の事は私達二人のあり様が、私の頭の中に“絵”として全然出て来ませんでした。無理という事でしょう。

仮にも年齢通りに時間が経つならば、JOSEと同じく私が彼女を介護という事になります
勿論、彼女は分別があり理性的な人でしたから、私の心配は思い過ごしかもしれません。

暫くして、ある日、INTERNATIONALセンターでの英語レッスンを終わり私達は路上で立ち話の後、“GOOD-BY”のタイミングで彼女がKISSする姿勢で急接近した時、私は(無意識のうちに)体を引いてしまいました。私も彼女も一瞬“気まずさ”を感じたのを憶えています。
彼女にしたら“なぜ(私の挨拶のKISSを受け入れない)?”と同時に大きな淋しさを感じたでしょう
“ごめんなさい”(私)・・・

アメリカでは特にNYCでは異文化と独身者の坩堝(ルツボ)、同じカップルでも異なるルーツを抱え、食べなれた食事も違い、そして宗教も。
つまり日本のように自分の家族に泣き付きたくても、泣きつく家族がそばに居ない。
必然的に、友人は疑似家族
JOSEもROCHELLEも少なくとも私に疑似家族を求めていたことは確か。
しかし人の繋がりは時として流れに乗り、決して同じ場所に留まらない、助走を経て男女関係であれば何時しか熱く燃える。 そして極限をきわめれば次第に保守的・自己防衛的な側面が次第に醸成され、どちらかでもそれが負担と感じるようになれば、また人はそれぞれ別の道を歩まなければ。
おいそれとは恋愛というラッピングがされても弱者救済、広範囲の家族関係の受け入れは出来るものではない。
だから私は、時折テレビドラマで美化された他人の子の親になる物語の放映には否定的です。 そんなに生易しいものではありません、私は経験者です。

(来るところまで来た?:高齢化社会)
 最近、姉(もちろん日本での話)から電話があり世間話の後、”実は、ひょっとした事で、大喧嘩になり10数年お互い連絡を取り合わなかった旧友(女性)から突然、電話がありビックリした“と。
話を聞くと、過去の件は申し訳ないと詫びた後、事細かに彼女は病歴を話し始め救急車にもタビタビお世話になっていること、やせ細り気力も体力も尽き、今後どのように生活したらよいか?また万一の時に頼む当てがないとの事までも。
つまり他人ではあるが姉に彼女が逝った後の始末を頼みたい
他にすがる術(すべ)が無いと。

政府が推奨する、高齢者の家庭での見送り、こんなのは100点満点の理想とも思える。
仮に独身者であれば、その選択肢は使えず、例え家族がいても長期にわたり誰が精神的・体力的・経済的に仕事を続けながら持ちこたえられるでしょうか?

“墓じまい”というトピックすら小さく見え始め(当たり前に)、その前に“人の終末”は日本のみならず答えの出ないHEAVY BURDEN(重し)となり益々行く手を塞いでいるかのように見えます。

平成くたびれサラリーマン上海へ行く(その9)後悔と怒り

2018-07-06 22:07:03 | 海外留学

(ここまで)
主人公の松尾次郎は、チョットした縁で人生の峠を迎えた頃に有りがちなトラブルに遭遇。
どうせ、今の自分は”おまけの人生”とばかり、気前よくジョーカーを切りました。
しかし痛い目に会っています。
この手の話は、最後は自分で這い上がるしか。





(その 9)
 後悔と怒り )

昨夜は、次郎独りで苦しみながら長い夜をすごした。
今朝(けさ)は通常の出勤日である。 こんな時は、誰もが休みたい、しかし、そうもいかぬのがサラリーマン。
出社し同僚に事の次第が悟られぬよう、次郎は目を合わせぬようし、“落ち着け、落ち着け”と自分に言い聞かせる。
なぜなら一部の上司、同僚はこの数日の次郎の休暇取りは特別な日であったのを知っている。

泣きを入れる
そして、暇を見つけ、次郎は劉さんの紹介者でもある山下に、“SOS”とも言える泣き言を彼の携帯電話にいれた。
“昨日の夜、会社から帰ったら彼女がいないんだ、消えたんだよ”
そして、続けた“逃げたと思うな、荷物は全部持っていったみたいだ
さすがの山下も、“ウーン…・・”と唸ったまま沈黙した。
“どこへ行ったか見当つかないか?”と山下は次郎に聞く。
“正直言って、まるっきりわからないよ”と次郎は半ばすべをなく。
今回だけは山下も、彼女の肩を持つことなく“俺、松尾さんに迷惑掛けちゃったみたいだな、そんなつもりサラサラなかったんだけど、ただ松尾さんに幸せになってほしいだけだったんだけど”と言葉もなかった。

不思議と次郎は、山下に電話する事によって、少し楽になった気がする。
山下は言う、“松尾さん、一応、警察に捜索願を出しといた方が良いかもしれないよ、それから入管(入国管理局)にも”と。
“ちょっと、大げさじゃない?”と次郎は。
とりあえず次郎は誰かに話すことによって、胸のつかえが少しは下りた気がした。




(日本人なら本来、無縁の非日常?)
 思い返せば、彼女が次郎の家に滞在したのは来日してわずか数日。
それにしても早い幕切れだった。
何だったのか?
日本への入国ビザを単にだまし取り、更に運が良ければ金を来日早々にかすめ取るだけなら、自分の身内や職場の仲間に次郎との結婚は秘密にしても良さそうなものに?
次郎との結婚披露宴の会場である和平飯店(ホテル)に招待した彼女の勤め先の病院の婦長を始め、たくさんの看護師の同僚に、将来この顛末(てんまつ)を何と説明するのだろうか
普通であれば、“悪い事、秘密めいた事”は隠れてやるものだ。自らが壊すことになるこの結婚の披露宴を、わざわざやる必要があったのか?
それとも病院を辞めるのは確実な事とし、披露宴は退職のご挨拶代わりだったのか?
日本人には理解できない。

それだけではない彼女が日本に来る少し前も、これは?と思わせる出来事も多々あった。
上海の自宅に国際電話をすると、何度か不在(当時はWeChat など中国のSNSはない)、決まって母親が電話に出て“用事で出ている”あるいは“日本語を勉強しに行ってる”と。
これには、さすがに人の良い次郎も“アレー”と思った。
劉さんは、真剣に日本語を勉強しようとしているタイプでは無かった、これまで彼女の口から一言も日本語を次郎は聞いた例(ためし)が無い。
彼女の母親も娘の為に、嘘で取り繕っていたのだろう。

これは極論だが、次郎の経験から女性が自宅を頻繁に空け、電話に出れない状態で、パートナーを煙に撒いているのは、他に別の男がいるか?もしくは重大な事を隠していると思って良い。

日を数えるごとに、次郎は落ち着きを取り戻し、今回の件のあらましが見えてきた。
と同時に次郎の中に、劉さんに対しての“怒り”のようなものが、込みあがってきた。
今まで、彼女のために嫌いな飛行機にのり上海へ何度も往復したのは何なんだったのか?
事のつまりは、大金でも無いがお金、そして時間や苦労、彼女のために、これまでつぎ込んだ次郎の行為は何を意味するのか?
例え、万一、次郎が同じように偽装結婚に利用されても、もっとマトモナ中国人の力になりたかったと思う。
本当に、日本語の勉強をしたい人とか、中国で才能があっても、チャンスに恵まれない人とか。
これでは、次郎は騙され該がない
後悔と怒りである。

次郎が、中国で見てきたいろいろな光景を、差別と人種偏見というなら、彼は甘んじるが、日本人と比べ(90年代の中国)不運とも思える数多くの中国人、特に若者を中国の街中で、次郎の目には焼き付いている。
中国のホテルやレストランでは、日本なら学業に専念している年代のまだ子供のニオイが残る若者が多く安い給料で働いていること。
路上では、この時代に動力のない手押し車、台車で重い荷を引く若者達。
自転車が、キシムほどの荷を乗せ人馬の如く働く人々。
劉さんは、彼らの誰よりも劣ると。

(時が経てば、見えてくる)
時間の経過と伴に、次郎には劉さんの狙いが見えてきている。
次郎の目にはそれは世界を知らない、情報不足と、観察力のない人間のすることではないか?と。
また一般的に、これだけたくさん中国人が日本に来ているのに、まともに日本語を勉強している中国人が少なすぎる、日本で幾ら稼げるか?で日本を評価しようとしている 
次郎は彼らに時には、日本人の心の琴線に触れる、美しい日本語で日本人を泣かせてみろと思う事がある。このご時世(90年後半の就職氷河期)、日本人の若者ですら、職探しにアクセクしているのに、日本語もろくに話せない劉さんが次郎の下を離れ、楽に金を稼げるわけがない。
多少、器量は良いが三十半ば先の見えてきた女性が風俗で働くにしても限度がある。
劉さんは何を勘違いしているのだろうか?

服の商売に投資して40万元の穴を空けた事も、今となってみて、くだらない嘘とわかる。
彼女の着ている服装から、ファッションの専門知識があると到底おもえない。 今、中国といえども、オシャレな中国女性のファッションは日本のものと余り変わらない。
次郎から金をせしめるにしても、耐えて待つ事を知らない彼女は、早い時期から一発勝負を仕掛けてきたのだ。
(西洋の諺で“教育を日常的に受けていない者は、”時が熟すまで待つ事“が苦手とある。)
次郎から金策を拒否され、この先も見込みが無いとこれ以上一日たりとも、次郎のところに長居は無用と見た劉さんは、当初の予定通り多分、日本にいる仕事を紹介する中国の知人を頼って、次郎のもとを離れたに違いない。
(後で分かることだが、次郎が家を不在にした短期間に、中国、日本国内数か所に相当数の電話をかけていた事が、その後判明している。)
無計画な割に、仕掛けるのが早い、上海で糸を引く他の人間の存在の可能性もある

そして、次郎の気持ちは完全に劉さんから離れた。
山下の言う通り、警察に捜索願を出すことにした。
彼女が何らかの犯罪の被害者、加害者のどちらになっても、次郎にとって問題だからだ。

次郎は矢継ぎ早に動いた。
ついで、入管(入国管理局)にも相談してみる。 これこれ、しかじかだが何か解決法が有るや無しや訪ねてみる。
入管の担当官いわく“状況報告書を提出してください、それから戸籍から彼女の名を削除、離婚等の手続をしてください、さもないと彼女は貴方の配偶者として、永久に在日が合法化されますから……”
次郎は自分に問いかけた“離婚…・・それは、分る、しかしどのようにしたらよいか?”
具体的にはどのようにしたらの次郎の質問に、担当官は何か法律相談所があるからそっちで当たってくれと、素っ気なく終った(冷たくあしらわれた)
次郎の中国での夢捜しは、ここに来て思わぬほうに展開した。
警察、もしかして裁判所のご厄介になる、突然に坂道を転げ始めたといっても良い。
それらの全てが、今まで普通の生き方をして来た次郎にとって無縁のものだった。

人は好く言う“自分の蒔いた種は、自分で刈らねば
次郎は、まさにその人となった

(つづく)








