中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

アメリカは偉大なり・・・せめてもの自由が育む場所:アメリカ

2023-02-03 11:12:33 | オヤジ留学
アメリカは偉大なり・・・せめてもの自由が育む場所:アメリカ
― そして自由な表現より、INCENTIVEに群がるどこかの国 ―

2023/2/3 投稿
 アメリカ留学時、ビジネス系の大学院を目指すにはGMATテストのスコアーが必要で、受験した時の試験問題に感じた「アメリカの印象」です。 GMAT試験はアメリカのビジネス系大学院入学の書類選考にも採用され、内容は長文読解やロジック(数学的論理解析)などです。 

(試験問題で公然と過去の英雄にネガティブな記述、まさに驚き!)
その受験時に長文読解で”CIVIL WAR(南北戦争)“勃発時のリンカーン(後の大統領)の評価が出題されていました、長々とリンカーンの功罪が書かれています。 
歴代の大統領の中でも誰もが一目置くにも関わらず、試験本文は彼の功績を褒めたたえるというより 1)彼は新聞などの報道機関をあらゆる手法、時にはずる賢く道具として使い、人民を引き寄せ、指導者としての地位を築き 2)彼を一躍ヒーローとして有名な奴隷解放宣言に至る奴隷の扱いも、当初は”あいまいな対応“だったとか。

 私は試験問題に一心不乱に向かわなければいけないのに、頭の中は「何という国かアメリカは? こんな事も試験問題に書けてしまうのか?」という驚きが占領していました。
 リンカーンと言えば、日本の近世史での名を馳せた伊藤博文や坂本龍馬と列せられる著名人を、公然とGMATほどの試験問題の”まな板“に乗せて彼らの功罪を論じるに等しい。 (私の頭の中では)日本ではありえない、アメリカは何という国なんだ! 驚きであった。
 日本では、こういった政治ネタを人前で話す、ましてや試験問題とするなど“ハバカレル(抑える)ところだが”。

(この先、日本に住む若い人に願う、自分の思う事をもう少しでもアメリカのように広く発言できるような国造りを願うが・・・)
 振り返ってみると、たぶん日本は幕藩体制崩壊後と第二次大戦敗戦の次の社会への転換が中途半端だったのかもしれない。 今さらIF(もしもあの時~だったら)という設定は余り意味がないだろが。 日本はこの先、50年、100年先には外国人(もしくは彼らの子や孫そして累累)が増え新しい文化を形成していくだろう。 日本が将来、多くの外国のルーツをもつ人々の割合が増えれば、表現も自由に新しい国になるの可能性も・・・。



 また隣の国の韓国に目を向ければ、私達が若い年代の時の、韓国を思い浮かべると先代の朴大統領の強権政治で、さぞかし韓国民の精神的自由は奪われているのだろうな?と同情していました。 ところが意外にも数十年も経ってみると、歴代の退任大統領を過去の犯罪をとりあげ「死刑」判決にしたり、在任中の政権運営が悪いと簡単に、大統領の椅子から引きずり降ろされたりする。 この自由度、流動性は日本にも少しあっても良いのでは。
 韓国に対して常に「兄貴気取り」をしてきたが、北欧に戦車・戦闘機輸出のニュースは驚きだった、韓国の政治・経済の流動性は日本を既に凌駕しているかもしれない

(そして日本は今、自由な表現ができるより、お金に換算できるものなら、それを取り込もうとする傾向に世の中は傾き、それに従いつつある・・・)
 コロナが隆盛であれば政府等から休業補償、子供を産めば・育てれば補助。
以前より、政府の資料を見て医療介護事業・保育所等幼児関係への財政援助が見られたが、サービス飲食は無縁だったが、今回のコロナで殆ど多くの業態が政府などの保護下に入った。 日本は資本主義国家というより、自力本願の国だと思ったが、“泣く子は・・・・”ではないが、声が大きければ、国民はそれなりに効き目があることが分かってきた。

 例えば政府の利権や縁故関係の一部に”不公平“と叫ぶより、多くの人達は自分に少しでも”INCENTIVE(奨励金)ついて回わる事により関心を持ち始めた、だがそれで良いのだろうか? もっと大事なものが、この世にはあるような気がするが。
政府は少し「おまけ政治:補助金乱発」に調子に乗り、国民はまた受け取ることに麻痺しすぎてはいないだろうか?
 嘗て(かつて:ひと昔前)「武士は食わねど高楊枝 ;落ちぶれて食うに困っていても、自分の尊厳を守るために、敢て他人の恩情を固辞すること」が美徳という時代もあった。 そう言えば、私の祖父も兄も、久々の再会の寒空の別れ際に、車で送ろうとしても聞き入れず(他人の助けを借りず)、夜道に徒歩で溶け込んで行ったのを覚えている

 「人の話を聞きすぎて」の”INCENTIVE乱舞で、国の借金が溜まりに溜またり積み木崩しのように、何時か崩れる責任は誰が取るのだろうか?

