(ここまで)
主人公(松尾次郎)が中国、上海を旅しています。
(その 6)
( 異国という大海へ船出した人達 )
上海へ来て5日目の朝を、次郎は独り目を覚ました。
今日は一緒に目を覚ます相手がいなくて、淋しいというより、少しセイセイしている感じがする。
次郎は“今日は、仕事でもない、女でもないことに時間を使いたい”と。
次郎には上海に数人知り合いがいたが、時間的に全ての人に会えない、何故か今回はその中の一人沖縄県出身の喜屋武(きゃん)さんに無性に会ってみたかった。
彼の破天荒の生き方が気にいっていた。
彼は以前、いろいろな事に手を出していて、その一つに上海で日本の100円ショップまがいな事をやり、其の時輸出入の仕事上のつながりで次郎と知り合いになった。
喜屋武さんは日本人でありながら、数奇な生き方をしている。 その点で次郎が何となく話してみたい人の一人なのだ。
彼は名が示すように沖縄出身、小さい時に親と一緒にブラジル移民、多分30歳半ばまでブラジルに根を下ろしていたはず。 30歳後半に、たまたまブラジルに来た日本の実業家の人と知り合い、折からの日本のバブル期で、日本の労働者不足を知り、彼自身が日系人労働者の日本への仲介をしていた時期もある。
彼が、バブル期を境に再び日本に拠点を移して暫くして、又も、仕事が縁で約十数年前に上海へ乗り込んできたという変わり者。
外国では、一生のうち国を二ヶ所も三ヶ所も転々とするのは、よくある話しだが日本人では稀。
これは人ごとながら、大変な事だと次郎は思う。
世界を流浪する人達にとって、日本人が良く言う“畳の上で死にたい”なんて、お笑いモノの台詞(せりふ)だろう。
一時期、次郎はこうした一生の内に世界を転々とする人々を気の毒に思った時期も有った。 しかし、今では、本当に彼らは不幸せか?とも思う。
意外と、そうでは無いのでは。
次郎は、時々思う、小さな村に生まれ一歩も外へ出ず、本人も幸せと思うなら、これも幸せか。 また、いろいろな事情、自分の意思又は家族の繋がりで一生に世界を転々とする、そして、その土地土地に揉(も)まれ、苦労し生きぬいて行く力を着ける。
どちらが、幸せなのだろうか?
日本にいると、目立たないが外国に出てみると、数奇な生き方をしている日本人を外国の地でたくさん見る。
次郎はホテルの受話器をとり、喜屋武さんの自宅へ電話をする、呼び出しのベルが鳴ること数回で直ぐ、彼の奥さんが電話をとった。 彼の奥さんは上海の人である。
“もしもし、松尾です”
“アラ、松尾さん、何処から電話しているの…・・”
“実は、上海に来ているんですよ”
“本当ですか?(ご主人である喜屋武さんと何やら話している様子)…・ちょっと、待ってください、(電話を)代わりますから”
そして、本人が電話口に出た“なんだ、今どこにいるんや!”と何時もの調子で元気が良い。
“実は、上海に来ているんですよ”と次郎は、とりわけ来る事を事前に連絡しなかった事を少し恥ずかしかった。
彼は“何時、来たんや”
“四日前くらいですよ”と次郎はバツが悪そうに。
“何で、もっと早く知らして来ないんだ、四日前に何時ごろ着いた?”
次郎は多少苦笑気味に“いや、夜ですよ、ユナイティドだから着くの夜なんですよ”
“何で、着いたら直ぐに家に電話よこせば良いのに”
“…… 遅いですよ、飛行機ついたの夜の8時半とか、そんなものですもの…・・”
“いいじゃないか、家(うち)なんか、知ってのとおり寝るの何時(いつ)も一時二時なんだから”
この事は、次郎もじゅうじゅう知っていた、彼は現在、空手道場を上海各所で主催していてどちらかと言うと、夜型の生活パターンで更に、おまけに夜遊びが好きと来ている。
上海人の奥さんを相手に、日本男子の亭主関白を彼のペースで、しかも敵地の国でやっているのだから、見上げたものだ。
“今、何処におるの、何処のホテル?”と喜屋武さん。
“千鶴ホテルですよ”
“千鶴ホテルて、何処やったっけ……アア、あそこか、何構うこっちゃねえ、直ぐ来いよ”
次郎は、“ええ…・・好いんですか?”と
“なに、遠慮する事無い、直ぐ来なよ、待ってるから”
“はい、解りました、じゃ、行っても良いですか”
“直ぐ,来いよ”
“はい”そして、次郎は受話器を置いた。
次郎は彼の所へ行くために身づくろいをし、日本から買ってきた土産袋を手にホテルのロビーへ降り、車寄せに立つと、ベルボーイは次郎が車が必要とわかると?と尋ね、彼がすぐさまサインをすると、客待ちのタクシーが次郎のもとへ来た。
住所が書かれた喜屋武さんの名刺を出すとベルボーイは次郎に代わり二言三言運転手に行き先を告げた。
今の所、次郎のようなよそ者にも稼ぎを水増しするために遠回りする運転手は上海には少ない、しかしこれが、何時まで続くか分らないが。
喜屋武さんの家は遠い、どちらかと言うと、上海の飛行場方向へ街の中心から戻る方向になる。
街中の混雑した所を抜けてもなかなか着かない、タクシーは街外れに出てスピードをあげる。 ようやく、喜屋武さんが住むマンションの近くに着たことを次郎は知る.