”留学・英語より大切なもの、国・人種を問わず家族の有り方・・・“

2017-11-16 19:54:32 | 海外留学

留学・英語より大切なもの、国・人種を問わず家族の有り方・・・
2017/10/20 記
2017/11/16 再編集

 私は留学中、マンハッタンにある“メトロ・インターナショナル”という財団のプログラムでアメリカのお宅訪問(宿泊型を含め)を何度もしたことがあります。
財団の所長は女性でアンドレア、とにかく良い人で世話になりました。

(ゲストを招くとは?)
 1989年10月末その訪問先の一つに行くために、グランド・セントラルから列車メトロ・ノースに乗り今回のアメリカ家庭訪問の留学生数十人が車内で“ワイワイ、ガヤガヤ”。 目的駅に着くとホスト・ファミリー達は既に駅で集合していて、メトロ・インターのアンドレアのリストに従い男女の留学生がカップルでホスト・ファミリーと引き合わされました。
他のホストはご夫婦の出向かいが多い中、私達はご主人一人での出向かい、彼の運転でお宅へ。 何故か静かなスタートでした 彼の名は”ジェフ“。

 程なく平屋造のお宅へ、そして玄関直ぐのダイニングに私達は腰を落ち着ける。 普通ホストは特に留学生などの来客には自宅の1階から2階へとくまなく巡り、ここにもバス・ルームがあるとかお宅を紹介、また大きくなって家を出た子供たちの大学卒業写真や正装した軍服姿の彼らを自慢するのが一般です。
しかし、このお宅では玄関近くのダイニングの椅子に私達二人の留学生は座るや否や、異様な空気を感じ身動きが取れない状態となりましたダイニングの先の左袖にある部屋の奥から女性の声がご主人に声をかけているというより、呼び付けています。
その都度、ご主人ジェフは部屋入口にかけより、何か二人で“コソコソ・・・・・”。
奥さんが姿を現せないのは何か都合があるのか?(私の思い)
時折、障碍者用の車椅子にお乗りの方は、初対面をためらう方もいらっしゃいます。
仮にそのような状況であれば、その都度ご主人があたかも伝言係のように行ったり来たりするのかと理解しようと思いました。

更に、それにとどまらず・・・
 アメリカに来て何度もお宅訪問をしているので、日本の家庭のように来客のために食べ物や飲み物を準備していなくても不思議と思いません。
ただアメリカ人は通常、文化の違う人間から少しでも興味のある事を掘り起こそうと会話に好奇心旺盛です。
かろうじてご主人が、少しでも会話しようとすると、何故か見えない部屋の袖から奥さんが気に入らないとばかり彼を呼び付けます。
そして彼が台湾の女性留学生フィアンとの会話が弾むと、嫉妬してか?けたたましく奥さんは彼に注文をつけます。

この寒々としたお宅訪問で私達の心は、座った椅子で金縛り状態、もう飲み食いも会話も要らない、何か理由が見つかればいつでも失礼したい、その一心。そんな中、何の巡り合わせか?体が不自由な人と思っていた奥さんが上半身を袖から私達の方に覗かせ立ちすくんでいる。
当日は10月にもかかわらず既に小雪も舞い散る初冬。
そして下着姿同然でテーブルに近づき、手作りの料理の“コウシャク”をしている。
私達はもちろん留学生ですが、その面前に“シミチョロ(戦後間もなく親の時代、女性が下着姿で家や近場をかっ歩する時代がありました)”で飛び出してくるとは。




夢に描いたアメリカと人の幸せは一致せず
 来客をもてなす習慣が有る無しにかかわらず、万一客を呼ぶからには料理や飲み物の準備の有る無しはどうでも良いが、何か心に残る会話がしたいものです。
ましてや客人の前で夫婦・親子の“もめ事”やD・Vでその場の雰囲気を台無しにするのは”危険な兆候“です
これは親子ないし夫婦の問題だから、他人はお構いなくの話ではすまされない。
人間は身内でも主従関係を徐々に構築すると、管理する側は一種の“快感”を得る
そしてこれは言葉や肉体的暴力へ、さらに相手が抵抗すると“脅しやその道具”を使う傾向がある。
ご主人ジェフに対する奥さんの接し方は明らかに異常でD・V(深刻な家庭内暴力)。

これら身内のD・Vは経済的貧困より深刻。
決して被害を受けるほうが我慢して済む問題で無い。
時には、第三者の助けも必要。

アメリカにもあった悲劇 - 今回の”ジェフ“のケース
そういう私も過去D・Vの当事者でした。
この状態に陥ったら、お金も知識も身近な親戚すら助けに入ることが難しくなります。
前向きに生きようとする全てが“グチャグチャ”になり、何も身につきません。 

私もその壁を乗り越えてきた(逃げてきたと言う方でも結構です)からこうして正面から留学生活を迎えられています。

経済的に成功しているから、社会的にそれなりの地位にいるから、夫婦間もしくは親子間で問題は有るが“今さら手遅れ”もしくは“我慢さえしていれば”は将来に向けての人生を台無しにし、有ることをキッカケに部分的に成功している部分も破壊しかねません。

最近の何気ないテレビに映し出される一般のカップルの会話の中に、経済的にはむしろ何の不自由も無いが、カップルのどちらかの言い回しに、”ムッ、少し危ない“と私の感情が騒ぐことが時折あります。 例え相手に怒鳴らず、優しい言い方をしても内容や状況によってD・Vで有る場合も。

万一自分もしくは家庭がD・Vのカオス(chaos)に巻き込まれそうになったら、何にもまして断固断ち切らなければなりません。
例え配偶者であれ他親族に不当に邪魔されない、人間は尊厳の中に生きる権利を有している。
お金より、キャリアを積むより何にもまして家族関係が精神的に健康的である”こと。これは生きるための本質です
私は帰路、彼”ジェフ“の事が頭から離れなかった・・・。
ニューヨーク・グランドセントラル駅に向かう電車の中、車窓は既に暗く私達留学生は終始無口でした。


”私の長い一日、NY留学の扉を開けた日“

2017-09-13 17:43:40 | 海外留学
私の長い一日、NY留学の扉を開けた日
2017/9/11記

(恥ずかしい思いで)
 “Venture Hotel” ホテルという名をつけているが,見すぼらしい宿泊先がNYの最初の場所です。 1988年1月11日夕方、JFKから到着。 
その宿泊先より50M程先に日本レストランがあると管理人に紹介され食事。 48丁目ブロードウェイと8th.AVにある”博多(食堂系)“という所です。
 当日は日本から持ち込んだカップ麺を食べる予定でしたが、外食を選びました。この日は少し疲れました。 私はカウンターで味噌ラーメンを注文し食べました、美味しかった長い一日のご褒美です、落ち着きました。

 レジで会計を済ませ、雪の残るNYの歩道を宿泊先へ10M程歩いたところで・・・
・・・(小走りで近づく足音)・・・
“すみません(もちろん日本語です)”声を掛けられました。
“・・・(なんだろ?)”と私。
お客さん、チップ置いて行って無いですよね!”と博多のスタッフ。
聞いた瞬間、私は”恥ずかしさ“で全身が襲われました。 ここはNY、レストランで食事をすればチップを払う、知っていました。 しかしNY到着初日ましてや相手が日本のお店ということで甘えが入っていました

これを機にこの後の4年間の留学生活、レストラン(ファーストフードを除き)で快くチップを払えないのなら、家に有るもので済ませる、若しくはチップFREEの真冬でも石畳みに座り”シシカバブ“なんかを噛付くと自分の形ができました
この恥ずかしい話はアメリカ生活中、誰にも話していませんというか、口にすらできない事です。

(私の旅行ケースは超重量級)
 私は西川口駅の近くに住んでおり、当時は駅には駅改札に至るエレベーターもエスカレーターもありませんでした。 旅行ケースには入り切れないほどの荷物に溢れ、現在の留学生なら笑うかもしれない厚手の辞書が何冊も結果ハンパで無い重さに。 おまけに極貧生活にも自炊で生き延びるように念のために小型のフライパンも入れました、これで万一の場合は煮物も焼き物もやろうと(結局は一度も使いませんでしたが)。
他にスポーツバックに革ジャンを含む大量の衣類、そのため一度では階段を登れなく、両手に掛かる旅行ケースで腕が抜けるか?の状態でした

(飛行機から降りるは、私にとっての”清水の舞台“)
 成田からノースウエストの夕方便、飛行機と地球の自転速度は似ているので、窓のシェードから漏れる機外の様子は、暫く暗く夜間と思えば、また夕日が差し込む繰り返し。
私の隣の乗客は中年のフィリピン女性、話せばNYで仕事、住まいはマンハッタンの北。
今ほど当時はインターネットも無くその他、情報も入手しずらく、現地に友達も親戚もいない私にとって一番の悩みは上手く今日、宿泊先“Venture Hotel”に無事たどりつけるかでした。
アメリカNYに留学を決めてから約半年、ただこの一点が気がかりでした。 飛行機を降り税関を通り入国するまではできるだろう、しかしタクシーを捜しその後、無事に友達の紹介のホテルに行けるのだろうか?
その時、私が拠り所にしたのは一冊のコンパクトサイズの旅行ガイドだけでした。 その中に書かれた簡単な案内図、税関を出て直進して建物出入り口へ、屋外へ出たら左へ直進、しばらくするとタクシー乗り場に出くわすことになっていた。
その情報はどこまで正しいのか?タクシー乗り場までどれ位歩くのか?

この半年間、良く飛行場の税関出口で迎えの客の名前を掲げ待つ状況が羨ましかった。
そして、その時は揚げ句の果て隣のフィリピン女性が今晩は自宅に寄って行けなんてオファーがないかな?と妄想までも。

その時ばかりは飛行機がJFKに着陸しましたが、何時までも座席にへばり付いていたい心境だった、機内に残る乗客も疎ら(まばら)になり、意を決して空港ターミナルへ。




タクシー乗り場は旅行ガイドと一致
 いざ税関出口から空港ホールに放り出されると、途端に何人もの客引きが”TAXI?“、”TAXI?“と蜂の攻撃のように、どこまでも付きまとい、若干の恐怖感を振り払うかのように足早にターミナル出口へ突進しました。
未だ日が残る屋外へ出て、もう残るはTAXI乗り場は何処?しかありません。
若干、距離はありましたがTAXI乗り場を確認できました。
“有った、有った、良かったガイドブック通りだった!”