それでは、また別の投稿で・・・。


米国クリスマス、山のごちそうテーブル、時にはドラマの世界

2022-12-21 07:46:15 | オヤジ留学
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米国クリスマス、山のごちそうテーブル、時にはドラマの世界

アメリカ人の食に対する執着心の無さは、むしろ強さか
2016/7/2投稿 2022/12/21編集

これでもクリスマス・パーティー?私の偉大なる勘違い ニューヨークに留学してほぼ一年も経つ年の暮れ、自分が住んでいるI-HOUSE(コロンビア大学近くの大きな学生専用の寮)の掲示板に、クリスマス・パーティーへの誘いの貼紙を見て、参加を決めました。
まだ留学一年ですから素人です
あたかも暇を持て余した盆暮れに格安ツアーをゲットした感じです。
頭の中には手作りだろうが?何だろうが?ケーキがあって、チキンにかぶりつきコーラなんか飲む姿を想像していました。
甘かったです。


↑ コロンビア大学

 ホスト・ファミリーの住む駅もブロンクスの#1地下鉄終点近くで、駅を降りた途端あのやかましい金太鼓がなっているようなヒスパニック系の人間が、うようよいる感じで、ちょつとヤバイ! テレビ“(世界の)こんなところに日本人の世界“
何時(いつ)ひったくりに遭っても、おかしくない空気
 行くとき少し良かったのは、寮の仲間と一緒だったので、助かりました。 また、この地域の”柄”の悪さを知っている仲間がいたので、少しは安心。
 
ホスト・ファミリーの家に着くと、アメリカ的挨拶で歓迎。 しかし、メンバーが全て揃っていないこともありましたが、例のパーティーらしきテーブルも、食べ物も見当たりません。 何だろ、何だろ準備してないの?”といった感じです。
他のゲストも何人かで五月雨的(さみだれてき)に来るので、なかなかパーティーが始まりません。 その間、参加者はフロアの上で直接腰を下ろし(椅子は圧倒的にたりませんから)、まるで学校遠足で先生の指示待ちのように床に“三角座り”。

 何が始まると思いきや?歌の練習そして、やっと始まったのが、食事ではなく、歌の練習です。 渡された紙には、あのジングルベルの歌やら、ノエル、ホワイトクリスマスしめて7,8曲。 30~40分は練習させられました。 アメリカ人のクリスマスを見れるとばかり好奇心で参加したけど、内心お腹はすくし、えらい所に来てしまったと反省。
 それから、”いざ出陣”。 ニューヨークの12月末、日没、表はとても寒いです
にわか救世軍のごとくホストの言うままに街の辻辻(つじつじ)で歌のオンパレード。 
もちろん、それを聞いた街の人たちは窓を開け、サンキューコール、一応場所はアメリカですから、それくらいの礼儀は。
冬の夜、寒空、街頭で合唱すること1時間半以上、 飢えと寒さ、堪(こた)えます。
 仲間のアフリカ人の留学生も、私と同じ気持ちで意を決して”敵前逃亡ならぬ、”もう、ここで帰る”とホストへ直訴(じきそ)。
しかし何で、もう食事だからと言うことで却下

 部屋に戻り、いざパーティー。 出てきたのは、大きなヅンドー(レストランでみるステンレス製の縦長の鍋)。 トマト味の、ミネストローネに似た少し濃いめのスープのみ。
後でインターネットで調べたころ、この料理はアメリカ南部で定番の家庭料理”ガンボ“と分かりました。
 それにライスを沈めて食べると言ったシンプルな食事、雑炊のような。
味は美味しかったです。
でも日本で馴染みのケーキもチキンもサイドメニューは全く出てきませんでした。


↑ ガンボの参考写真(料理レシピより)

(アメリカのパーティー事情)その後、約4年の留学生活から分かってきたのは、アメリカのパーティーでは一般に東洋系のホストの主催の場合、食べ物は豊富。
アメリカ系の人の場合、ボトルワイン(安物)にピーナッツかアーモンドのツマミだけの場合もあります。
食べるのではなく、”自分を語る”そして“相手の数奇な生き方、人生そのもの”がツマミとも言えそうです? 
話題に、”イチロー“も”田中“も”トヨタ“も”天皇制“も必要ありません。

ですから日頃から、会話の中で相手に自分自身を興味深く印象つける心の中の自分自身の履歴書”の準備が必要です。
アメリカでは新聞、テレビの情報を鵜のみにした事を、授業やパーティーで披露するのは歓迎されません。

(お腹の空く人は、お菓子持参を進めます)
ですから、アメリカ人の友達を普段、訪ねていっても日本人のように来客のためにケーキやお菓子を事前に買って待っているようなことは(ほとんど)ありません。
テーブル一杯の食事や飲み物でお迎えは映画やドラマの世界で、特別な季節行事でもない限り、アメリカ人は買い物や準備をして待っているようなことはありません。
ですから、日本人のように、何か食べて会話したい場合は持参が良いですね。 アメリカ人の場合、家に食べ物を用意していなかったからと言って、外にお茶を飲みに行くことはしません
当時日本人の私でさえ日本では豆をひいたコーヒーを飲んでいましたが、アメリカのお宅の大部分は”インスタント“でもてなしをうけました。
これは少しビックリしました、コーヒーってアメリカが本場じゃないの?と。

 私は3年目には、韓国人、アメリカ人の3人で一部屋のコンドをシェアしていましたが、時にはアメリカ人のルームメイトは夕飯にただの食パンにピーナツバターで過ごしていました。 日本人や中国人なら、当然買い物ですよね。

 経済性も含めて、食に対して執着性が強いのは、やはり中国人かな? 何しろキッチンに立っているというか、独占していると言うか時間が長いのは彼らです。

また、昼は私はピザが好きだったんですが、当時(90年頃)1スライス(1/8切れ)1ドル25セント、そしてペプシコーラ75セント。
ピザ屋で見かけるほかの体のでかいアメリカ人、余り2スライス注文する人少ない感じです? 