上海には、今、いろいろの住まいが有る、今でも政府配給の狭く旧い一部屋に数人がまとまって住んでいる人もいる。 もちろん、そう言った所は台所も共用だ。
日本人は、ビックリするかもしれないが、中国人は共用部分には金をかけない、つまり個人が管理する自分の部屋と共用部分の廊下、階段、台所は別世界なのだ。これらの場所に明かりがない事もしばし。
中国人のきれいな家に住みたい願望は、多分、日本人以上だろう。
喜屋武さんのマンションは中流の部類かとも思われる。 日本ではニュータウンと呼ばれるように開発された住宅区域で、その街区の入り口にはガードマンが24時間警備し、外部からの車の侵入も一々チェックを受ける。 辻つじには、日本人の目には多すぎると思われるほどのガードマンが立っている。
多分このニュータウンでは、安全が売り物なのだろう。
やっとの事で、喜屋武さんの階へ通じる下の鉄製のフェンスの前に立ち、喜屋武さんの部屋番号を押すとインターホーンになっている。
次郎は笑ってしまった、喜屋武さんの5歳になる男の子がひょうきんな日本語で“誰ですか?”
その子には、次郎とは数回会っており、彼は子供特有のでしゃばりで、日本語でインターホーンに飛びついたらしい。
声は、直ぐ奥さんに代わり、鉄のフェンスは部屋からの操作で開放された。
喜屋武さん宅のドアをノックするや否や親子三人で次郎を迎えてくれた。
彼のコンドミニアム(マンション)の廊下は比較的ゆったりとってあり高級感がある。 家の中もしかり、決して広くは無いがリビングはリビングらしいゆとりが感じられる.
挨拶を終え、次郎は席に通されると、喜屋武さんは開口一番“今回は、上海に何しに来た、仕事か、女か?”
余りにもズボシなので、次郎は笑いながら“その、両方ですよ”
喜屋武さんは“中国には、女は腐るほど、いくらでもいるから、俺が捜してやるよ”と。
“アア、そうですか、じゃ、お願いします”と次郎は,言ったものの今回の上海入りで、二人の女性と会い、そのうち一人とは行くとこまでいったことなど、言い出せなかった。
そばでは、喜屋武さんそっくりの5才になるミニチュア版ともいえる彼の子が、日本の子供のようにおとなしくせず、ちょろちょろしたり、話しかけて来たり。
“仕事の方はどうですか?”と次郎は喜屋武さんにたずねた。
“イヤー、順調だよ、後で、事務所を見せてあげよう、そのあと昼飯を一緒に食おう、どうだ、松尾さんに女一人会わせてあげるよ”彼は、そばにいる、奥さんが二人の日本語を解るはずはないとばかり、お構いなし。
“これは、ちょっといい女だよ”彼は続く。
出された飲み物を口にし、しばらく世間話をしたかと思うと、二言三言彼は奥さんと会話したかと思うと、“じゃ、行こう”と次郎を外に連れ出した。
彼の車の駐車場まで、歩いて数十メートル。
彼が車を持っているか、いないか次郎は今まで気にした事は無かったが、彼の車の助手席に乗ってみると“なかなか”の車である。 上海で乗る定番のサンタナのタクシーとはわけが違う高級感がある、加速が違う、“良い車ですね”次郎は誉めた。
彼は“マァ、普通かな、中国じゃね車のナンバーを取るのが、厄介なんだよ”
“アァ、そんなのNHKのテレビで見たこと有りますよ、中国の市だか政府がボッタクリと思えるほどナンバープレートに税金をかけているの”
“今は、車に乗っているけど、昔はバイク乗っていたのよ、その前は自転車、なにしろ中国は交通の便が悪くて、バスなんて待ってられないからね”
それを聞いて、“アァ、喜屋武さんにもそういう(下積み)時代があったんですね”と次郎は安心したとも言える返事をした。
年は次郎と喜屋武さんは似たりよったり。
しかし、二人の境遇はまるっきり違う。
日本人でありながら外国の地で、外国人としてのハンデを乗り越え、今や彼には家族があり、目に見える財産も。
いや、次郎にとって、モノはどうでも良い、羨ましいのは彼が外国で生きる糧と家族を勝ちとったことだ。今、改めて次郎のことを紹介すると、喜屋武さんほど強烈な海外体験、ブラジル移住ほどではないが、次郎も30半ばでアメリカ留学したという特異な体験の持ち主であった。
ニューヨークでMBA(経営修士)を習得したが、その当時アメリカはおりからの景気後退期、銀行は多くの人をリストラし、あのシティ-・バンクでさえ倒産の噂がささやかれた90年初頭である。
また次郎自身も“運(ツキ)”が無かった。
その後の就職活動では、全てが、次郎にとって悪いほうへ。
MBAのデュロマも結果的に何も次郎にもたらさなかった、次郎が当初考えていた、MBAのデュプロマ片手にウォールストリートの日本企業に売り込む事も、バブル期に日本の地方に雨後の竹の子のように設立された三流大学の講師に滑り込む事も、既に遅しであった。
MBAのデュプロマも次郎にとって、今となってはただの“お守り”にしか過ぎない。
次郎にとって、別に有名な会社に勤めることだけが成功物語ではないが。
少なくとも自分の仕事、生活に満足し、輝いていたい。
この点、喜屋武さんは次郎からみて、彼自身十分に満足もしているだろうし、輝いても見えた。
そうこうするうち、車は喜屋武さんの事務所についた。 そこは、コンドを事務所代わりに使っている。 新しいコンドだが生活に使うわけでもないし、少しもったいなくも次郎には思える。
一部屋を彼と事務員の事務所に、一部屋を空手着の製造場所、もう一つまるっきり使っていない部屋を見せる際に彼は“松尾さん、この部屋は何も使ってないから、いつ来てもいいぞ、早く上海へ越して来い、ハハハ……・”
と。
事務所に戻ると、壁には上海と、中国国内の大きな地図が掲げられ、赤いシールが何ヶ所も貼られ、そこで彼は“松尾さん見てよ、この赤い所が現在、私の空手教室のあるところ、これからも、どんどん増えるからネ”と意気盛ん。“忙しいぞ。”と続く。
そこは、あたかも、次なる出店計画を幹部が作戦をねるスーパーマーケットの参謀室のようでもあった。
正直いって、次郎には喜屋武さんにずばぬけた経営の素質が有るようにも見えないが、ただ、彼には“追い風が吹いている”ことだけは確かだ。
良く、人は言う、“運も才能の内”。
してみると、運にも見放された次郎は、無能なのか?