“・・・・・・フー・・・良かった、とりあえず街(マンハッタン)に出られる”

ドライバーの意地悪
 藁(わら)にもすがる思いでタクシーに乗り込みました。
運転手は旧い漫画“小さなバイキング”のお父さんにも似た体格、走り出すと何かと話しかけて来ました。 
“日本人か? (その後)何やらかんやら・・・・・・”とドライバー。
立て続けに話しかけられる会話に思うように答えられず、留学を決意してからの日本での駅前留学の個人レッスン、JAPAN TIMESの夜間クラス、恵比寿の英会話喫茶通い、テープを買い込んでのリスニングはもちろんの独学の全てが“歯のたたない代物(しろもの)”であったことが知らされました。
おまけにドライバーは給油と称しガスSTATIONに車を横付け。
“JFKのほど近い場所で早くも給油、客を取る前に何故準備をしておかないのか???”
と言うよりは、結果ただ“舐められているだけの事、でも今は友達に教わったHOTELにたどり付ければ良いのだ。
・・・・・・(タクシーはマンハッタンに向かって走行)・・・・
車は相当走って、セントラルパークのかなり北からマンハッタンに入ったので、運転手は意図的に遠回りしているなと思ったが、それもどうでも良かった。
自分がトラウマになって気にしていたのは万一、夜も更け重い旅行ケースを引き下げホテルが見つからず街を行ったり来たり、ホームレスに“いじくられる”自分の姿でした

マンハッタンは碁盤の目、丁目と大通りの名前で場所が分かるはず、車窓から見えるあの緑の道路標識でホテルに近づいたのは分かる、ドライバーはHOTELを捜しているようにも見えるがいっこうに着かない。
見つからないな? 潰れちゃったんじゃないか?”とドライバー。
“いや、そんな事はないこの2日前に日本から国際電話し予定通り行くことを話てる”と私。
その界隈のブロックを2周半し、ドライバーはついにこれくらいで勘弁してやろとばかりに車を静かに246WESTの前の歩道横に止めました。
私のように新参者には車から薬局,雑貨屋、土産物屋の識別は難しい、ましてや看板もないHOTELとも呼べない建物を唯一246Wだけで捜すは難しかった。

運賃を受け取ると、山賊から普通のオジサンに戻ったドライバーは僅かに笑みを浮かべ私に握手してきました、彼のお芝居も終わりました。
私もこれで留学前の“ウヤムヤ”も消え去り、結果これから4年以上に及ぶ留学生活の扉を開けることが出来ました
(続く)

“英語学習の深さと、日本人留学生の壁、そして・・・”

2017-07-29 12:17:11 | 海外留学
“英語学習の深さと、マイノリティー留学生の壁、そして・・・”
2017/7/15記


 留学当初、語学学校のクラスメイトの中の一人の中国女性が何らかの時に“勉強して、いつかNATIVE(アメリカに生まれ育った)のような英語の発音になってみせる”と真剣に言っていました。 後でそう易しい事でないのは分かりましたが、それを聞いた時は、自分とは根性が違うな!と思いました。

アメリカで生きるための2枚のカード、英語力と欧米人の外見
 英語力と欧米人の外見が有れば問題ないが、そのどちらが欠けても厳しいのに、どちらも無いとすると陸上のレースで言えば、スタートラインのはるか後方からのスタートを余儀なくされたようなものです。
RACE(人種)からくる差別は留学すると日本人誰もが直面する壁。
W.A.S.P(White Anglo-Saxon Protestant)と聞いただけで一つの人種のカテゴリーと感じるだけでなく東洋人からしたら排他的なニュアンスも自然と伝わってきます。

しかし皮膚の色や、目の色、全体の印象などからくる“差別”もしくは“好意”は自然発生的に個人の内に瞬時に感じる反応なので手に負えない。
日本人が差別や格下扱いされることもあるが、逆に日本人も他の人種ないし文化の人々を何かのタイミングで無意識のうちに見下すことも有ります。

留学当時、コロンビア大学前のバス停で東洋人(中国人?)の父親が1~2歳のハーフの女児でそれは鮮やかな金髪の子供を背負ったままバスに乗ろうとしていた光景。 奥さんらしき人は見かけず、私は単に歩道を歩くよそ者にもかかわらず卑しくもその父親の顔を見たく足は釘付けとなった。 中国人の父親と際立ったハーフの子、無い物ねだりの”嫉妬“なのであろうか? そばにいた他の数人も同じく“野次馬”的行動をとっていた。 その女の子の髪は午後の強い日差しに反射して、あたかも純金のごとく忘れられない光景でした。



(”夢を買う“ための英語留学(投資)の未来、ライバルは日本の小学生か?英語義務教育化で
 現在、日本国内でも、英語を勉強する手段は飛躍的に増加また進化しレベルも上昇し、昔のように自分の英語の酷さを“学校や先生のせい”にはできなくなっています。
ましてや小学校の英語義務教育化が始まり、大人の留学生も“オチオチ”できない形になりつつある。 私がニューヨークで日本の塾で講師のアルバイトをしていた時、たまたま塾の生徒のお供で来ていた日本からの転校生として小学1年生で現地校に入った男の子と話す機会がありました。 彼、“僕、英語が分かんなくて、困っている”と。
それから僅か2~3ヵ月してまた偶然会った時の彼の英語に“ビックリ”、何故かNATIVEにも似た発音、私の英語は”ボロボロ“に打ちのめされた感がありました。 子供(小児期)のあたかも”スポンジ“のような吸収力は真に恐るべし
日本は、この僅か40年余りで気が付けば急速になかなかの“コスモポリタン社会”に変貌しつつあります、街中で皮膚の色の違うミニスカートの制服に包まれた学生を見ると将来、さらに街を歩く人々の風景は一変し、日本の国際化も何故か楽しみです。

日本の国際化と単身所帯化
 留学やワーキングホリデー経験者、これらを他人(ひと)によっては“個性的”とか呼ぶかもしれない。 また言い方を変えれば、概して“普通の生き方”では満足しない人達。また英語や留学以外でも、その他のジャンルで個性化し続ける人々。 職業の選択や友人、ましてや結婚相手のマッチングとなると更にハードルは高くなりつつ有るのでは無いでしょうか

数年前のテレビドキュメンタリーで英国BBC制作の番組で、女性独身キャリアがあたかも“タレント図鑑”のようなものから妊娠の為の精子提供者を探す光景が映し出されました。
もちろん医師、弁護士のような仲介者を介在させての話、そして女性の希望する分野の芸術的才能だの皮膚の色等も考慮し、父親不詳の婚外シングルマザーとなる。

人間のライフスタイルの多様化と結婚せずとも子供を持ちたいという“エゴ”により、日本でも近い将来ありそうな話である。
私が留学時、代理母が出産後、契約を破棄し子供をKIDNAP(確保)し子供の引き渡しを拒みアメリカで連日のようにマスコミは大騒ぎ。 その数年後には子供を産めなくなった娘の為に、母親が娘の卵子で妊娠、出産。 それからかなり年数が経ち、日本でも似た様なケースが報道されています。
もちろん厳格な宗教的、医学的見地からは異論もあると思うが、時代という“風向き”は問題が第三者に及ばないこの種の争点には結果、寛大な印象があります。

保育所も待機児童ゼロ化で行政も選挙民の顔色をうかがって積極的に動いている、大企業のみならず最近は中小でも産休制度の義務化から逃げれら無くなりました。
離婚や婚外婚によるシングルマザー、さらに前述の英国BBCのドキュメンタリーのように単身者が全くの第三者の遺伝子で親となる受け皿も将来は整備されるでしょう。 普通のシングル日本人女性がある日突然、遺伝子操作でブロンドでハーフの子供のお母さんになる、30~50年後には、普通の出来事になっているかもしれません。

英語留学、そこでの差別、外国への憧れ、結婚抜きの母親願望独身女性の文字を並べると・・
何故か日本人は無意識の内に、欧米人を“お客さん扱い”し、差別をうけても“悔しいけど甘んじる”習慣を持っています。
そして個人、企業また国家間でも6・4外交(日本人が割負けして成立する取り決め)”はいつか卒業しなければと思います。 日本もいつの日か、英語が“ペラペラ(留学経験者の域を超えた)”で、欧米とドカッと対峙できる総理大臣や外務大臣が出てきてほしい。 

繰り返しになるが、シングル女性の多様性な生き方として、“(経験を積んで帰ってきても)時には結果の伴わない留学”より、もっとインパクトのある遺伝子操作の婚外シングルマザーのような領域へ踏み出す日も何時か来るのでは









“運”が舞う内は留まり、留学は敗残兵になってからで遅くない、それでも保証無し

2017-04-08 14:06:15 | 海外留学
中年オヤジ留学


運”が舞う内は留まり、留学は敗残兵になってからで遅くない、それでも保証無し2017/4/8 記



 私は約8年前に、公正証書にて遺言を作成しました。
身内の経験から、遺言には証拠書類の取り寄せ等、健康なうち体力がないと無理と分かったからです。
今回これには費用がかかるが作り直そうと思います。 
その際に序文に、自分はここに至るまで 運”に助けられ生きて来れたと付け加えようと思います。 

留学、あこがれや夢では空腹は癒されない
ニューヨーク・エルムハースト、3月27日路肩に雪が残るアパートを引き払い帰国。
理由はともあれ去るには後ろ髪を引かれる刺激的な街(NYC)、当時治安も悪かったが、それでも一口では言い表せない何か不思議な、魅力的な場所。

しかし機会あるごとに私は、これから留学へ旅立つ若者に熱く語ります。
ニューヨークの歴史的建造物、個性的な人々、日本と違い淋しがり屋のニューヨーカーが向こうから友を求めて来る、ゴミが散らかっても時には絵になる。
だがそれら魅力的なものを全てひっくるめても(集めても)、最後は毎日“ご飯”が食べられるには敵わない(かなわない)
こんな私もニューヨークで4年間住み、やっと出した答えでした。


留学や進学で道を切り開く?)
 新卒、そこそこ若い時ならチャンスが向こう(採用側)からやって来る、それは時には有るでしょう。
小説“HOTEL NEW HAMPHIRE”の中で登場人物が主人公の若者に言う”(若いうちは)あまり余るチャンスが向こうからやって来る、そしてそれらを好きなように手にすることが出来る、ところがある日、パタッと来なくなる“それを知るべきだと。





日本人に限らず転職者ないし青春期を逃した留学生や上級大学進学者のその後は厳しく、時には悲しい
1) STEVE―アイオワ在住、アメリカ大企業アルコア退職後、NYUにて不動産関係のビジネス・スクールに在籍。 私と彼は寮の仲間、彼はNYUのクラスは専門家が講師で授業内容は素晴らしいと称賛していました。
ただ私は彼が卒業後、早い時期に就職が見つかればと思っていました。 彼はアイオワで彼女と10年以上事実婚。 STEVEは冗談で早く職が見つからないと追い出されそうと笑いを交えジョーキングしていました。
私が帰国後、久しくして連絡が無いのでアイオワに電話すると彼女がSTEVEはフラデルフィアの弟の所にいるとのこと。 心配していたことが起こったようです

2) RICHARD―NY在住、韓国生まれ幼少期ブラジル、成人後NYに母親とともに移住。
 クイーンズ、NYの短大での同級生、彼はコンピューターにたけ私は教わることが多かったです。 NY時代、彼とアルバイト探しを二人で飛び込みでやったことがある、歩けども声をかけてども、ろくに話すら聞いてもらえずその日の天気は曇天、心も暗かった思い出があります。

私が帰国後数年して彼がコンピューター関係で働いていたがソフトを無断でコピーしたとかで“クビ”に、久しくして宝石商で働いている話は聞いたが、その後仕事の話は彼から出てこない。 3年前NYに行った際に会ったが、彼の方から仕事の話は聞けなかった。
私がNYを去ってからの20数年、どうやって食べて来たのだろうか?
そんな事は聞けません、母親の再婚相手の義理のお父さんの少ない遺産?分かりません。

ただ言えることは、人が一旦道を踏み外すとは大変、多分こんな表現ではダメ“恐ろしいとか残酷”と言いかえるべきかも。
不遇時代を1~2年で脱出したならともかく、30代から50代後半まで、察したところ“をもつかんでいない”、ただただ悲しい!