(まとめ)自分の印象では、アメリカ人は食に対する執着は薄い。 ただ食べさせたら半端ではない。 あたかもライオンが獲物が捕れないときは空腹を何日も我慢でき、いざ食べるときはガバットと牛一頭とか(冗談です)。
この切り替えは、日本人も見習うべきかも?

日本人や中国人が料理に恐ろしいほど、材料探しを含め時間、労力、お金をかけるのには他の文化の人からは、どう思われるのでしょうか?

だから勉強や仕事への集中力は日本人よりあるかもしれない

また日本人が人をもてなすのに、物や食べ物が頭から離れないが、時には過度の接待は見直しても良いのでは?
また、続き書きます



バブルと旅行ブームが街(NYC)を破壊する

2020-08-12 06:32:20 | オヤジ留学
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バブルと旅行ブームが街(NYC)を破壊する 2016/9/7 投稿

ニューヨークの変わりよう
 ニューヨークがつまらなくなった。
90年初頭、気の抜けない街の緊張感、ホームレスと共生する街。
落書き、ゴミの散乱、物乞いの地下鉄。
それら全てネガティブな事も当時のニューヨークの魅力の一つだった。

そして今、例えるなら上等な肉を料理する前に水洗いし、何か間の抜けた味になったと言おうか、ニューヨークが変貌しました、何か?・・・以前より物足り無い。
私の知っている、もしくは好きだった時代は、映画”タクシー・ドライバー(ロバート・デニーロ主演)“のニューヨーク子が、大人でもチョロットと”泣き“を入れるところ物騒な街だろうが、それでも皆が生きている強さに喝采といった、正に”LIFE GOES ON”の街。

童話、浦島太郎のように私には時間が変貌すると、馴染(なじみ)知った土地でも自分に語り掛けてくる過去の記憶との開きに驚かされた経験はありませんでした。
 私は2013年9月、20数年振りにニューヨークを訪れました。 その間のサラリーマン時代は長期休暇は取れませんでした、今回は何時か行かねばの”夢“をかなえる旅でした。

ニューヨークの目ぼしき道々のコーナーは日本でもお馴染の“STARBUCKS COFFEE”で占領され、夜間やけに灯りを”コウコウ“と照らしひと際目立っているのは何か?と思いきや”APPLE STORE”。
マンハッタンのWESTのクルーズ船の発着桟橋近く、昔は倉庫街で暗くなると、とても物騒なところでしたが、再開発されて目新しいマンション群(COND)が乱立、有難い事に(若干皮肉を込めて)警察署を付近に従え、警察官やパトカーがヤケに目立ち、安全なエリアに変貌



(快適で安全、高価なニューヨークは如何―いかが?)
街のそこらに居たホームレス達は何処へ?
地下鉄に乗れば、必ず車両を移動しながら、ホームレス達は時には自己紹介し金を要求したものだ、だから昔は、地下鉄がホームに入ってくると、特に夜間は乗客は混んだ車両を目がけて乗り込みました。 とりわけ深夜は、多くの乗客は目を半目にし、夜は特に威圧的なホームレスと視線を合わせず反らしたものだった(寝たふり)。
また場末のレストランやマクドナルドでは昼夜かまわず、ホームレスが店に入り込み、紙コップを片手に小銭を要求したものだ。
一種の恐喝に近い、知らんぷりしてやり過ごす、店員らはもめ事を避け彼らを店外へ追い出すこともしなかった。 
多くのニューヨーカーは否応なしにこれらの犯罪とすれすれの“ストレス”と闘ってきた

現在、HOTEL価格の常識外れの高騰、おいしい個人レストランの衰退、味の分からない中国人経営による焼肉屋、お買い得品のなくなった“MODELERS(スポーツ関連チェーン)。

街を歩けば、五番街だろうが、NYU(ニューヨーク大学)近くだろうが、観光客で溢れ、特に東欧、南アメリカからの旅行者が多い感じがするが、多分東南アジアを含めた世界中。

(勝ち馬に乗らなければ、勝ち馬に乗りたい!)
さて目を日本に向けても浅草や京都が外国人旅行者に占領されて、街が旅行者とお金の濁流に巻き込まれ、忙しさの余り地元のサービス業が理性を失いつつあるに似ている。
中には日本人客より会話して面白い外国人客を優先している店も(気持ちは分かるが)。

そして外食産業の、価格の値上げと、それをカモフラージュするためのメニューのいじり方が一度や二度どころではなく“半端ではない”。
大手外食チェーンでさえ、当分“強気でいける”とばかり自分の羅針盤を見失っている。