次郎は“少しは自分の中に、人より才能があると思っていたが、ここまで運も、ツキも無いとなると、本当は無能だったのか?”と自分自身に問い掛ける。
次郎はさらに“無能なら、ダメオヤジのままでも恥じることもない。 人(他人)以上にガンバル必要もないのだが”と、ため息をついてみる。
彼の事務所を出た後、また車で二人は別の場所へ。
喜屋武さんは携帯でどこかに電話をしている。 そして、“松尾さん、メシ食いに行こう、いま女呼び出したから、一緒に食おう”
彼はつづけて、“俺いま、三人の女と付き合っているよ、いま飯に来るのは23(才)姉さんも来るから、松尾さん良く見て置けよ、紹介するぞ”
次郎は“ハァ…・、有難う、ごさいます”と会話をあわせ、そして“3人も付き合って奥さんに、バレませんか?”
“いや、わかんないよ”
“わかりますよ!”
“そうかもしれんが、うちの何も言わんぞ”
“それは、奥さんが偉いんですよ”
“(うちの女房)できているかもしれないな”
“そうですね、でも、喜屋武さん幸せですよ、羨ましいですよ、好きなように生きていて”
“そうかな……・確かに日本の友達たまに来るけど、やはり、羨ましいって俺のこと言ってるな、日本は何でも型にはめてしまうだろう、小さい事をコチョコ、コチョコ気にして、あれは(自分にとって)イカンナ”
次郎も“皆(日本人)もくだらない事に気にしすぎているの知っているんですよ、でも、それが世の中の”あたりまえ“になっているから、一人の力では崩せないんですよ”
喜屋武さんも“そうなんだよな”
さらに喜屋武は、“松尾さんもこっち(上海へ)来いよ!”
“フフフ…・・、イイですね”と次郎は話しは話として聞いた。
次郎は気持ちの中では、言葉でうまく表現できないが、日本では自分自身、何かに我慢させられているような……。
できるものなら、自分の生き方を変えてみたい。
しかし、中年の日本人がノコノコと中国にやって来て、オイソレとご飯を食べさせてもらえるわけもない。
サラリーマンとして本当の自分を隠して生きるのは辛いが、収入の保証がないのも又、別の辛さがある。
やがて喜屋武さんは車を中層の住宅群の中に車を回し、その団地の中とも言える道に停車させた。
“彼女達、ここに住んどるん、ここに暫く待っとって”と言い、携帯に電話し始めた。着いたことを彼女達に告げたのだろう。
暫くして、二人の女性が車の背後からやって来た。
“若いな”、次郎の彼女達にたいする第一印象はそれだった、そして二人とも細面の美人系。 喜屋武さんの彼女と思われる若い方の彼女の顔には、若い美しさの中に、若さゆえの生意気な表情を顔に映している。
思わず次郎は、喜屋武さんの子供でも良いような年の娘が、どんな魅力を中年の喜屋武さんに感じているのだろうか?と詮索した。
セックスはどのようにしているのだろうか?
若い彼女は、どう言うつもりで喜屋武さんに自分の若い肉体を提供しているのだろうか?
親子ほど離れた男に抱かれ、彼女は恥ではないのか?
喜屋武さんはその全ての矛盾を吹き飛ばすだけの、金を彼女に与えているのか?
次郎にとって、なぞの部分が多いが、少なくとも金の出所となっているのは喜屋武さんの仕事からである。
空手道場の経営がうまく行っていることは確かに見える。
姉の方は二十六、七か?もちろん若いが、妹の生意気盛りの顔に比べ、落ち着きを持っている。 この二人の家系は明らかに美人系だ。
しかも二人とも自分の美貌には自身を持っているのが次郎に伝わる。
次郎がどう考えても、喜屋武さんと不つり合いな、気の強そうな小娘。
そして美人の姉、しかし同じ美人でも、今回の上海入りで次郎が出会った劉さんの美しさとも違う。
劉さんよりも“智”の臭いがする。
そして、劉さんよりも自分を高く売ろうとしているのも次郎には読める。 喜屋武さんは、次郎に一つのチャンスを与えたつもりかもしれないが、次郎には、この姉とは何も始まらないのが分った。
“いや、もしかすると劉さんをとりあえず得たことで、これ以上の危険を避けようとしている、臆病になっている? あるいはハングリー精神を失っているのかも知れない”と次郎は別の見方を自分自身にしてみる。
車は、喜屋武さん行き付けのレストランに着いた。
食事中、次郎が思った通り若い彼女は、自分の親の年ほどの喜屋武さん仕切っていた。
喜屋武さんが次郎の目にはだらしなく映った。
しかし、この見方も次郎の価値観であって、意外と喜屋武さんは気にしてないかもしれない。
女の気が強いから、付き合わないは意外と、旧い日本的考え方かもしれない。
一方、やるだけやって、全てを一旦受け入れ、ダメならダメで不必要なものは吐き出し、積極的に忘れていく。
中国にはこうした生き方が往々にしてある。
彼等、中国人の生き方には付け足す事が、まだある、そして結果が何であれ、自分を責めない、倫理観だの何だのと、そして引きづらない。
あたかも、魚の中に石ころから泥まで一旦、口に放り込んで、必要なものだけ漉し取り不必要なものを吐き出す種類があるように、過去のことに、悩んでグジグジしない。
喜屋武さんだって、家庭がある、まさかその小娘に本気ではないだろう、この若い彼女といつ分れても問題はないはず。