私の“いちご白書”)
 私はNYに留学前は約15年自営業を経営していました、商売に浮き沈みはつきもの、支店を持ち従業員も増えると、毎日が”戦場“でした。 スタッフの突然の欠勤、従業員間のトラブル、従業員の大きなストライキが2回。
そんな訳で日本に帰ったら就職を希望していました、私を本気に迎い入れてくれるなら何処(地方)でも行こうと思っていました就職のためアメリカで日本人らしく見せないため(安全対策)髪はパーマをかけていましたが、バッサリ切りました
飯田橋のハローワークで就職相談で私が英文タイプ(当時はPC普及前夜)ができるという事で女性担当者から“これどうですか?”と結局定年まで勤める会社の紹介を受けました
当時は真か定年までと思いましたが、これは真に自分にとって“縁とか運”とかの話になると思います。

本文書きだしの“運に助けられ”の意味は、もし自分の子供(35年会っていない)へ届くなら、また彼らも人並みに“ご飯”を食べながらえたとしても自分の実力や努力だけと思わないでほしい。

最近見た、BS6チャンネル“歴史鑑定”で中国地方の覇者、毛利元就が小国から大大名になれたのも“・・・天運味方して・・”と言っているそうです。

また続きます・・・・





TAKE THE CHANCE THAT COMES ALONG, IN SHANGHAI.

2017-01-14 12:10:38 | 海外留学

TAKE THE CHANCE THAT COMES ALONG, IN SHANGHAI.
幸運の神様の前髪をつかめ” 上海番外編


The god of “chance” has a long hair in the front-head so easy to catch him (=chance).
Once missing him, there’s no longer opportunity to do so because he has bald head in the back. As you know, the god is called “Kairos” coming from ancient Greek story.
If people unusually encounter very good fortunes then it’s important how to recognize and manage them. Special events? It’s sure you can guess anything, for instance making new girlfriends, getting good positions, finding favorite houses, etc.

In general, “take every chance that comes along” is a law.
But chances are usually changeable and unpredictable in the certain times usually short period also there are a lot of rivals expected.
This is the reason people respect him “Kairos”.

(注:英文と日本文の内容は全て一致していません)

>“チャンス”の神様は長い前髪でつかみ易いが、タイミングを失した瞬間に後ろ髪は”ツルッパゲ“で後悔しても後の祭りと言われている。
これは古代ギリシャの神様でチャンス到来の時に降臨する非日常的な時の神様”カイロス“をつかむことにより、人は”運“を手にすることが出来るとされる。

滅多に訪れない幸運の神様を、いわばカイロス的な時間の使い方で、目標に熱く飛びつき獲物(幸運)を仕留めたいものだ。

自分も過去を振り替えれば1,2度、人生のターニング・ポイントでやって良かったという成功体験がある反面、それ以上にカイロスの前髪をつかみ損ねた経験はそれ以上です
そもそもチャンスそのものが真に10年、20年、30年に一度の巡り合わせの出来事かも。

(All of a sudden, it happened……)
I used to work for an agent of shipping companies in Odaiba, Tokyo commuting on “Yurikamome” during 2007. One evening, it’s totally dark outside of the train.
Beside of me, there were two business men speaking and I was suddenly struck with their conversation. This was really surprising me. The topic they were talking about was nothing interesting to other passengers except me around.
I was shivering and listening to them more seriously.
My wife is going to Shanghai, China seeing (buying) a condominium the day after tomorrow, so it’s not convenient for me to go with you then” said one of business men.
He continued “I’ve heard the condo not fixed (with floor, wall, bath, etc.) yet like Japanese way and located on 26th floor……”


それは突然に・・・
2007年頃、私は出向でお台場のある会社に勤めていました、通勤には“ゆりかもめ”を使っていました。
会社帰りなので車窓は暗く、私のそばドア付近に立つ二人連れの男性の会話に耳が吸い付けられ”ハット“しました。 
その会話の内容は、私以外の乗客はどうでも良いことです。
私には理由がありました、彼らの会話に釘付け、鳥肌が立ち上がりました。

うちの女房、急にあさって人の紹介で上海の売り物件マンションを見に行くので都合が悪いんだよ”と片方の男性。
“部屋はコンクリート打ちっぱなしのままで、内装はしていなくて26階だそうなんだよ・・・”と続く。


(What? 26th- floor. That’s it I’ve been wondering to buy or not…….)
I’ve just bought another condo In Shanghai and come back Tokyo two weeks ago. Of course, I looked many other condos including the 26th-floor there. I was sure the condo the businessman mentioned should be that one of them. He said the building was 32 stories and the room located on 26th floor with still concrete made up condition.
Honest, I’ve entered the room with a real-estate person two weeks ago in Shanghai.
I did believe that’s it.
If doubt it, please ask your Chinese friends “possible or not?”
Although Shanghai is a really big city and there are so many condos in used market, it’s hard to find similar one in specific time and conditions.

Looking outside from the condo’s windows facing to South, you could look “Huanpu River 黄浦江“ just below down.
Spectacular rather than beautiful.
The condo was constructed 2004, 3 years ago then and its price was about $130 thousand (104万 Chinese Yen) then. Right now the market price is hardly calculated, 5 times? I don’t know…….
And more, a couple of years coming later, Shanghai International Exhibition would hold 2 kilometer away from here to down the North.




26階? それは私が買い悩んだ部屋だった・・・
実は私は2週間前に上海に行き真に一部屋を買って帰って来たばかりだった。
上海滞在中、何か所もの物件を見てきました。
私は信じる、確かに“ゆりかもめ”の男性の奥さんが明後日に見にいく物件も見ていた
彼は32階建ての26階と話していた、しかもスケルトン渡し。 僅か2週前の出来事だ。
確信した・・・真にあの部屋だと。
もしも疑うなら知り合いの中国人に聞くがいい上海広しと言えども中古物件市場で当時類似の“レア物件”を探すのは極めて困難です。

上海の26階から黄浦江を眼下に見、南向き、100㎥、築は3年前の2004年、当時売値104万元、現在なら500万元以上だろう。


My dream: my wife’s parents would move to a nice place much better
It’s too hard to explain what was going on about 26th-cond. and how I lost the big chance at the end.
If I write down on this blog how I handled to the condo for all details I would be too miserable, please excuse me.
So I skip the details.

I bought another condo that afternoon.
Coming back from Shanghai, these two weeks ago but I’ve still been thinking why I bought another one.
It looked like I kept lying myself.
In my head, an evil whispered to me “your choice (bought another condo) was not too bad so you wouldn’t have to go Shanghai frequently for fixing the room”.
The evil continued saying “And you wouldn’t have to put big extra money any more, it’s a kind of relief for you”.
And I deceived myself another condo I just bought was better than that of the parents living now, so they would be glad of new place equipped elevators.
This was a very sad story

老いゆく妻の両親に少しでも快適な住まいを願っていたが・・・
しかし私はその後、上海滞在中に血迷ったのか既に内装の済んでいる中古物件に手を出してしまった。 もともと上海に住む中国人の妻の両親を住ませたい考えからの物件探しだった。
もしもスケルトン渡しを買えば、何度も上海に行く“ハメ”になる。
更に内装する際の未知数の出費額について、僅か2~3日の滞在中に追加出費を自分の脳理に組み込むのを瞬間的に弱気の風が脳裏に吹き込み“億劫(おっくう)”になってしまった。

しかし東京に戻り仕事に復帰し、お台場の湾岸警察近くの港湾合同庁舎9階に業務で立ち寄った際、エレバーターを降り窓際の業務カウンター領域に入る。
東京湾の入り江に位置する建物の眼下に太陽に照らされた水面を見た瞬間、自分は負けた!(間違った) ――― つまり、やはり迷いに迷ったあの上海26階の物件を買うべきだったと。
正直、“ゆりかもめ”の二人連れの話を聞くまでも無く、この2週間は頭の中では26階の物件を買わなかったことに、“いや、これで以上金銭的に無理しなくて良かったのだから・・・”、“少なくとも妻の両親はエレベーターのついている部屋で喜ぶだろう・・・”。
自分自身にとって都合の良い“嘘”を塗り付けて防御していた

しかし高層階から眺める光り輝く東京湾の水面と上海黄浦江の大きく蛇行する雄大さの素晴らしさが、私の決断の失敗をはっきりさせた。


What a small world! The condo came back to me?.....)
(Now we go back to the plot on “Yurikamome” before.)

I recalled their talking (that) the businessman’s wife was going to Shanghai the day after tomorrow. Tonight, I would call a sister-in-law, in Shanghai and ask her to make sure the condo not sold-out yet.
If that’s still in the market, It’s possible to reserve the condo with around 10万元 tomorrow, just one day.
If I (actually my sister-in-law) could catch up with the rival and grab the chance first, no problem for money and time till the contract after all.

I was feverishly excited.
Since coming back from Shanghai I’ve been thinking about this too much.
And I realized I made a big mistake and should’ve bought 26th-cond.
I regretted about my decision and the result.

At the end, my challenge was unsuccessful.
People please don’t miss big chances………please.