ランチタイムでもセットメニューに目が行けば1200~1500円? 何か無理やり一品付けて、高いものを食べさせられる感じだ。

(失業・貧困と札束の乱舞の共存)
私の好きな小説“SISTER CARRIE(キャリー)” (BY THEODORE DREISER 1900年作品)の美しい年若き女性主人公はシカゴの町工場の低賃金の職さえ、ちょっとした病気で休んだ事をキッカケにクビに“。
一方物語の舞台、シカゴの高級クラブ(FITZGERALD)では夜な夜な富裕層による宴が繰り広げられる。
作者はその小説の中で年若きボーイに“(贅を尽くす金持ちが)とてつもない高級ボトル(酒)を開ける宴、普通の酒でも十分なのに、散財することがそれ程の意味の有ることなのか?”と懐疑的なセリフを吐かせている
その後キャリーとクラブ支配人はニューヨークへ恋の逃避行、彼女は下積みから人気ショーダンサーの道を駆け上がる。
一方、男性主人公は羽振りの良かったこのクラブの支配人から転落人生、最後にはニューヨークでホームレスへと身を落とし男としては哀愁を感じさせる悲しい結末となる

個人も、国の盛衰も“平家物語”を師と仰がなければいけないと思う。
“おごれる人も久しからず”・・・人も国も浮き沈みがある、調子に乗らず時には冬の時代も受け入れる覚悟が必要だ。
日銀、政府とも現状、今回の日本のバブルは世界水準で無いとの読みは正しい。
ただ、これをして日本の経済成長力、耐久力の余力として温存ないし、ブレーキをこまめにかけ性急にしてはいけない。
インフレ助長に年金を大量に株式などへ投入するのは考えものです。
また今回の経済政策に失敗すれば、中高年層を含む中間層、同じく非正規などのマイノリティに“つけ”が回るだろう。

(全てを欲しがるな、そして相手・状況に合わせ過ぎるな!)
一時流行した、”お・も・て・な・し“と言うフレーズ、しかし度が過ぎると役に立たない事がある。 人(客)は時にサービス提供側が相当無理している事を理解していない
そしてビジネスはピークに合わせてはいけない。 ピークを越える客が来たら“低調にお断り”したらいい。  いわゆる”客を切る(断る)“はプロの分別だ。 燃え上った市場を取り込むために、支店や新規増築、企業の拡大、時にはギャンブルと化す。 景気下降では同じ業態であれば、市場のなかでは身内同士の支店がライバル化する。

インバウンドで内需押し上げ、現在でも相当キテイルと思われるのに、政府は“もっと”と言うことらしい。 とりわけ有名な観光地でもない、日本の普通の街中をリーダーと思われる外国人が印刷物を片手にグループを引き連れて徘徊、こんな事は何時まで続くだろうか? 

日本はアメリカのように国土が広く、観光資源の絶対量が多いわけではない。
いずれ壁にぶち当たるが、その前にお金の為とは言えキャパ(能力)を超えて外国人旅行者の取り込みに焦るのは、どうか?




ニューヨークも京都も大挙して押し寄せる旅行者で、街の文化を失ってほしくない

この旅行ブームがEASY COME, EASY GO – “楽して得たものは、失いやすい”にならぬように。

(続きます)

“私の追憶、そして彼女から知った日本人は欧米人との子を産みたがる”

2019-11-02 12:35:05 | オヤジ留学
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私の追憶、そして彼女から知った日本人は欧米人との子を産みたがる
2016/7/9 編集

再会美保、彼女と再会したのはコロンビア大学の正面、ブロードウェーに面した当時の学生は誰でも行く中規模のスーパーマーケット、名前は忘れました、ただそこのショッピングバックはベージュ色です。
私も彼女も、2年前は同じコロンビアの英語学校の生徒でした。
その当時は彼女とはクラスも違い、いつも彼女は数人の日本人と学内を移動しているのは目に焼き付いていました。
気の強そうな顔立ちから、その当時とりわけ話をしたことはありませんでした。

それが、コロンビア大学前のスーパーで数年ぶりに会うとは思いませんでした。
入口近くで、“まだ居たんだ(日本に帰ってなかったんだ)?”と彼女の方から声をかけてきました。 私も内心ビックリ。 勿論いつも従えていた兵隊さんも無く、アメリカに来て2年以上の歳月は、彼女を“丸く”しているかのようでした
それから私たちは、一緒に遊ぶようになりました。
美保の部屋と私の部屋はB-WAYを徒歩5分でした。

夜、どちらかということもなく電話で呼び出して、コロンビア大学そばの、これまた誰もが知るギリシャ・レストランで良くお茶を飲みました。
このニューヨークで飾らないで会えて話ができる友達がそばに居る、居心地の良さは今でも憶えています。彼女は私の東京下町訛りに彼女のお父さんを重ねて懐かしがっていました。

それから、何度も行ったことのある博物館とかを改めて二人で行ったりとか、地下鉄に乗って、コニーアイランドへ行ったりとか、メグライアンとトムハンクスならぬ夜のエンパイアに登ったり、その当時のエンパイアは今、観光客であふれる場所とは違い“のんびり”していました。・・・・。