喜屋武さんも、中国に長く住む事により、へたな倫理観に縛られないように、より生命力を備えた人間に進化したのかもしれない。 又、確かに、年の男が若い女を抱くのは、それは最上級の果実を啄ばむごとく価値がある。
年の離れた男女の肉は、老いた者を“恋ボケ”ともいえる、麻痺状態にさせる。
そして老いた者は、彼らの経験から、いかに若い肉体が価値あるものか、いかに若さとは本当は短いと言う事を知っている。
反面、時として、若者は自分の若さの価値を自覚していない。
この若い彼女にしても、エラから石ころを吐き出す例えの魚のように、喜屋武さんという石ころの中に何かしらの栄養ともいえる取り柄があるのだ。
しかし、“女の宝”とも言える体を差し出しても、自分が生きていく力とするたくましさ。
次郎が母から教わった、倫理観、多くの日本人が温めてきた武士道のようなものが、ここでは崩れている。
二十歳そこそこの中国小娘が、本来なら自分で苦労して時間を掛けて勝ち取るモノを、他人に取り付き欲しい物を手に入れ、機を見てさっさと人より先を急ごうとしている。
ここは上海だが、この悪い伝染病ともいえる風潮はやがて、海を渡るだろう。
次郎の本音としては、こうした淫らな女たちは抹殺したい。
死刑に値する。
しかし、時は変わり、人は自分と違う価値観、文化をもった人間と渡りあわなければならない日がやって来ている。次郎の先人である多くの人達が自らを規制し守ろうとした道徳、倫理観。
それらの人達が踏み固めてきた歩きやすい道、人の道とも呼ぼうか、これからは人々は石がごろごろした、不ぞろいの道を歩き慣れなれなければいけないようだ。
騙された、不誠実だと相手をののしるのは,敗者の泣き言かもしれない。
これから、女の大事なものを失う事に平気な輩(やから)と渡り合うのには、それなりの力というか対処法が必要かもしれない。
“力”とは暴力とか、腕力の意味でない。
それは自分の道を失わない信念と目標である。
なぜなら自分を守れなければ、その先はないのだ。
持ち金のない、ギャンブラーにも等しい。
食事も終わり、彼女達と次郎と喜屋武さん二人は旧の組み合わせに分れ散会した。
また、次郎は喜屋武さんの車に乗り、彼の思うところへ次郎は連れて行かれた。 上海市中の上海放送局の付近の武道館である。
建物は旧いが、中に入るとこの建物が丁寧に使われているのが解る。 建物に入るまでは、人気を感じないのに、中に入るとジム(各種の運動施設)になっていて人の動きやスポーツのかけ声があちこちから聞こえる。 次郎は喜屋武さんに連れられ建物の奥へ。
そこには、既に空手着を着た男女含め若者が40人程度、等間隔にいる、何時でも練習ができる状態になっている。
喜屋武さんが次郎に案内した、“ここにいるのは、おもに上海復旦大學の学生でワシの生徒”
“じゃや、皆、頭良いんですネ”と次郎、上海復旦大學は上海でも一番の有名校である。
この道場に喜屋武さんと珍客の次郎が来たので、生徒の視線が集まり出した。
そうしたなか、一人の空手着姿の背の高い、自身に満ちた男性がつかつかと次郎の前に来、“いらっしゃいませ、今日はゆっくり僕達の練習風景を見ていってください”と流暢な日本語で挨拶してきた。
顔から判断すると、どう見ても日本人ではない、なのに日本語がうまい、“日本語上手ですね、彼”と喜屋武さんに質問をなげかけると。
“もともと、台湾出身なんだけど、暫く台湾で日本企業で働いていたけど、そこが閉鎖され上海へやって来たのよ、彼がここの空手道場のリーダーとしてやっているんだ”
日本企業で働いて、日本語がうまい、次郎にはそれはわかるが、彼はどう言ういきさつで上海まで来たのだろうか? それが次郎にはミステリーであった。
この異国の地で、奇妙な日本人の喜屋武さんと奇妙な台湾人の彼が出会う。
この上海で、日本にいると感じない、人の一生は形式なんてない、常識なんてない世界を見る。
まもなくして、台湾出身の彼の号令で準備運動が開始された、笑える、号令は日本語で、また中国人の生徒もそれほどうまくない日本語で唱和する。
準備体操のあと、台湾の彼の号令のあと、中国人が日本語で“一つ、礼儀正しい……”と空手の心得を同じく唱和し続いている。
次郎は喜屋武さんと面識を持ってから初めて、彼の空手道場を見せてもらった。
“皆、聞いてくれ、今日は日本からお客さんが来ている、彼は私達の空手組織が世界の桧舞台に参加できるように、日本の空手協会に交渉してくれた立役者だ、じゃ、紹介しよう”突然、次郎はたくさんの生徒の前で一席述べる羽目になった。
もうすでに、生徒の視線は集まっている、逃げるわけにいかない。
次郎は中国語で、“皆さんコンニチハ、日本から来た松尾です、喜屋武さんとの付き合いも長くなりますが、今回、世界空手連合への加入おめでとうございます、どうか皆さんもこれからも、ますます練習に励んでください”と結ぶ。
ジムの壁際に置かれた椅子に次郎は座り、生徒の練習に見入る。
次郎には、喜屋武さんが少し羨ましかった。 彼の力で良くも、悪くもできる舞台がある、つまり喜屋武さんの空手人生。
次郎の場合、全て中途ハンパ。
かといって外国へ、例えば上海へ飛び出す、当ては次郎にはない。
その臆病の代償に、白旗を掲げ日本でサラリーマンを続ける。