(もしかしたら間に合う?)
 そう言えば“ゆりかもめ”の男性の奥さんは明後日に上海に行くと言っていた。
もし今晩、上海の妻の姉に電話し明日に不動産業者に例の物件が売却済でないことを確認し、それであれば10万元程度の手付を払って予約することも可能である。
そうすれば日本から資金を持ち出すことも、渡航することも問題ない。

この2週間ゲームオーバーと思ってきたが、可能性が有ると感じた瞬間、心に火がついた。
例えこれが成功し、ライバル(男性の奥さん)を蹴落とす(けおとす)ことになっても。


(上海番外編 -終-)
 上海のマンションを買い求める敗者復活戦は結果、不調に終わりました


 
(NYオヤジ留学 - 続く)




“NYにてバイトをクビ、どうして?- 日本の穏便主義の衰退”

2016-12-24 20:18:32 | 海外留学
中年オヤジ留学


NYにてバイトをクビ、どうして?- 日本の穏便主義の衰退
2016/12/25 記

 私はNYで2度バイトを”クビ “になったことがあります。
最初はNY留学して2,3ヵ月過ぎの事。
街に少し慣れてきたのでバイトが有るのなら、是非と。
その場所はカウンター式の日本レストランで友達の紹介でした。 NYでバイト捜すなら、“とりあえず行ってみたら”と言うことで。

バイト先はどんな所?)
NYタイムズスクエア(42丁目)の角から東へ5,6件の小さなカウンター式の日本レストラン、中華XX軒ならぬ内装をイメージして下さい。
当時はNYでも格別ガラの悪い繁華街で、辻辻にホームレス、窃盗予備軍が壁に寄りかかりカモを物色しているかのように、何が起こっても不思議ではない所です。 何らかの“スキ”を見せたら、たちまちターゲットになり被害者になるのでは?の空気が漂っています。

店を訪ねカウンター越しからオーナーと話、コージ(友達)さんの紹介で来たけど、出来たらバイトしたいと申込み。
運よく、隔日で午後からラスト(10時)迄で働くことになりました。

店は常時オーナーと準ベテランとアルバイトの3人回し。
自分の仕事は、サーブ(配膳)バス(食器下げ)皿洗い、雑用、特に牛肉の薄切りカットがエライ仕事だった。
肉処理は店の地下で行われていました、地下にこんな広い空間が有るのも驚きです。 映画ウェストサイト物語で道路の一部の鉄板を返し主役トニーが商品のカートンを搬入する地下の世界です。 天井に配管むき出しの空間に、店のストック、冷蔵庫などが置かれていました、壁にむき出しの有る温水配管のためか“やけに蒸し暑い”。
雑居ビルの地下で個別のテナントごとのように仕切りも無く、時折アメリカではスーパー(SUPERINTENDENT 管理人)と呼ばれ、ヒマな警官のように良く“油を売り”に来ました。

 冷凍の牛バラを円盤が回るスライサーでカットするのですが、自分の指を落さないよう、肉を刃先送るのだが簡単ではない,量も業務用です。 
ノロノロしていると冷凍で固いはずの肉も柔らかくなり、スーパーでお馴染のきれいな薄切りにならず、仕事にならない。 肉のカットは1時間では終わりません、かなりの仕事量、自分の心も“落ち着かない”。 時間の割、カットされた肉が少ないとボスが思うのではないか?と心配したり。




気軽に吉野家、ラーメン屋での食事、当たり前と思うな!)
このバイトは閉店時に、食事が出たので助かりました。
NYでは外で日本の定食屋クラスで食事すると、当時のバイトの時給の2時間分はすっ飛びます。
ここが日本の物価と違うところ、日本での外食(定食の範囲)は高くありませんが、アメリカではファーストフード以外は高くつきます、すぐにチップとTAXですから。
バイトの身分でレストランで外食する、”何、考えているの?“の世界です。
NYでは真冬に屋外の石畳み階段に座り、冷たいコーラで食事に慣れる事も必要です

日本では良く資源(土地や石油、鉱物の埋蔵物)が無いと悲観的になります
しかし海外へ出てみると、日本ではバイト時間給の範囲内で安いレストランで座って食事が出来る、これも十分、日本が世界に別の意味で誇れる資源です。
コンビニの持ち帰りにすれば更に外食の半分くらいにもできるのですから、これは日本の強みです。
2020年を前に日本に押し寄せる外国人が日本の街中の外食の安さ、美味しさ、安全さに驚嘆しているのも当然です。

さて話を戻し、バイト先では店のしめ際の泥棒対策に、看板にして帰るときは3人で店を出ます。 オーナーは“チョビヒゲ”を生やしカウボーイハットをかぶり、見た目はヒスパニックのイメージ。
NYでアジア人、中でも日本人と分かることは非常に危険です、強盗のターゲットになり易い、オーナーは当然に今日の売り上げを持っているのですから。
店からすぐ下の42丁目タイムズスクエアの地下鉄コンコースに入ると、彼は雑踏の人並みに不思議と溶け込んで行ったのを憶えています。

クビの話
そして”クビ”になる話ですが、隔日勤務ですからもう一人バイト(同じく留学生ヒロシ)がいましたが、自分より以前から働いているので年下ですが先輩になります。
シフトの引継ぎで勤務が重なる時間もあり、細かく自分に注文を付けてきたり、先輩ですが”うるさいな“と言う感じです。 ただ彼は、例の牛バラ肉のスライスは自分より手馴れていました。

ある日、自分はオーナーにヒロシとの間の “ギクシャクしている関係”を何とかしてもらいたい気持ちから相談をしてみました。
自分は甘かったのかもしれません・・・。

しかし意外にも、・・・・・・・昔のことなのでオーナーの前置きは憶えていませんが、それでは今日で(私は)店には要らないと告げられました。 

自分は少しショックでした。 オーナーとは上手くやっていたと思っていたのに、ヒロシとの件も少しは理解してもらえると思っていたのに。 自分はNYで(話し合い無しで)、バッサリ“クビ”はショックでした。

もう一つのクビ事件
それは一年半務めたNYの美容室で起こりました。
当時、クイーンズの短大と美容室をかけもちでやっていました。 大学の学期が始まると履修登録をしなければなりませんが、それは僅か1~2日で締め切られます。 その日は“MUST”です(救済日は有りません)。
その日(土曜日)は、事前にオーナーに了解をもらい、午後からの出勤になっていました。

履修登録を終え、店に入ると、しばらくしてオーナーが“ぶつぶつ”言い始めました。
“あなたは、いつも学校が何だかんだと言って、お店に穴をあける”。
“あれ自分、先生(オーナー)に前もって学校の事で、どうしても今日はこの時間になってしまう事、前もって言っていましたけど”。
オーナーのブツブツは続く・・・
“今日の事は、代わりの日が無い大事なことなので,分かってほしいんですけど・・・”自分は言う。

でも結局、自分はその場で“クビ”を言い渡されました

そう言えば、自分も以前2~3人急に来なくなったスタッフがいて、同僚に聞くと”クビ“になったという過去を知っていました。

アメリカでは主導権を持つ人の決定は“絶対”で、覆る(くつがえる)ことは有りません。
学校でも、公務の事務所で、“えらく待たされた”の、“なんで私の言うことを認めない”などガタガタ言っていると、担当者に一喝され退去を宣言されます。
それに従わないと、セキュリティー(警備員)に摘み出されます。

アメリカでは役に立たない日本の協調性・・・
これらの経験から、自分の反省しなければいけない点は?
また自分をクビにしたオーナー達の心理は?・・・
確かに自分はオーナーの親衛隊的な側面を持っていなかった。

もしかして自分には独特な“自分の世界の印象が強く、第三者には若干不快感を与えるのでは?

それもある、しかし・・・
彼らは知っている、このニューヨークに日本人バイト予備軍は腐る程いくらでも代わりがいることを。
また彼らも昔このニューヨークで突然の解雇を経験し、下積みから這い上がり、やっと手に入れた糧、守るために”話合いや、どちらが正しい“か?を判断する必要は無いのだ
彼らは元は日本人だが、彼らのアメリカから学んだ行き残り術だと思う。

多分、私が生きた年代と日本と言う風土から身についた、“状況に合わせる”、”時には妥協する“、”物事を穏便(おんびん)に始末する“と言うことがアメリカの日本社会では通用しないと言うこと。

一方、美容室のオーナーも、そう言えば時折、彼女より相当年上の男性がパトロン(擁護者)づらしてタビタビ店に訪れていた。
彼女は彼と生活せざるを得なかった長い年月を振り返り“ムダな8年だった・・・”ともらすこともあった。
特に女性の場合、留学生も含め時には自分から現地男性を取り込み擁護者とし家賃、永住権確保、英語を享受し、次のステップの前の孵卵器(INCUBATOR)とするケースも多い

(そして現在の日本も、礼儀や道理に代わり”力づく“や攻撃型の隆盛)
 先にも書いたように、従来の日本は何か事が有れば、譲れるところは譲り、出来るだけ”波風“を立てないよう穏便に済ませるのが文化と思ってきたが、最近は変わってきている。
それも悪く(変わってきている)
庶民に留まらず、国会議員を含む著名人まで。

何か耳障りの言葉、話の内容、インターネット上の記事でも勢いが有り、相手を傷つけ、賛同者やマスコミが騒げば”正しい、もしくは勝利した“と勘違いしている。

もちろん、そう言った風潮も良くないが、現在あまりにもマスコミの立ち位置がお粗末
また人間が無力で打つ手がないなら、この際ある部分で先行するAIの力を借り、人間の世界観を打ち破る斬新でしかもフェアな見識を人間に与えてほしい。


(では、また)



”留学するなら、リスクをとる覚悟も、人生半ば決意する人へ“

2016-10-17 16:03:22 | 海外留学
中年オヤジ留学
2016.10.17記

留学するなら、結果、自分が成功するシナリオと真逆のシナリオを心の中に用意すること
分かります、夢を持ってアメリカに来ることを。
大事な正規社員のPOSITIONを捨ててまでして留学する人は沢山いるでしょう。
ここでは職半ばで留学、また高レベル英文系卒業者でない方を前提とした場合、数年で英語を習熟することは結構、”キツイ“。

また将来、日本に帰ってみると、そこら中に帰国子女が余っていることが分かるでしょう。
自分も3年前に経験しました、区の英語を必要とする補助職員(非正規)給料は社会保険込で15万円、一年契約、たった1名募集に大会議室に百人はいるといると思われる受験者。

大事な自分のキャリアをランクアップさせようとして、特に正規職を捨て、大金と時間を投資して留学しても、成長した彼らを迎い入れる良い話をあまり聞きません。
就職活動もことごとく裏目にでて、むしろ英語と無関係の非正規の現場仕事。

夢と現実のギャップ、留学しても花が咲かない結果も、決断する前に十分熟慮して下さい

留学したら、英語の性急な上達を望まないように
 私の場合、古い時代の英語教育を受け、社会へ出て時の経った人間が英語のやり直し人生をやるのには覚悟が必要です。
留学を境に朝から晩まで英語の勉強しかしてないのに、全然進歩しない。
コロンビア大学の英語学校の同じレベルの欧米系のクラスメイトに歴然と差をつけられ、中国人にも、そして年若き日本人にも。
ここはアメリカ、自分の行き場の無いストレスを発散することもできません。
英語が未だ使えないのだから、心のうちを表現することも、冗談を言うことも“まま”なりません。
こんな事を半ばライバルのクラスの日本人に言える話題でも無く、内に秘めたフラストレーションは相当高まっていきます
英語が上達しない反面、虎の子のお金と時間をかつてこんなに浪費?(実際は浪費ではないが)と心、穏やかでない。

しかしNYに来て半年、110丁目ブロードウェーの交差点で、何故かその日“ふと”地下鉄路線図を見なくても乗り換えられるようになり、マーケットで売られるバナナやオレンジが今日は安いか高いか?分かるようになったんだから!
今は、英語の上達は置いといて、少しは街(NYC)に慣れただけも自分は成長したと、満足しようと、開き直りました

(英語も下積みが大事、陶芸の下ごしらえの如く)
 ダンスでも大きくROAR(所作を大きく上方に開放)する時は見せ場。
英語でも人前で流暢に会話を使いこなすは華。
しかし見せ場の前に、逆にエネルギーを溜め込むために地味なムーブメントが必要。
良くアスレチックスの解説者が、下半身の強化が大事と強調している。
上手くいかない時は、手前(前段階)が不十分なのだ
陶芸で例えたら、少しでも英語を思い通りにするには素材の粘土を自由自在に操れるように、頭の領域を無理せず対応できるよう“これでもか!”の鍛錬が必要。
華を咲かせるのは、先の話。

しかし語学学習ではどんな場合も生徒の側は、上達することに性急
ニューヨークで急きょ日本行きを決めたアメリカ人が、私に日本語を教えてくれとの事で、初めて2週間も経たないうち、もっとスピードを上げ実践できるようしてくれとコンプレインしてきた。
日本語学習のバックグランドの全くない外国人が超短期間で・・・?