(彼女はどうしたい?)
そうこうするうちに、私は彼女が自分の彼女になれるのか試したくなり何度か、”キス“を試みましたが、スルッと彼女に首を回わされ-------- バント空振り。
またある日は、彼女の部屋へ“お出でよ”と連絡があり行きました。
別に何もすることがなく、彼女はベッドの上に身を放り出し、チョコチョコとバウンドしています。
当然、誘っているのかな?と、すり寄っていくと、又もやかわされ、ついには面倒くさくなり、どうでも良くなりました。

そう言えば,かつて付き合っていた外人の話や、欧米系の外人と日本人との間に生まれる子は可愛いと幾多のケースを聞かされたこともありました。
良く良く考えると、彼女がふと話す中に、彼女自身もハーフの子をもつ願望をほのかに持っているように思えました。

ニューヨークに居ればそれなりに淋しい。
そして、時おり私のことを“○○さんて、優しいから・・・・・・”と言うこともありました。 安心して付き合える友達が必要なのは、私も彼女もお互い様です。

しかし、このニューヨークでは普通で終わりたくない
自分を変えるにしても、年齢からして、いきなり医者になったり、ビジネスを成功させるわけにもいきません。
漠然と上を目指すことがかなわなくとも妊娠して、しかも子供がハーフなら中途半端な自分(彼女)は後ろを振り返らず、この地(NY)で生きていけるかもしれない
欧米系のハーフを産む、これは日本人女子にとって一つの”花“であり”道“かもしれません

(ニューヨークは不思議な街)
この街は不可思議な所です、いつも日本に帰る当日、家なりホテルなりから旅行ケースを道路に滑らせた瞬間、“なぜか後ろ髪を引かれる”、この街から離れることの淋しさがドット沸き上がります。
犯罪も頻繁に起こるのに。
特別、優しくされた事も無いのに、何故?(なぜ)。
日本では現在、若きも老いも年金が足りるのか?将来ホームレスになる?話題の中心。
でもNYでは万一、最低限のアルバイトを確保され、何とかやっていけるなら、いくらでも(長く)この街に留まっていたい。

美保は、何かのめぐり合わせでダウンタウンのP大学の日本語教師に滑り込んでいました。
そんな彼女も、大学の日本語クラスの授業に私を招いてくれて、彼女の講師らしさを見たり、生徒の前で私も友達デビューしました。
彼女なりに自分自身に何か問いかけていたのでしょう、努力はしてくれていたのです

一方、自分は金にならないアルバイト、永住権も無い。 仕方なくコロンビア界隈から離れること1時間余、家賃の安いクイーンズに引っ越ししました。 その後、職のアンバランスと住まいが離れたことで彼女との交際は自然消滅した感じです。

私はどういう訳か悲しい映画が好きです。
その中でも、ロバート・レッドフォードとバーバラ・ストライザントの”追憶(THE WAY WE WERE)”
男女二人が勢いで結婚したものの、時とともに二人の路の違いが、それを取り戻そうと“もがく、苦しむ。 そして離別。
美保と私の場合は、そんな大げさなものではありませんが、でも私にとって小さな“THE WAY WE WERE”です。

彼女が身軽に、仮にもハーフの子を産むカードを温存していれば、このニューヨークでは時には力になるでしょう。 それでよかった。

一時期ですが楽しかった。 本来、人が生きていくのは大変なこと。小説”グレイト・ギャッビー“のように、人は一瞬は他人の不幸に立ち止まるが、次の瞬間、我に返り激流に人は一心不乱に自分の舵をとらなければならない
甘酸っぱい思い出ですが、全てが懐かしい。
 
また、続きをかきます。

“たかが家、されど家” 留学から知る、自分の住みか

2019-05-04 21:38:15 | オヤジ留学
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たかが家、されど家” 留学から知る、大切な自分の住みか
2019/5/4 再編集

 1992年3月25日、自分の4年と少しのニューヨーク留学生活に区切りをつけました。
クイーンズ、エルムハーストの路肩に雪の残るアパートを引き払い、帰国しました。
もちろん寂しさとか残念とかの思いはありますが、 いつまでも開かない門の前で(職も見つからず)待つこともできませんでした。

(わが部屋は健在なり!)
日本に帰って、今でも忘れないことがあります。 私は無駄にも4年間以上も誰も住まない部屋の家賃を払い続けていました。 でも後悔はあまりありませんでした (そんな話をしたら、友達はみんなバカヤローと言っていました) その当時、月の家賃が4万円前後つまり年間50万円、4年超で200万円は無駄に払ってます。 1)理由として、留学前はアメリカの物価は日本よりも高いと思っていました(現在,アメリカはバブル状態で、物価は逆転していますから間違えないで!)、結果、4年以上も居られると思っていませんでした。
2)私は、”ビビリ屋“なので、日本を留守にしている間、バブルで家賃が倍近くに高騰すると思っていました(実際は、僅かな上昇に留まったらしい)。
そのため、帰国した際の、住まいをキープして置きたかったのです。
3)他にも子供の学費の送金もあり、私の留学には別の意味でお金がかかっています。 そのためN.Y.から国際電話で”虎の子”の小規模共済金(退職金積立)の解約、株式の売却、ANA、小松製作所、その他、色々やりました。