“自分はこれで、いいのか?”と次郎は自身にふと、問いかけてみる。
ジムの中は、練習する選手の熱気に溢れているが、次郎一人、心は冷めたままだった。
(つづく)
主人公(松尾次郎)が中国、上海を旅しています。
(その 6)
( 異国という大海へ船出した人達 )
上海へ来て5日目の朝を、次郎は独り目を覚ました。
今日は一緒に目を覚ます相手がいなくて、淋しいというより、少しセイセイしている感じがする。
次郎は“今日は、仕事でもない、女でもないことに時間を使いたい”と。
次郎には上海に数人知り合いがいたが、時間的に全ての人に会えない、何故か今回はその中の一人沖縄県出身の喜屋武(きゃん)さんに無性に会ってみたかった。
彼の破天荒の生き方が気にいっていた。
彼は以前、いろいろな事に手を出していて、その一つに上海で日本の100円ショップまがいな事をやり、其の時輸出入の仕事上のつながりで次郎と知り合いになった。
喜屋武さんは日本人でありながら、数奇な生き方をしている。 その点で次郎が何となく話してみたい人の一人なのだ。
彼は名が示すように沖縄出身、小さい時に親と一緒にブラジル移民、多分30歳半ばまでブラジルに根を下ろしていたはず。 30歳後半に、たまたまブラジルに来た日本の実業家の人と知り合い、折からの日本のバブル期で、日本の労働者不足を知り、彼自身が日系人労働者の日本への仲介をしていた時期もある。
彼が、バブル期を境に再び日本に拠点を移して暫くして、又も、仕事が縁で約十数年前に上海へ乗り込んできたという変わり者。
外国では、一生のうち国を二ヶ所も三ヶ所も転々とするのは、よくある話しだが日本人では稀。
これは人ごとながら、大変な事だと次郎は思う。
世界を流浪する人達にとって、日本人が良く言う“畳の上で死にたい”なんて、お笑いモノの台詞(せりふ)だろう。
一時期、次郎はこうした一生の内に世界を転々とする人々を気の毒に思った時期も有った。 しかし、今では、本当に彼らは不幸せか?とも思う。
意外と、そうでは無いのでは。
次郎は、時々思う、小さな村に生まれ一歩も外へ出ず、本人も幸せと思うなら、これも幸せか。 また、いろいろな事情、自分の意思又は家族の繋がりで一生に世界を転々とする、そして、その土地土地に揉(も)まれ、苦労し生きぬいて行く力を着ける。
どちらが、幸せなのだろうか?
日本にいると、目立たないが外国に出てみると、数奇な生き方をしている日本人を外国の地でたくさん見る。
次郎はホテルの受話器をとり、喜屋武さんの自宅へ電話をする、呼び出しのベルが鳴ること数回で直ぐ、彼の奥さんが電話をとった。 彼の奥さんは上海の人である。
“もしもし、松尾です”
“アラ、松尾さん、何処から電話しているの…・・”
“実は、上海に来ているんですよ”
“本当ですか?(ご主人である喜屋武さんと何やら話している様子)…・ちょっと、待ってください、(電話を)代わりますから”
そして、本人が電話口に出た“なんだ、今どこにいるんや!”と何時もの調子で元気が良い。
“実は、上海に来ているんですよ”と次郎は、とりわけ来る事を事前に連絡しなかった事を少し恥ずかしかった。
彼は“何時、来たんや”
“四日前くらいですよ”と次郎はバツが悪そうに。
“何で、もっと早く知らして来ないんだ、四日前に何時ごろ着いた?”
次郎は多少苦笑気味に“いや、夜ですよ、ユナイティドだから着くの夜なんですよ”
“何で、着いたら直ぐに家に電話よこせば良いのに”
“…… 遅いですよ、飛行機ついたの夜の8時半とか、そんなものですもの…・・”
“いいじゃないか、家(うち)なんか、知ってのとおり寝るの何時(いつ)も一時二時なんだから”
この事は、次郎もじゅうじゅう知っていた、彼は現在、空手道場を上海各所で主催していてどちらかと言うと、夜型の生活パターンで更に、おまけに夜遊びが好きと来ている。
上海人の奥さんを相手に、日本男子の亭主関白を彼のペースで、しかも敵地の国でやっているのだから、見上げたものだ。
“今、何処におるの、何処のホテル?”と喜屋武さん。
“千鶴ホテルですよ”
“千鶴ホテルて、何処やったっけ……アア、あそこか、何構うこっちゃねえ、直ぐ来いよ”
次郎は、“ええ…・・好いんですか?”と
“なに、遠慮する事無い、直ぐ来なよ、待ってるから”
“はい、解りました、じゃ、行っても良いですか”
“直ぐ,来いよ”
“はい”そして、次郎は受話器を置いた。
次郎は彼の所へ行くために身づくろいをし、日本から買ってきた土産袋を手にホテルのロビーへ降り、車寄せに立つと、ベルボーイは次郎が車が必要とわかると?と尋ね、彼がすぐさまサインをすると、客待ちのタクシーが次郎のもとへ来た。
住所が書かれた喜屋武さんの名刺を出すとベルボーイは次郎に代わり二言三言運転手に行き先を告げた。
今の所、次郎のようなよそ者にも稼ぎを水増しするために遠回りする運転手は上海には少ない、しかしこれが、何時まで続くか分らないが。
喜屋武さんの家は遠い、どちらかと言うと、上海の飛行場方向へ街の中心から戻る方向になる。
街中の混雑した所を抜けてもなかなか着かない、タクシーは街外れに出てスピードをあげる。 ようやく、喜屋武さんが住むマンションの近くに着たことを次郎は知る.