日本語を幼少期に戻す
 高学歴の人が陥りやすい自分で英語を難しくしてしまう。
まず修辞語や難しい言い回しを捨てること。
幼児や小学年低学年の子供のボキャブラリーで、まず話す日本語をシンプルにする(赤ちゃん言葉の意味で無い)。

米国大学院の入学考課試験のG.M.T.(ビジネススクール)やS.I.T.(司法関係)試験のWRITINGの見本解答でも難しい単語、言い回しは殆ど使われていない。
アメリカ大統領の一般演説で難解な言葉を操っているか? NO.
日本の政治家は、国民を煙に巻くため、普段使わぬ言葉で答弁、SHAME ON YOU !(恥を知れ)だが。

アメリカに行って英語を勉強する“羽目”になったら、全てを忘れよう1)日本で大学を卒業している事 2)社会の第一線で、大人の会話でキャリアを積み上げて来たことも 3)そして流暢に話せる日本語を英語に変換して話そうと事も
さもないと、学校では教師にJAPANESE-ENGLISHと徹底的にイジメられます

幼少期の頭の柔軟な時期を逸して、その後英語を勉強するにはスタートラインから大きく下がり、マイナスからのスタートも屈辱と思わない開き直りが必要です。

(英語漬けに、英語勉強の大量投入)
 日本の古い時代の英語は、レベル3~4(アメリカの授業について行くにはレベル7)を中学から大学まで行ったり来たり、先生自身もその壁を破っていないのだから生徒をその先の領域へ連れていくことはできないはずだった。 役に立たないはずです。

地球も氷河時代になると、中途半端な暖かさでは氷河は解けなくなるそうだ。
ですから成人になってしまい固まった脳ミソを、英語勉強の大量投入で溶かしてください
私はこんな事をやりました・・・
◎語学学校の他、各種主催の英語のサブ・クラスに参加
◎出来るだけ国際交流会に参加し、会話の機会を増やす
語学学校のL.L.教室はフリーに開放されているので、聞き取りの強化、暇があれば行く
◎幼児向けの、易しい文章の本を敢えて読む
分からない単語は1にも2にも辞書を引く(その時)、辞書はもちろんLONGMANの英英辞典、その意味が更に分からない時のみ、日本語の英和を使用。
クラスでは日本語の辞書を使用すると、教師に“メチャクチャ”に怒られますよ。

それでも、英語の幾重もの思い扉は開く気配を見せません。
打たれ強くなろう! これでもか!これでもか!と。
北極の氷を舐めて溶かすくらいの執念で

読むのが一番難しいのは、小説です
 留学して感じたのは、新聞、雑誌、小説ときたら、読むのが難しいのは小説です。
昔は分厚いNY TIMESを30セント前後で買い求めるのがニューヨークカーの文化でしたが、今ではインターネットに代わられています。 スタンド売りも紙面は大幅に減りタブロイド判に代わり2ドル50と高い! 時代の変遷とは言え、業界は厳しい限りです。 
しかし留学では、新聞(インターネットを含む)を読み、報じられている犯罪、不倫、人々の悲哀、アメリカの国土の広さを感じ取るのも英語の勉強です。

小説は一度読んでも、PLOT(状況設定)、登場人物の名前と人柄がなかなか理解できません。 新聞と違って格段に分からない単語の多さに悩まされます。 読んでも読んでも、登場人物の強い個性が頭の中に捉えることが出来ません。 それでも最低3度は読み直してください
すると読み返すたびに、霧が晴れるように意味が通じるようになります。
万一、どうしても登場人物像が自力では捉えきれない場合は、インターネットで小説のブリーフな(簡単)解説をしているものを捜し読んで、小説を読むのを再挑戦しましょう。

アメリカでは文章力、スピーチ力が重要視されます。
英語の勉強と小説を読むは別物としないでください。

読書が楽しくなると、貴方の英語の学習の突破口が見えて来るかもしれません?

留学が好運をもたらさなくても、鍛えられた自分を良しとしよう!)
 最初に話した通り、現地もしくは帰国し正規職ないし留学経験につながる仕事を得ることが出来ない。 それでは留学は全て”ムダ”だったのか。 いいえ違います。

世界の多くの人達が夢見る地です、ニューヨークは。
そんな地でさえ、貧困は不変の問題と知り、リスクを冒しながらもする国際結婚(同棲)、また浮草を渡り移り住むようなマイノリティーを見る。
これで貴方は、日本でもダメなものはダメ、アメリカでもダメなものはダメと。
誰にも騙されない、人の意見を聞いて損をするような人を卒業しているはずです

そして日本に帰ってきても、インターネットを含む数々の発行媒体からの英語のニュースや声が聞こえる、本が読めるのは一つの幸せではありませんか?

日本の戦国時代、ヨーロッパに派遣された少年使節団の一人は不遇にも異教徒として処刑される際「私はローマを見た、中浦ジュリアンである」と叫んだそうな
私達、留学したものも“私はNYCを見た、・・・・である”と心の中だけは誇りとしましょう

また、続きを書きます。


“時の流れの諸行無常・・・ブラックカー・ビジネスとNYのある韓国社会”

2016-09-19 15:07:52 | 海外留学
中年オヤジ留学




時の流れの諸行無常・・・ブラックカー・ビジネスとNYのある韓国社会2016/9/19 再編集

 時は1991年頃、アルバイトが見つからず困っているところ、元ハンターカレッジの英語学校で知り合ったクラスメイトの紹介でクイーンズの地下鉄エルムハースト駅近くの、日本で言えば車の”ハイヤー業“に近い韓国人オーナーの会社で働きました。
ただ日本のような豪華でシックな黒でワックスの効いている“レクサス”のような車を想像しないでください。 ただ車は当時、年落ちの”リンカーン“や”キャデラック“などで、見かたによれば最近の車は小振りになって、私的には当時の車の方が雰囲気があるように思いますが。

(当時のNY遠回りタクシー事情)
 このバイトを始める前は、一般には人は多くタクシーを利用していると思いました。
でもタクシーに乗ると、英語も土地勘も“そこそこ”だと意図的な遠回りを3台に1台くらいの割合で運転手に良いように”やられます
私もJFKから市内に来るとき、えらい遠回りされました、道が怪しいと思ってドライバーに呼びかけても“分かってる、大丈夫、まかしとけ”、口だけで結局は不当な料金を取られます。

でもでも、学校級友のヒスパニックの彼女のご主人はタクシー・ドライバーをやっていて夜間は自身が“怖い”と話しているそうです。 そう言えば、映画“タクシー・ドライバー”の中で採用担当者がロバート・デニーロに”お前は、このNYの夜間の危険な場所でも運転は平気か?“の問いに答える“ANYTIME, ANYWHERE”つまり怖い所は無い、例えブロンクスのゲトー(売春婦、ドラック・ディラーの徘徊するNYの治安の悪い地域)でも問題なしと。
今、思えばドライバーが“カモれる客”から取れる時は取るは、命がけの大変な仕事をしている見返りとしての彼らへの報酬だったかもしれません。

(車持ち込みの寄せ集め、来る者があり、そして去る者が)
 さてアメリカとは生きるのが大変な社会です。
ここのハイヤーもどきの会社(通称、ブラックカー・ビジネス)で働くドライバーは全員、車の持ち込みです、歩合制ですから仕事をしなければ一銭も入って来ません。 そして会社が少しでも固定給を払うリスクを取らない代わり、ドライバー達は身軽に同業他社へ移ります。 ドライバーは仲の良い、繋がりの強い者どうし、2,3,4人位にグループに分かれています、猿山の“サル”に似ています。 グループ同志で気に入らない、稼ぎに不満、こうなったら先ず先発の一人が辞め、時間を置いて他の仲間も当然移ります。




バスに乗り遅れるなと、果ては日本の地方の小銀行まで大挙NYへ、そして夜はドンチャン騒ぎ)時は真に日本のバブル期、客の80%は日本の法人客です。 
だから外線からの電話には日本語で“太平洋自動車です(仮称)”と出ます。
上記のようにタクシーは遠回りして料金の上乗せと言う問題がありますが、この業界ではVOUCHER(伝票)にサインで乗車、しかもFLAT-RATE(設定料金)で支持を受けていました。
日中はともかく夜の8時頃から電話はなり叫びます、日本で馴染み知った会社がほとんどKビール、F銀行、D銀行、C信用銀行・・・等々の顧客から彼らの事務所はもちろん、レストラン、寿司屋、天ぷら屋、クラブ、カラオケなど値段の高そうな所へ車を1台、2台、3台とオーダーが入ります。
行き先は彼らの自宅ですフォトリー(片道20KM、料金$22)、ウエストチェスター(30KM、$35)、ワシントンハイツ(30KM、$35)などです。

常連駐在員の酒宴は時には毎日、週数回とか頻繁に“とてつもなく高い”レストランで食事、そして“ハシゴ”、あげくに安全な“リムジン”で郊外の自宅へ帰宅。
何と言うことか?
リムジンの空車の待機場所は日本で言えば、客のピックアップが銀座・新橋としたら交通に支障のない東銀座辺りみたいな(NYではヘリポート近く)にて待機、5分プラスアルファ―で現地着。
夜9時あたりになると今度は車が足りなくなります、顧客に“どれ位で来れる?”私はいつも嘘をついていました“5分くらいで”。
鳴り叫んでいた電話も夜1時半を過ぎると“ピタッ”鳴り止みます。
先ほどまでの車が“遅いぞ!”のクレーム電話、無線でドライバーに“パリガセヨ(急げ、急げ)”の応酬は“どうでも良くなります”。
先ほどまでの喧騒は嘘のようです。 私達はどんな仕事でも、こんな狂気と静寂のハザマに生きているんですねボリューム・ゾーンは僅か(わずか)夜8時から翌1時の短いレンジ。
どうみてもドライバーは物理的に見て一晩で3本しか客をとれません。
年老いた日本語を話せるドライバーは、他に何処も行けないので通しで働きますが、多分四十がらみの子供がいるドライバーは昼は多分、他のデリーとかの仕事と掛け持ちでしょう。

(ついに共同経営者が決別)
事務所(会社)はどう見ても儲かっていると見えません、事務所に時たまダウンタウンの韓国銀行から電話がかかってきます、口座の残高がショートしているから今日の4時半までに入金してくれと。

この会社のバックグランドは分かりませんが、どうやら別々の2家族が共同で立ち上げたようです。 その中にサン(SUNG)20代後半おもに日中は彼が事務所を仕切っていました。 自分ではバルーク・カレッジ(市立大学)卒業と言っていました。 もちろん英語はネイティブです(もちろん、韓国語がマザータングですが)。
自分は出直し留学生、しかしサンNY育ち、それでいて何故(なぜ)こんな中途半端なポジション(仕事)で甘んじているのか? これが彼の、彼の家族のアメリカン・ドリームか? いや違う、彼のセイでもない、それ程アメリカで根を張るのは容易く(たやすく)ありません