部屋の話に戻ります、4年の間、途中2度、用事があり帰国しましたが、部屋にダメージ(変化)は有りませんでした。 しかし今度ばかりは様子が違います。
4年間、夏も冬も鍵を掛け閉め切ったせいか、壁紙の何か所が大きく壁の隅から”京都八つ橋“のシェープで垂れ下がっています。
西向きの部屋のカーテンは数年に及ぶ熱と光のため“炭化”し、繊維がほつれる状態です。

しかし概ね“西部戦線(私の部屋は)、異常なし”です




(朝のトイレ戦争からの解放)
日本の自分の部屋に帰って、一つだけ自分がうれしかったのは、”好きな時にトイレにいけることでした”。
また付け加えるなら、”自分の前の廊下を歩くルームメイトの足音を気にしなくて良いこと”。 自分の家族でないだけに、落ち着かないですね。 他の人の存在自体が、見えない形のプレッシャーになったりして。
 
自分の部屋、帰国前は予想だにしていなかった解放感―“ホットとできるというのが一番近い言葉かな?

まだ以前にも話した、インターナショナル・ハウスという学生寮はトイレもシャワーも共同でしたが、それ程ストレスは感じませんでした。 皆さん知ってます? 寮とかYMCAでは隣のトイレの人間の足が見える状態で用事をたさなければいけないのを - アメリカの防犯上でしょうね?

ただアパートをシェアーした場合は違います、更にタフ(厳しい)です。 どうしても、バスルーム(トイレ・シャワー)は使用するタイミングがぶつかるんですよね。 ですから自分は遠慮して他の人より一時間位早く起き、済ませて学校へ行っていました。
ちょっとストレスですね
冬の朝なんて、暗さが違います。

人間って面倒くさい生き物です。 寂しければ、自分から友を求め外に出向き、家に居ては他の人間の存在が”ウザイ(邪魔)”。
キッチンだって同じことです、ほかの人間が台所を占領していたら、料理する匂いが臭いだの、時間が長いの落ち着きません。
そこでルームメイトの韓国人が両親を国から呼び寄せ一月以上もいた時は、疲れました。 3人でも(他にアメリカ人1人)多いのに、それに韓国人の親2人加わり私は益々、落ち着いた気持ちがなかったです。

日本に帰り,この原始的な部分(トイレとか、他人とかの気配)が満足されれば、もちろん若干は日が入るとか、雨風をしのげることも必要ですが、住む所は立派すぎる必要はないと感じました。

(新築マンションの購入、日本の風習―大丈夫?) 
昨今、世間では結婚、もしくは子供でもできようなら、迷いもなく、お決まりのように5~6000万のマンションを買っていますが、大丈夫でしょうか?
よく例えで、家は一度や二度、建てた位では満足する家は建てられないと言いますが、マンションだって一度や二度住み替えても、何年か?すると不満が出てきます
5,6000万、しかもローン30~35年といったら、自分の命と引き換えみたいものです
しかも日本の離婚割合も4分の一前後と聞きます。
新築5~6000万の買物は、山あり谷ありの人間の短い人生で採算合うのでしょうか?

(ある公証役場で)
 私は身内の経験から、話は飛躍するのですが遺言書は心身ともに健康な時に作らなければと知りました。
そこで公証役場に出向いたのですが、その時、何組ものグループが公証役場の事務所で公正証書の原稿を当事者間で読み合わせていました。
自分の前方は3~40代の男女、一応、席は間隔を置いているのですが、先生(公証人)の声は小さくても、自然に私の耳に届きます。
どうやら離婚の協議のようです。
それによると男性(ご主人)は現在住んでいるマンションを退去し奥さんに引き渡し、尚且つ引き続きローンの返済すること。 給料から子供の養育費を自動支払いさせること、更に夫は妻へは転職、引っ越しの報告義務、あたかも執行猶予もどきの犯罪者のよう

夫の権利はかろうじて子供への面会権のみ。
彼にとって経済的にも精神的にもこれから数十年も“ガンジガラメ”。
これが現在の離婚の相場なのでしょう。

分かります、このご主人が奥さんの言いなりに書類に判(サイン)を押そうとしているの。
私も経験しています。
その場(ゴタゴタした修復不能の夫婦関係)から早く縁を切りたいがために、後先の弁済能力ことは考えず高値で設定(相手の言いなり)の場合も。

人間、マンションを買うのも、離婚しようとする時も概して、人生のほぼ絶頂期
人間ちやほやされる時期がいかに短いかも、トップ・スピードで走れるのもこの先10年あるかないかも?
基本的に人生は“本格的には、やり直しが効かない(新卒のようにはいかない事)”。

若い当事者は、全て分かってはいません

(この世は、行きつくところ常に、過ぎたるは及ばざるがごとし・・)
 定年、もしくはその延長でやっとローンを返済できる、これでは最初から勝負に例えたら負けてはいないでしょうか
ローン返済の最中に、病気も転職、夫婦の不仲も、長期ローンには織り込まれていません。
他にもローン債務者は借金による“ストレス”は休むことを知りません。

奥さんや彼女に喜んでもらいたいがために無理をせず、”ヤドカリ“のように余裕があれば少し上の住まいに住み替える、どうでしょうか?
人を呼びたい、見せたい、トレンドに乗りたいは、ひとまず置いといて。