上海には、今、いろいろの住まいが有る、今でも政府配給の狭く旧い一部屋に数人がまとまって住んでいる人もいる。 もちろん、そう言った所は台所も共用だ。
日本人は、ビックリするかもしれないが、中国人は共用部分には金をかけない、つまり個人が管理する自分の部屋と共用部分の廊下、階段、台所は別世界なのだ。これらの場所に明かりがない事もしばし。
中国人のきれいな家に住みたい願望は、多分、日本人以上だろう。
喜屋武さんのマンションは中流の部類かとも思われる。 日本ではニュータウンと呼ばれるように開発された住宅区域で、その街区の入り口にはガードマンが24時間警備し、外部からの車の侵入も一々チェックを受ける。 辻つじには、日本人の目には多すぎると思われるほどのガードマンが立っている。
多分このニュータウンでは、安全が売り物なのだろう。
やっとの事で、喜屋武さんの階へ通じる下の鉄製のフェンスの前に立ち、喜屋武さんの部屋番号を押すとインターホーンになっている。
次郎は笑ってしまった、喜屋武さんの5歳になる男の子がひょうきんな日本語で“誰ですか?”
その子には、次郎とは数回会っており、彼は子供特有のでしゃばりで、日本語でインターホーンに飛びついたらしい。
声は、直ぐ奥さんに代わり、鉄のフェンスは部屋からの操作で開放された。
喜屋武さん宅のドアをノックするや否や親子三人で次郎を迎えてくれた。
彼のコンドミニアム(マンション)の廊下は比較的ゆったりとってあり高級感がある。 家の中もしかり、決して広くは無いがリビングはリビングらしいゆとりが感じられる.
挨拶を終え、次郎は席に通されると、喜屋武さんは開口一番“今回は、上海に何しに来た、仕事か、女か?”
余りにもズボシなので、次郎は笑いながら“その、両方ですよ”
喜屋武さんは“中国には、女は腐るほど、いくらでもいるから、俺が捜してやるよ”と。
“アア、そうですか、じゃ、お願いします”と次郎は,言ったものの今回の上海入りで、二人の女性と会い、そのうち一人とは行くとこまでいったことなど、言い出せなかった。
そばでは、喜屋武さんそっくりの5才になるミニチュア版ともいえる彼の子が、日本の子供のようにおとなしくせず、ちょろちょろしたり、話しかけて来たり。
“仕事の方はどうですか?”と次郎は喜屋武さんにたずねた。
“イヤー、順調だよ、後で、事務所を見せてあげよう、そのあと昼飯を一緒に食おう、どうだ、松尾さんに女一人会わせてあげるよ”彼は、そばにいる、奥さんが二人の日本語を解るはずはないとばかり、お構いなし。
“これは、ちょっといい女だよ”彼は続く。
出された飲み物を口にし、しばらく世間話をしたかと思うと、二言三言彼は奥さんと会話したかと思うと、“じゃ、行こう”と次郎を外に連れ出した。
彼の車の駐車場まで、歩いて数十メートル。
彼が車を持っているか、いないか次郎は今まで気にした事は無かったが、彼の車の助手席に乗ってみると“なかなか”の車である。 上海で乗る定番のサンタナのタクシーとはわけが違う高級感がある、加速が違う、“良い車ですね”次郎は誉めた。
彼は“マァ、普通かな、中国じゃね車のナンバーを取るのが、厄介なんだよ”
“アァ、そんなのNHKのテレビで見たこと有りますよ、中国の市だか政府がボッタクリと思えるほどナンバープレートに税金をかけているの”
“今は、車に乗っているけど、昔はバイク乗っていたのよ、その前は自転車、なにしろ中国は交通の便が悪くて、バスなんて待ってられないからね”
それを聞いて、“アァ、喜屋武さんにもそういう(下積み)時代があったんですね”と次郎は安心したとも言える返事をした。
年は次郎と喜屋武さんは似たりよったり。
しかし、二人の境遇はまるっきり違う。
日本人でありながら外国の地で、外国人としてのハンデを乗り越え、今や彼には家族があり、目に見える財産も。
いや、次郎にとって、モノはどうでも良い、羨ましいのは彼が外国で生きる糧と家族を勝ちとったことだ。今、改めて次郎のことを紹介すると、喜屋武さんほど強烈な海外体験、ブラジル移住ほどではないが、次郎も30半ばでアメリカ留学したという特異な体験の持ち主であった。
ニューヨークでMBA(経営修士)を習得したが、その当時アメリカはおりからの景気後退期、銀行は多くの人をリストラし、あのシティ-・バンクでさえ倒産の噂がささやかれた90年初頭である。
また次郎自身も“運(ツキ)”が無かった。
その後の就職活動では、全てが、次郎にとって悪いほうへ。
MBAのデュロマも結果的に何も次郎にもたらさなかった、次郎が当初考えていた、MBAのデュプロマ片手にウォールストリートの日本企業に売り込む事も、バブル期に日本の地方に雨後の竹の子のように設立された三流大学の講師に滑り込む事も、既に遅しであった。
MBAのデュプロマも次郎にとって、今となってはただの“お守り”にしか過ぎない。
次郎にとって、別に有名な会社に勤めることだけが成功物語ではないが。
少なくとも自分の仕事、生活に満足し、輝いていたい。
この点、喜屋武さんは次郎からみて、彼自身十分に満足もしているだろうし、輝いても見えた。
そうこうするうち、車は喜屋武さんの事務所についた。 そこは、コンドを事務所代わりに使っている。 新しいコンドだが生活に使うわけでもないし、少しもったいなくも次郎には思える。
一部屋を彼と事務員の事務所に、一部屋を空手着の製造場所、もう一つまるっきり使っていない部屋を見せる際に彼は“松尾さん、この部屋は何も使ってないから、いつ来てもいいぞ、早く上海へ越して来い、ハハハ……・”
と。
事務所に戻ると、壁には上海と、中国国内の大きな地図が掲げられ、赤いシールが何ヶ所も貼られ、そこで彼は“松尾さん見てよ、この赤い所が現在、私の空手教室のあるところ、これからも、どんどん増えるからネ”と意気盛ん。“忙しいぞ。”と続く。
そこは、あたかも、次なる出店計画を幹部が作戦をねるスーパーマーケットの参謀室のようでもあった。
正直いって、次郎には喜屋武さんにずばぬけた経営の素質が有るようにも見えないが、ただ、彼には“追い風が吹いている”ことだけは確かだ。
良く、人は言う、“運も才能の内”。
してみると、運にも見放された次郎は、無能なのか?