アジア人の顔立ちは価値が無い、以前この近くでパン・ケーキのお店を見つけ買い物をしたことがあったが、店のロゴ、外観とも地元の老舗かと思いました、店頭には二人のスパニッシュの女性が働いている。 しかし、後でこの店はサンの親戚の韓国人の経営と分かりました、店からは見えないバックヤードでは彼らがパン作りをしていたことになります。
韓国人(東洋人全般)がファンシーなイメージのケーキ屋さんの店頭に立てば、店のランクは一段も二段も低くなってしまう、これでは顧客の中に隠れている無意識の差別に突然、火が放たれ見下されてしまう。 これは仕方のない事です

もう一組のオーナーは金さん一族、金さん自身は韓国ソウル大卒、日本留学の経験がないのに日本語ペラペラ、歳は50後半、良い人でした。
話によると以前、米国日通で働いていたそうです、彼も時折ドライバーをやります。
この会社には日本語を話すのが4人います、皆、日本統治時代に殴られて憶えた口かもしれません。 車に乗る日本の駐在員と言っても英語は下手くそ(当時)でしょうから、車にのったら彼らの日本語には“ホット“するでしょう。
私は時たまIF・・・・IF(もしも、もしも)このNYでドライバーが流れ流れついた日本人だったら?と自分の頭で想像します。 日本のエリート気分の駐在員が乗り合わせたリムジン(ブラックカーを総称してこう呼んでいます)の運転手が選り(より)によって訳ありそうな、何でもお見通し風情の日本人だったら。
これは、“白ける”でしょうね。 だからドライバーは外国人でバランスが取れているのでしょう
さて共同経営者どうしの争いですが、それは有る土曜日日中に起こりました。
私は韓国語が分かりません。 口喧嘩が始まった訳ですが、多分当時者間(SUNGと母親 VS 金さん)では以前から争っていたと思います。
双方、口喧嘩、極め付けはSUNGのお母さんの韓国人特有の大声でかん高い声で終わりました。 悲しいかな、この韓国人の極限状態の口喧嘩も一つの文化なのでしょうか
NYで以前にも、路上で人が遠巻きで見ているにも関わらず、中年の女性がSUNGのお母さんと似た調子で顔を真っ赤にして、相手の男性を“罵って(ののしって)”いました。
どちらが勝った、負けたにせよ、周りの人間には、興ざめで、ただただ“淋しい”感じがとり巻いていました。
その日を境にSUNG親子の姿を事務所で見ることは有りませんでした。

(金さんの二人の息子との出会い)
 SUNG親子が去って、代わりに金さんの奥さんと息子、JEFFとDAVIDが事務所に顔を出すようになりました。 二人ともこのリムジン・ビジネスには精通していました、JEFFは30前半、DAVIDは20代後半アメリカ陸軍(ARMY)退役とか。 二人の英語は同じ兄弟でもやや隔たりがあった。 JEFFは中学生の時、DAVIDは小学4年生の時に韓国から来たらしい、自分は人にもよるが語学のFLUENCY(フル―エンシィー・流暢さ)を得るには、真に小学3,4年頃までに外国に住み移ることが大事と思っていますが、真にその方程式通りです。

当時、事務所で客からのオーダーは原始的にマニアルで紙にメモをとり、無線で業界用語で10-5(テン・ファイブ、客待ち状態)と“客待ち状態”と宣誓したドライバーの序列表に従って、無線で同じくディスパッチしていました。
全て無線で、一昔前の日本のタクシーでも事務所とドライバーの交信がランダムにも続くあの状態です。
ある日、数社リムジン会社を渡り歩いて来ているDAVIDが“大手では無線を使わず、装備されたモニターにオーダーがデジタル表示されドライバーの選択を約定させるシステムになっている。 ただこれには$100万(約1億円)の投資が必要”と話していました。

(ある夜のクイーンズ・ブルバード上の歩道橋からの眺め)
 バイトを終え深夜に帰路、歩道橋から眼下を見下ろすと、今までは気付かなかったリムジン(ブラックカー)が目に留まるようになりました、あれも、これも、あっちも・・・QUEENS BRDの道路上、郊外へ向かう下り車線の大半がリムジンです。
相当の車、わき目も振らず、ナイアガラの滝の“水の分厚い板”にも似たリムジンが道路一杯に広がり隊をなし突き進んで行く、郊外へ郊外へと・・・。
きっと車に乗る駐在員達はほろ酔い加減にも拘わらず、NYの厳冬、深夜路上での強盗から安全に守られ、30キロの道のりを最速で帰宅、完璧(皮肉です)。
一方、ガソリン込みで車持ち込み、深夜に往復60キロをおまけに事務所にマージンを払い運転するドライバー、実質いくら手にするのか?

(2013年秋、強者(つわもの)どもが夢のあと、そして新星現る) 
 退職を契機に21年振りにJFKに降り立ちました。
今回サンフランシスコでも乗車したので、同じく“SUPPER SHUTTLE”(乗り合いVAN)
の車が目に入ったので、これに乗ることにしました。 ドライバーに値段を確認すると$40+TIPだそうだ。
周りを見回すとイエローキャブ(タクシー)もいます、ドア側面には何とNY市内$70(記憶が正しければ)FLAT-RATE(定額)書かれています。
もちろんVANサービスの方が安いが、TAXIの定額制の時代がやっと来たか!の思いです
これで空港利用者は安心してTAXIを利用できますね。

そしてこの後、何回か“SUPPER SHUTTLE”に乗ることになるのですが、私が留学していた時代は韓国人や中国人のリムジン・サービスが席巻(せっけん)していました。
しかし今、NYのカービジネスは韓国人などからインド人にテイク・オーバー(主役交代)されたようです。
そう言えば、メトロポリタン美術館内のレストランで食事しましたが、多くのインド人ウエイターを見かけました、チャイナタウンの一角にあったベトナム料理店でもウエイターにインド人を、飛び込みで入ったピザ・ショップでさえインド人の店員を。

SUPPER SHUTTLEの運転台横には”スマホ“が置かれ、乗客の指名、乗車ポイントが表示され、ドライバーはそれに従って運行しています。 かつて太平洋自動車のDAVIDがブラッカー・ビジネスの大手が1億円の運行システムを自前で構築し端末を各リムジンに装備させた話を思い出しました。
“スマホ”という、極めて簡易な装備で顧客情報を入手できる、たった15キロ圏内程度内しか交信出来なかった金の掛かる無線など必要としない。

私が去ったあとの20数年の間に、タクシー運転者の間に常習化していた意図的な遠回りのよる不正運賃の温床、無線頼りだった旧式な車の配車システム、一方配車システムに自前による巨額の投資の全てが“藻屑(もくず)”と消えています
本来、当たり前の“定額料金という顧客サービス”、安価、便利な“スマホ”によるビジネス・モデル革命、NYの厳しい労働環境にもに怯まず(ひるまず)押し寄せるインド人というニューカマー(新規参入者)の大波

敗者は全て、“当たり前と言う普遍のルール”と”スマホ“と怖いもの知らずの人口大国インド人の勢いの濁流に押し流されています



(また続きを書きます。)

私の帰国を諭した、小説”ライ麦畑で捕まえて”

2016-06-11 17:18:11 | 海外留学

中年おやじNY留学



私のニューヨーク生活の“終焉”を諭した(さとした)、小説“ライ麦畑で捕まえて
2016/06/04 RE-WRITE


 太平洋戦争で日本の敗戦が濃くなった時、アメリカ軍の飛行機から地上で徹底抗戦する日本軍にビラまきをした中に、”一葉落ちて、天下の秋を知る”というものが有ったそうです。
 敵で有る日本兵の力を削ぐのに、爆撃より日本人にはズンと来たそうです、静かに敗北を認めるほかないと。 

 私はニューヨークに来て早3年半を過ぎ、短大を卒業し出来るなら、この地で就職を捜していました。 アメリカでは正規の2年以上の学校を卒業すると1年間ビザがもらえます。 合法的に働け、その先のビザに繋げるチャンスでもあります。
 その他の事情として、1年ほど前にバイトを首になってから、バイトを捜せずいたため急激に、蓄えが減り始めていました。 
ニューヨークでバイト捜しは至難の業です
日本で素性の分からない外国人がそこかしこでバイトをしているのを参考にしたら玉砕ものです。
ニューヨークには日本人の不法滞在者(つまり競争相手)も”ワンサカ”います。


街のガソリンスタンドに飛び込みで、バイトの売り込みを2度程しましたが、軽く断られました。
多くの日本人がこの刺激的な街に1日でも居たいがために死ぬ気でバイトを探しています

一見、ニューヨークは世界に冠たる大都会のイメージが有りますが、そこに何年も居ついた日本人はニューヨーク村と呼んでいます。
日本人が泳げるのは”村”と呼ぶほどの狭い範囲との例えです
”ほら32番街のxxxという店で、板前やっていたxxxさん、暫く見ないと思っていたら、ナーニ今度はNYUの裏のXXXで働いているんだって!”と言った感じ。

 その頃の、自分は焦りと落ち込みと、少しばかり残った意地で”もがいて”いました。 頼みの職は見つからない、その上、短大卒でだけでは終わりたくない。
 傍ら、大学探しや、”G.M.T."を受験し、ビジネス・スクールへの進学の夢も捨ててはいませんでした、でもスコアーが足りません。 仕方なく、91年秋、市立大学のバルーク大学に入学が許可されていたので、その学校界隈をふらっとした時のことを思い出します。
 ニューヨークの冷たい初冬の風に吹かれ、自分は試されているかのようでした
 ”お前は、この先2年以上更に情熱をもって、この街でアメリカの学位のために頑張れるのか? 金は有るのか?”