私がアメリカから帰って来た時に感じた、誰にも気兼ねなく好きな時に、トイレを使えるこれだけでも立派な住みかです。

(つづきます)

“消滅しつつあるNYのスモール・ビジネスと“寂しさ”

2016-07-19 11:49:10 | オヤジ留学
オヤジNY留学



消滅しつつあるNYのスモール・ビジネスと“寂しさ
2016/7/19 記

 私、22年ぶりに訪れてみました。 NYは自分を再度人生の焼き入れ(刀に例え)してくれた場所です。
感謝です !
4年と少し居たうち2年半はコロンビア大学の近くのグラント将軍のお墓のそばの寮にいました。 人の好みもあると思いますが、留学生には最高の環境だと思います。
 その近くで、ブロードウェイの通りの角近くにピザ屋さんがありました。 美味しかったです。
 また、どちらかというと、少しだけ柄の悪い子供たちがギャーギャーやっている辺りと、比較的品の良いコロンビアの学生とか、ご近所の方の店への出入りで、街の雰囲気を引き締めている感じの緩衝(かんしょう)地帯です。

ニューヨーク特有の壁に寄りかかり、街ゆく人達を眺め、新参者に時には冷やかす“SPEAK ENGLISH(喋れるものなら、英語話してみろ!)”。歩道には悪ガキが両足で空き瓶の頭を挟み、空中に高く上げ、道路に激突させ粉々に割る遊びをゲーム感覚でやります、割れれば路上にはガラスの破片が散乱。
歩きづらい“やってくれたな!”です。





(あのピザ屋さんは?) NYとの再会として以前の宿舎を訪ねた足の帰り、そのピザ屋さんのそばのバス停で、メトロポリタン美術館行きのバスを待っていると、バスはなかなか来ません。
 ついバス停のベンチに座っているご婦人に、”角にあるピザ屋さんは、もうお店はやっていないのですか?”と聞くと、4,5年前に閉めたそうです。 彼女も美味しい良いレストランだったと寂しがっていました。

そういえば、その先にあったチャイニーズ・レストランも重いシャッターを下ろしっぱなしになっていました。 そこも留学中は、金のない私はお世話になりました。 学校の帰り夜中10時頃、スープ(酸辛湯)とご飯だけを注文すると、それだけか?オカズは要らないのか?しつこく聞くので、少し嫌でしたが。

そして、実は私、ニューヨークで学生の傍ら少し期間、美容室でアルバイトをしていたのですが、その場所も訪れてみました。 行く前に想像はしていましたが、既に店はなく、
ほかの業種の倉庫同然の感じです。

当時の日本人のお客さんは、この店を中継地点にして用事もないのに、よく立ち寄りました。
もしも私がオーナーだったら嬉しい事です。
この遠く離れた異国の地で、“渡り鳥”のように、この美容室で髪を切らずとも立ち寄り、小話をしていく、分かりますその気持ち。
特に、和食の板前の桜井さん、よく差し入れをしてくれました。 遠くの日本のパン屋さんまで人を喜ばせようと買い出しに行って持参するカレーパン。
ニューヨークで食べる、日本のカレーパン、ケーキにも勝る、涙ものです

(カルソン・マックレヤーのNYカフェ)
話は、少しそれますけど、私はカルソン・マックレヤーの” THE HEART IS A LONELY HUNTER(日本名?)"という小説が大好きです。
アメリカ南部の田舎町で”NYカフェ”24時間営業のレストランを舞台に多種多様な人間が出入り。 
小説の後半、オーナーは言う”別に金の為に、四六時中店を開けている訳ではない、そりゃ深夜に“まぐれ”で客が入ることもあるが、ほとんど深夜から朝にかけては、たかが知れている。
 でも、この町にわずかにあるほかの店が灯りを消したあと、せめてここだけでも灯りをともし続け、ここを拠り所する人達の"ほっとする場所”として残しておきたい。
私は、この下りでまたまた、泣けました。

(こんな店を持つ、これは私の夢でしたが・・・)
ですから、正直言って、長い間、いつかこんな店をやりたかったのですが、つい安定した職を捨てることできず、夢と終わりました。
意気地なしの自分、中途半端に終わり、神様に謝りたい(あやまりたい)です。

こんな感じのお店を出すのは、今の世の中ムリなんですかね?
小さくても街の拠り所になっているような。
こんなお店、あってもむしろ、減っていますよね。
酒に酔わされない本当の大人が集って話せる場所、何にもまして必要ですよね!

ところでアメリカ人て、結構寂しがりやなんです!もちろん日本人もでしょうけど、日本人は”寂しさ“を素直に表現しません!
それに日本人は、まだまだ家族、親戚でまとまれるチャンスは有り、泣きつくところが比較的健在。
アメリカは例え夫婦でも、各自のバックグランドがバラバラ、人種、宗教、文化、etc。
ましてや離婚、未婚が多く、シングル(独身)で生きていく、結果として友人は“疑似家族、疑似親戚“です。

アメリカでは普通、日本に帰ると言うと友達は必ず、いつ戻ると聞かれます、もしくは直ぐ戻るでしょとかえされます。
私もアメリカを去るとき、悩みに悩みましたが、全ての友達に、日本で腰を落ち着けるために帰るとは言えませんでした・・・・。