次郎は“少しは自分の中に、人より才能があると思っていたが、ここまで運も、ツキも無いとなると、本当は無能だったのか?”と自分自身に問い掛ける。
次郎はさらに“無能なら、ダメオヤジのままでも恥じることもない。 人(他人)以上にガンバル必要もないのだが”と、ため息をついてみる。
彼の事務所を出た後、また車で二人は別の場所へ。
喜屋武さんは携帯でどこかに電話をしている。 そして、“松尾さん、メシ食いに行こう、いま女呼び出したから、一緒に食おう”
彼はつづけて、“俺いま、三人の女と付き合っているよ、いま飯に来るのは23(才)姉さんも来るから、松尾さん良く見て置けよ、紹介するぞ”
次郎は“ハァ…・、有難う、ごさいます”と会話をあわせ、そして“3人も付き合って奥さんに、バレませんか?”
“いや、わかんないよ”
“わかりますよ!”
“そうかもしれんが、うちの何も言わんぞ”
“それは、奥さんが偉いんですよ”
“(うちの女房)できているかもしれないな”
“そうですね、でも、喜屋武さん幸せですよ、羨ましいですよ、好きなように生きていて”
“そうかな……・確かに日本の友達たまに来るけど、やはり、羨ましいって俺のこと言ってるな、日本は何でも型にはめてしまうだろう、小さい事をコチョコ、コチョコ気にして、あれは(自分にとって)イカンナ”
次郎も“皆(日本人)もくだらない事に気にしすぎているの知っているんですよ、でも、それが世の中の”あたりまえ“になっているから、一人の力では崩せないんですよ”
喜屋武さんも“そうなんだよな”
さらに喜屋武は、“松尾さんもこっち(上海へ)来いよ!”
“フフフ…・・、イイですね”と次郎は話しは話として聞いた。
次郎は気持ちの中では、言葉でうまく表現できないが、日本では自分自身、何かに我慢させられているような……。
できるものなら、自分の生き方を変えてみたい。
しかし、中年の日本人がノコノコと中国にやって来て、オイソレとご飯を食べさせてもらえるわけもない。
サラリーマンとして本当の自分を隠して生きるのは辛いが、収入の保証がないのも又、別の辛さがある。
やがて喜屋武さんは車を中層の住宅群の中に車を回し、その団地の中とも言える道に停車させた。
“彼女達、ここに住んどるん、ここに暫く待っとって”と言い、携帯に電話し始めた。着いたことを彼女達に告げたのだろう。
暫くして、二人の女性が車の背後からやって来た。
“若いな”、次郎の彼女達にたいする第一印象はそれだった、そして二人とも細面の美人系。 喜屋武さんの彼女と思われる若い方の彼女の顔には、若い美しさの中に、若さゆえの生意気な表情を顔に映している。
思わず次郎は、喜屋武さんの子供でも良いような年の娘が、どんな魅力を中年の喜屋武さんに感じているのだろうか?と詮索した。
セックスはどのようにしているのだろうか?
若い彼女は、どう言うつもりで喜屋武さんに自分の若い肉体を提供しているのだろうか?
親子ほど離れた男に抱かれ、彼女は恥ではないのか?
喜屋武さんはその全ての矛盾を吹き飛ばすだけの、金を彼女に与えているのか?
次郎にとって、なぞの部分が多いが、少なくとも金の出所となっているのは喜屋武さんの仕事からである。
空手道場の経営がうまく行っていることは確かに見える。
姉の方は二十六、七か?もちろん若いが、妹の生意気盛りの顔に比べ、落ち着きを持っている。 この二人の家系は明らかに美人系だ。
しかも二人とも自分の美貌には自身を持っているのが次郎に伝わる。
次郎がどう考えても、喜屋武さんと不つり合いな、気の強そうな小娘。
そして美人の姉、しかし同じ美人でも、今回の上海入りで次郎が出会った劉さんの美しさとも違う。
劉さんよりも“智”の臭いがする。
そして、劉さんよりも自分を高く売ろうとしているのも次郎には読める。 喜屋武さんは、次郎に一つのチャンスを与えたつもりかもしれないが、次郎には、この姉とは何も始まらないのが分った。
“いや、もしかすると劉さんをとりあえず得たことで、これ以上の危険を避けようとしている、臆病になっている? あるいはハングリー精神を失っているのかも知れない”と次郎は別の見方を自分自身にしてみる。
車は、喜屋武さん行き付けのレストランに着いた。
食事中、次郎が思った通り若い彼女は、自分の親の年ほどの喜屋武さん仕切っていた。
喜屋武さんが次郎の目にはだらしなく映った。
しかし、この見方も次郎の価値観であって、意外と喜屋武さんは気にしてないかもしれない。
女の気が強いから、付き合わないは意外と、旧い日本的考え方かもしれない。
一方、やるだけやって、全てを一旦受け入れ、ダメならダメで不必要なものは吐き出し、積極的に忘れていく。
中国にはこうした生き方が往々にしてある。
彼等、中国人の生き方には付け足す事が、まだある、そして結果が何であれ、自分を責めない、倫理観だの何だのと、そして引きづらない。
あたかも、魚の中に石ころから泥まで一旦、口に放り込んで、必要なものだけ漉し取り不必要なものを吐き出す種類があるように、過去のことに、悩んでグジグジしない。
喜屋武さんだって、家庭がある、まさかその小娘に本気ではないだろう、この若い彼女といつ分れても問題はないはず。
喜屋武さんも、中国に長く住む事により、へたな倫理観に縛られないように、より生命力を備えた人間に進化したのかもしれない。 又、確かに、年の男が若い女を抱くのは、それは最上級の果実を啄ばむごとく価値がある。