 そんな時、読んでいた”THE CATCHER IN THE RAY - ライ麦畑で捕まえて”の後半の盛り上がった部分を読んでいました。 主人公の青年が、田舎の大学がつまらないとニューヨークに上京、昔の恩師に”大学をやめたい”と相談する。
その教師も同性愛の傾向があり、主人公の青年もニューヨークに来ていろいろ珍事に巻き込まれ、映画にしたらと面白いな!と言った展開の物語です。
さて、そこで恩師は諭す、
1)学校が面白い、つまらないは後になったら、取るに足らないこと
2)人間そんなに、アーしたい、こうしたいと決めてかからず、名や地位も無くも、例えば若い青年が危険な場所で”路”を失い、崖に向かい今にも落ようとしている時に、”ライ麦畑”から飛び出し、”こっちだよ!こっちだよ!”と諭す、そんな人間でもこの世に生を受けるに値する。
小説のこの部分で、私はニューヨークの自分の部屋で、大泣きしました。 止まりませんでした。
 ここぞという時に職は決まらず、経済的にもニューヨーク生活の先が見え始めてきて、にもかかわらず自分の中には現状には満足し切れないもう一人の自分が居る生活が久らく続いていました、もがいていました。

この”ライ麦畑”のオチで、自分は悟りました。
例え、アメリカのすごい学位を持ち帰れなくても、アメリカン・ドリームという勲章がなくても。
雑踏にまぎれる“帰国中年(今では帰国老人)”でも良いではないか この小説の”キャッチャー“のように、私のちょっとした一言が”路“を外した人の役に立つなら。

92年春に帰国後、暫くしてから中国交流会(正式名は忘れました)に出入りし、そこで上海出身の丁(てい)さんに出会いました。 彼はいくつものアルバイトを掛け持ちして、忙しそうでした。
彼の話の中で、彼が捨て身になって日本でアルバイトをして上海の一人娘を留学させるのが夢と語っていました。 留学先は英国にするつもりと言っていました
私は、なぜ英国か?聞くと、当時中国は英語といえば英国を“師”として仰いでいたようです。 
私はアメリカ留学の経験を丁さんに話す、世界の“英語スタンダード”は北米イングリッシュで有ることを強調しました。
 1)現に、ニューヨークでオーストラリアや英国の留学生を多く見、発音もアメリカ英語に近く、若い他の英語圏の若者すらアメリカを別格としていると感じました。 2)80年代後半のアメリカの物価は日本、英国より安く、留学生にとって経済的負担を軽減できること 3)そして何にもまして、当時外出するといつ何か起こっても不思議ではない、暴力、貧困、思いがけない優しさ、ふと見せられる寂しさ。 そんな大都会のニューヨークに身を置く、この上ない充実感。丁さんと接している短い機会に私は彼が将来、娘さんを留学させたいなら“アメリカ”であることを説きました

それから暫らくして丁さんと疎遠になりましたが、約7~8年してから偶然にテレビの1時間特番で丁さんの不法滞在と娘をアメリカ留学させ卒業させた苦労と涙の番組を見ることになりました。
家族を上海に置き、自分は仕事をいくつも掛け持ちし、検挙されることを恐れながらも娘をニューヨーク州の医学部を卒業させ医師にした番組でした

もちろん、私の意見だけで留学先をアメリカにしたと思いませんが、この時、少しは役に立ったことを知り、この上なく嬉しかったです。

人には過去を振り返って、世話になった人、もしくは“もし、あの人に会っていなかったら”という局面を何度か経験してます。
私はこの先、何年生きるか知れないが、あの小説“THE CATCHER IN THE RYE - ライ麦畑の中で捕まえて”のキャッチャーのように、若者、いや年齢に関係なく必要とあらば熱く語りたい
そして何年、何十年後、人生の交差点に私が立っていたことを思い出してくれたら私がこの世に生を受けた恩返しとなるかも知れない


では、また続きを書きます。







ゲイは同性愛者? というより・・・”自分主義”を貫く人達

2016-06-11 15:44:46 | 海外留学
中年オヤジNY留学



"ゲイ”は女々しいは偉大な誤解、彼らは単に”自分主義”な人たち、そして、そんな彼らに、モテた私。
2016/5/1 RE-WRITE

 日本人の感覚だと、”同性愛の男性”と聞くと、お姉言葉に仕草、服装から一目瞭然とか。 
違います?
私がニューヨークで遭遇した彼らの印象はまるっきり違います。

 彼らは、1)几帳面(きちょうめん) 2)TALKATIVE、 話好きとは違うけど、雄弁の方がふさわしい 3)どちらかと言うと”高学歴”です。

 1988年春、ニューヨークに来て2,3ヵ月の朝、コロンビア大学の英語学校へ行くブロードウェイ(道の名前)の116丁目界隈を歩いていると、交差点で止まった自分に50過ぎの身なりのきちんとした紳士が私に声をかけてきました。
”日本人の方かな?”
そうこう話をしているうちに、今度、私の家に遊びに来なさい、スパゲッティでも作って歓迎するよ”となりました。
私は、半端じゃなく喜びました。
男だろうか、女だろうか?初めての個人的な誘い。
アメリカのドラマの食卓を思い浮かべたり。
 そうでなくても、留学へ来る前は、日本人が留学したって、ろくに友達もつくれなく、テレビで英語を聞く辺りで終わってしまうと、留学してもムダと言う人達も数多くいました。

早速、電話番号を交換し、都合をつけて彼が仕事の帰り、車で迎えに来ることになりました。
当日、仕事上がりの彼の車に乗り込み、ニュージャジーのある彼の家へ。 ハドソン川沿いの高速を北上し、コロンビア大学の医学部をすり抜け、大きな橋(GWジョージワシントン橋)を渡り、外も暗くなっていました。

ガス・ステーションでセルフサービスで給油し、しばらく走ったと思ったら、私の左手の甲を被せるように手を握ってきました。

”ゾゾゾー・・・・・”私の背中は少し寒気を覚えました。
最初は、アメリカ人の文化をほとんどまだ知らない私は、”いや、これは一種の挨拶かも?・・・・”と、心を落ち着けようと思いました。

車は何回か右折、左折を繰り返し、少しだけ木立のある地方の住宅地に入り、本格的な2階建てではなく、屋根裏部屋のついた、やや白い塗料がくすんだ戸建ての家に停まりました。
私の悪い予感は現実となりました・・・・。
家は真っ暗
、電気はついていません。
つまり彼は、独り者・・・彼を待つ家族はいない!!!!
手握り事件と家真っ暗、明らかに彼は、”ホモ”だろうと確信

でも、後の祭り、アメリカに来て2,3ヵ月、自分がどこに居るのかも? 他に自力で帰る方法も検討がつきません。
しかも、ポケットには40ドル余り、当時の英語力では多分に自分の家にたどり着くには、心細すぎます。

当然、テーブルいっぱいの料理やスパゲッティも出てきません。
ようやく、彼が料理したのは、旧いバンズに目玉焼きをのせたサンドイッチとインスタントコーヒーがでてきました。
もう料理なんか、どうでもいい・・・・・・・行きつくとこ、最後は、お尻に〝注射”されないと帰してもらえないか?・・・・ただ、ビクビクです。
ヘタするとナイフか拳銃もってたりして?

しかし幸いしたのか?
彼はコロンビア大学の界隈で働いている素性は割れている事
彼は何度も一緒にベットに寝ることを要求してきましたが、私はイビキをかいて迷惑をかけると、逃げの一手、これを最終的に聞き入れたようです。
翌朝、彼の車で、私はコロンビア大学の近くで解放されました。



(パート2)また、ある日曜日、アメリカの文化を知らなくちゃとばかり、近くのリバーサイド・チャーチに日曜礼拝に参加。
式も終わりに近づいた時、一人の男性がやはり私の座る長いベンチシートに滑り込むように、話しかけてきました。
こんど一緒に出掛けようと、彼は瞬く間に(やり手の営業マンごとく)、二人の都合をアレンジし、約束の日の午後1時に電話をかけてくることになりました。
彼が、電話をかけてきた時間は12時59分です、“いわゆるアメリカ時間”――1分たりとも遅れることなく、しかも大幅に早くもNG”。
少しづつ、アメリカ人のホモの実像が見えてきました。

(パート3) また別の話です・・ある晴れた日、ワシントン広場の木製のベンチのやや端に座っていると、同じベンチに距離をおいて座った男性が話しかけてきました。 
しばらく二人で雑談を繰り返しました。
暫くして彼が”実はこの公園の裏手に、クラブが有るけど一緒に行かないか?と切り出してきました。
彼は、ルックスはまあまあ、大学修士卒(MASTER-DEGREE)、話も流暢。
私は、留学当初、男性から、この手の誘いを経験し少し怖い思いもしたので・・・
”今度、気が向いたら、自分一人で行って見るから”とかわしました。
彼曰く、”何の看板も出てなく、一人で探すのは、ちょっと難しけどなー、残念だなー・・・・”
ニューヨークのSOHO地区には、こんな隠れゲイ・バーから路面からも見え見えのバーなどたくさんあります。


 他にも、私の英語のボランティアのツーター(個人的な先生)の家に行った時も、バスルームの棚に歯ブラシ、小物がレストランのテーブルセットのように、順序良く並ばれていました。
おまけに、バスルームのドアは換気のために約30センチ開放しておくこと。 これは自分の何十年ものルーティン(生活ルール)だそうです。
私がブロッコリーを茹でて料理したら、僕は”STEAM(蒸して調理)が良かったと”愚痴”られました。
彼も男性愛好者の一人だったと思います。
彼も、自分(私)さえ良かったら、男と女の関係ならぬ、男と男の関係になりたがっているのが見えていました。

 多くの人が憧れる大国、アメリカ。
そのアメリカ人も、一歩踏み込んで打ち解けると、強風に窓を開けたかのように、”淋しさ”、”人恋しさ”、時には彼らの”悩み、不安”が私には吹き込んで来たことが、何度もあります
・美容室のお客さんでしたが、会社で今、仲間がどんどん解雇されいる”不安で心が落ち着かない”と打ち明けられたことも・・・
・YMCAは通常、短期滞在、そこに住む女性の部屋を訪れたことがあります。
彼女はブルーで部屋を統一しデコレート、カーテンも小物入れも。 ここに住むこと4か月になるそうです。
言葉では”綺麗”とかえしました。 しかし私は何か”淋しさとか、この大国での流れ流れ人生”に逆にアメリカの厳しさを知りました


話を戻します。
 男性の多くが経験している”つかみどころの無い女性の”気ままな感情に”付き合う、時には、人知れぬ時間と辛抱強さ、そして”お金“が・・・・
男の感性の中には、この世の事象は概ね”法則“があり”ルール“に基づけば理解でき、攻略できるはず、ところが女性となると、そうはいかない。
ゲイの男性のように秩序立てられた彼らのルールと妥協せず付き合うのは、女性より可能性としては男性の方が候補になるのか?と、私は思います。

男性にしたら女性特有の”私を幸せにして!”だの、幅ひろいゾーンの願えを叶えるのは難しいことです。
更に、アメリカ人は日本人よりも男女を問わず、一人一人の独自の強いルールが有と思います。
そして、その独自のルールが相手(異性,同性を問わず)に受け入れられるより、必然的に距離を作ること、それでもなお自分を捨てられない事を知っている
つまり日本人特有の一歩下がって、相手に合わせる事ができない(個人的に、これが美徳とは言いませんが)。

(最後にもう一幕) ある日、私が入店したNYのスーパーでカップルがスパゲッティの乾麺(日本で言えば、ママーブランドとかの)を選んでいました。 男性はアメリカ人、女性は明らかに日本人、女性はどのブランドにするか迷っている・・・男性は一歩距離を置いて黙って、女性の行動を目で追っている
女性はパッケージを見て選んでいる。
一方、男性は彼女に買わせたい、ブランドを心に決めている。

ついにシビレを切らした男性が口を開く、”私のお婆ちゃんは、XXXXXX が好きだった。”

憧れだけで、特に日本女性がアメリカ人との国際結婚、特にアメリカの地でするには、良く良く考えて。
例えば日本人がパートナーのアメリカ人特有の経済観念、自分主義にぶつかる可能性が有ります。

同じ結婚でも日本人の男性が結婚すると、白旗を上げて、財布を奥さんに投げ出すのとは分けが違います。


また続きます