また、続きます





“場あたり的な計画は、高くつく、移民の話です”

2016-07-05 14:57:47 | オヤジ留学
中年オヤジNY留学


場あたり的な計画は、高くつく、移民の話です
2016/7/5 記

 ニューヨークに居ると有名人と遭遇したりする機会が多いことは確かです。
 カーネギーホールの並びに、“ロシアンティールーム”と言うレストランがあります、ある日たまたま友達と食事をしていました。 友達いわく、”ちょっと見て、奥の方の角の席、クリストファー・リーブ、スーパーマン役の人が食事している“。
“ええ、どこどこ?”
視力の悪い私にも角ばった顔は、すぐ目につきました、色白で目立ちます。 彼はパートナーと食事中です。
スーパーマン役の彼も、数年後、好きな乗馬中に落馬し脊髄を損傷し車椅子の生活を強いられ、生きることに”ガンバル“姿をテレビで見ましたが、それから暫らくして亡くなりました。
光を放っていただけに、悲しいです

(紅花オーナー、ロッキー青木さん) また私はトランプタワーのある近くの日本の美容室でアルバイトを一年半ほどしていました。
そこのお客様に、当時有名なステーキハウスのオーナーの“ロッキー青木さん”が数か月ごとにパーマをかけに来ています。
ヘヤ―をカールさせ一見、ラティーノ(南米人)風情が彼のトレードマークです。
もともとは、美容室のオーナーのお客様でしたが、私が担当させてもらいました。
”紅花”の名称で日本のみならず世界中にチェーン展開している実業家でしたが、えばった素振りはせず、話も面白い方でした。


当時、週刊誌でも彼は二番目の奥さん(確かアメリカ人?)と離婚協議中で、多額の慰謝料を請求されていることは有名でした。
そこで美容室のオーナー、これは聞きたいとばかりにこの話を持ち出し“今度、結婚する時は、アメリカに来たばかりの、右も左も分からない何億だか何十億だかすごいお金を請求しない人と一緒になればいいのに”

青木氏“ダメダメ、アメリカ人に限らず、人間なんて数年で新しい土地に染まって、結局はみんなと同じことを言い出す、皆、同じ”。

これを聞いて、私は当たり前と言えば、当たり前、しかし実業家だけあって、フラフラした考えかたは無く、定石を踏んでいるなと思いました。

(話転じて、無秩序な移民に反対)ここで、話を日本に向けますが、よく話題に上がるのが、“少子化対策としての移民促進”、私は国策としての移民は反対です
外国人排除の意味ではありません。
働き手がいないと言いますが、企業が望む特定の若い年代の条件を除けば、結構、求職者は余っています。

”介護“等のきつい職業が日本人に大変でも、外国人なら我慢できるのでしょうか?

ロッキーさんの話を持ち出せば外国人でも、あっという間に新天地の文化、情報を吸収し、権利を主張するようになります。
移民の場合でも、入口(いりくち)は重労働、低賃金でも時とともに条件の良い職業へ、また楽な道があれば移っていくのは道理。

アメリカの歴史でもアフリカからの労働力に頼った時もありました。
しかし南北戦争以降、小説”風と共に去りぬ“では街の治安は混乱し、南部では夜〝銃”を携帯しないと外出できなくなり社会は一変したと書かれてあります。
風“つまり南北戦争を境とした社会的混乱の嵐で、白人支配の一方的優位は終焉し始めました。
世の中に甘い話は無いのです、昔も今も

私は、もともと困難を伴う仕事に国家間の経済格差を利用して”移民政策“に頼るのは危険と思います。
これが本当に長続きすると誰が信じます?
そして国策による移民政策のメリットを数年だけ受け入れ企業が享受し、その後の日本の将来、移民政策の負の部分、つまり移民の彼らへの社会保障負担(生活保護を含む)を払い続ける覚悟があるのでしょうか?
働き盛りはほんの一瞬ですよ。

これは最近の英国のEU離脱問題でも移民に対する過度の社会保障の負担、取り上げられていました。

(一億総中流の分解)
アメリカでは隣のご主人が職を失えば“RECESSION―不景気”と呼び、自分の旦那がクビになれば“DEPRESSION―恐慌”と言う冗談めいた諺があります。
今まで日本の格差社会は、一昔前は野党が与党に対する”ケチをつける“程度の問題”でしたが、この問題は真に現在、他人事ではなく身内の問題化しています。

●自分の子供が学校を卒業しても社員のポジションを得ることが出来ない、また長期の職探し。
●老後を楽しむどころか、子供のリストラや子供の離婚による孫を連れての出戻りにより実家をも巻き込むダウンサイジング。

しかも正規、非正規の方との待遇・賃金格差は余りに隔絶。
一方、年金の支払いを初め社会保険料の年々の増額、更にマイナンバー制度の運用開始でパート、アルバイトを問わず課税強化です。
自分のご飯のオカズを買う前に、税金を先に持って行かれる状況です。

これから日本に移民するかもしれない不特定の多数の人達より、現に日本に住み”崖“にぶち当たっている非正規の人達への対応が求められます。


(注)ロッキー青木氏、2008年7月ニューヨークにて肝臓ガンにて死去。

また、続き書きます、では・・・・・