年の離れた男女の肉は、老いた者を“恋ボケ”ともいえる、麻痺状態にさせる。
そして老いた者は、彼らの経験から、いかに若い肉体が価値あるものか、いかに若さとは本当は短いと言う事を知っている。
反面、時として、若者は自分の若さの価値を自覚していない。
この若い彼女にしても、エラから石ころを吐き出す例えの魚のように、喜屋武さんという石ころの中に何かしらの栄養ともいえる取り柄があるのだ。
しかし、“女の宝”とも言える体を差し出しても、自分が生きていく力とするたくましさ。
次郎が母から教わった、倫理観、多くの日本人が温めてきた武士道のようなものが、ここでは崩れている。
二十歳そこそこの中国小娘が、本来なら自分で苦労して時間を掛けて勝ち取るモノを、他人に取り付き欲しい物を手に入れ、機を見てさっさと人より先を急ごうとしている。
ここは上海だが、この悪い伝染病ともいえる風潮はやがて、海を渡るだろう。
次郎の本音としては、こうした淫らな女たちは抹殺したい。
死刑に値する。
しかし、時は変わり、人は自分と違う価値観、文化をもった人間と渡りあわなければならない日がやって来ている。次郎の先人である多くの人達が自らを規制し守ろうとした道徳、倫理観。
それらの人達が踏み固めてきた歩きやすい道、人の道とも呼ぼうか、これからは人々は石がごろごろした、不ぞろいの道を歩き慣れなれなければいけないようだ。
騙された、不誠実だと相手をののしるのは,敗者の泣き言かもしれない。
これから、女の大事なものを失う事に平気な輩(やから)と渡り合うのには、それなりの力というか対処法が必要かもしれない。
“力”とは暴力とか、腕力の意味でない。
それは自分の道を失わない信念と目標である。
なぜなら自分を守れなければ、その先はないのだ。
持ち金のない、ギャンブラーにも等しい。
食事も終わり、彼女達と次郎と喜屋武さん二人は旧の組み合わせに分れ散会した。
また、次郎は喜屋武さんの車に乗り、彼の思うところへ次郎は連れて行かれた。 上海市中の上海放送局の付近の武道館である。
建物は旧いが、中に入るとこの建物が丁寧に使われているのが解る。 建物に入るまでは、人気を感じないのに、中に入るとジム(各種の運動施設)になっていて人の動きやスポーツのかけ声があちこちから聞こえる。 次郎は喜屋武さんに連れられ建物の奥へ。
そこには、既に空手着を着た男女含め若者が40人程度、等間隔にいる、何時でも練習ができる状態になっている。
喜屋武さんが次郎に案内した、“ここにいるのは、おもに上海復旦大學の学生でワシの生徒”
“じゃや、皆、頭良いんですネ”と次郎、上海復旦大學は上海でも一番の有名校である。
この道場に喜屋武さんと珍客の次郎が来たので、生徒の視線が集まり出した。
そうしたなか、一人の空手着姿の背の高い、自身に満ちた男性がつかつかと次郎の前に来、“いらっしゃいませ、今日はゆっくり僕達の練習風景を見ていってください”と流暢な日本語で挨拶してきた。
顔から判断すると、どう見ても日本人ではない、なのに日本語がうまい、“日本語上手ですね、彼”と喜屋武さんに質問をなげかけると。
“もともと、台湾出身なんだけど、暫く台湾で日本企業で働いていたけど、そこが閉鎖され上海へやって来たのよ、彼がここの空手道場のリーダーとしてやっているんだ”
日本企業で働いて、日本語がうまい、次郎にはそれはわかるが、彼はどう言ういきさつで上海まで来たのだろうか? それが次郎にはミステリーであった。
この異国の地で、奇妙な日本人の喜屋武さんと奇妙な台湾人の彼が出会う。
この上海で、日本にいると感じない、人の一生は形式なんてない、常識なんてない世界を見る。
まもなくして、台湾出身の彼の号令で準備運動が開始された、笑える、号令は日本語で、また中国人の生徒もそれほどうまくない日本語で唱和する。
準備体操のあと、台湾の彼の号令のあと、中国人が日本語で“一つ、礼儀正しい……”と空手の心得を同じく唱和し続いている。
次郎は喜屋武さんと面識を持ってから初めて、彼の空手道場を見せてもらった。
“皆、聞いてくれ、今日は日本からお客さんが来ている、彼は私達の空手組織が世界の桧舞台に参加できるように、日本の空手協会に交渉してくれた立役者だ、じゃ、紹介しよう”突然、次郎はたくさんの生徒の前で一席述べる羽目になった。
もうすでに、生徒の視線は集まっている、逃げるわけにいかない。
次郎は中国語で、“皆さんコンニチハ、日本から来た松尾です、喜屋武さんとの付き合いも長くなりますが、今回、世界空手連合への加入おめでとうございます、どうか皆さんもこれからも、ますます練習に励んでください”と結ぶ。
ジムの壁際に置かれた椅子に次郎は座り、生徒の練習に見入る。
次郎には、喜屋武さんが少し羨ましかった。 彼の力で良くも、悪くもできる舞台がある、つまり喜屋武さんの空手人生。
次郎の場合、全て中途ハンパ。
かといって外国へ、例えば上海へ飛び出す、当ては次郎にはない。
その臆病の代償に、白旗を掲げ日本でサラリーマンを続ける。
“自分はこれで、いいのか?”と次郎は自身にふと、問いかけてみる。
ジムの中は、練習する選手の熱気に溢れているが、次郎一人、心は冷めたままだった。
(つづく)