今回でこのシリーズは最終回を迎えます。
全編を通して読んでいただける方に、一行でも、ワンフレーズでも心に残ることができたら光栄です。
(その12 最終回)+(後書き)
( 又、いつしかの船出 )
裁判は、この事件の担当書記官の援護にも支えられ翌年の5月に結審し、一月後に次郎は勝訴を得た。
あとは、次郎に出来る事は、早くこの件を忘れる事しかなかった。
劉さんと不幸な出会いをした事、結婚に至る前に既に、何か彼女の不可思議な行動があったにも拘わらず、次郎が踏みとどまれなかったことにも非がある。
劉さんに騙されたにしろ、結局は全て自分が悪いのだと、理解している。
(サラリーマン勤めは毎日がストレス・・・)
この背景には、次郎の歪な(いびつな)誰にも有りがちなサラリーマン生活にあるのかもしれない。
自分の余りあまるエネルギーを押し殺し、あたかもハタラキ蜂のように自分の役割を限定し、埋没しなければ生きられない会社人生。
会社では目立たぬよう、自分の輝かしい過去は間違っても社内では言わぬよう。
去勢された牛のように体の中にみなぎる、時には“良い意味での闘争心”時には“正義感”をも全て封じ込めなければいけない、サラリーマン生活。
しかもこうした社内での抑圧で、自分が意思に反し、捻じ曲げられているにもかかわらず立場上は“平静”すら装う生き方。
例えて言うなら、次郎に落ち度が無いにもかかわらず、とりあえず上司としておこう、その彼に怒鳴られ、それに怒りも反抗もできず、むしろ笑って自分から取り繕うバカ人間を演じる奇妙な大人になっているのかもしれない。
これは次郎だけに限らず、多くのサラリーマンが日常経験していることである。
この欲求不満状態を解消するために、一部の人達は時には酒で紛らわし、そして賭け事に、日頃の抑圧のはけ口として、肉体と金銭と時間を昇華している多くの人達がいることは確か。
しかし自分ではどうにもならない会社はともかく、次郎個人としては、もっと自分の体の中にある人間のダイナミズム(人間本来ある内に秘めた力や才能)を揺り起こす生き方を願っている。
(時に人は一瞬の出会いや経験で、人生は舵を大きく取る・・・)
ふと面識の無い人と偶然に会ったり、経験したことのない事から得られる、“利智”。
もしかして、未知や異質なものを引きつけられるのは、本来は少数派だけでも生き延びるための、生命の防御本能だったかも知れないと次郎は時には思う。
本流から離脱するのは劣性な行動にも見えるが、意外と劣性は一種の防衛あるいは進化の一形態なのかもしれない。
なぜなら、本流に留まれば、万一全滅の際にはその種が全てが全滅する、そして何も残らない。
ある高校の国語の教科書に渡り鳥なのに、時折群れと行動をともにせず何故かその地に残る鳥もいると書かれていた。
もしも、神が次郎にその未知や異質なものとの遭遇の役割を課したのなら、そのために、自分の余りあまるエネルギーをミッション(使者)というには大げさかもしれないが、そのために使いたいと願う。
だから、劉さんの件は失敗である事は確かだが、しかし次郎はどこまでも人の意外な生き方を望んで止まない。
(とりあえず日常へ・・・)
裁判が決着して、この頃では、次郎の心にも静けさが戻った。
そして今朝も駅のホームの同じ場所で、同じ時刻の電車のドアの前で、決まったように電車を待つ出勤途上の次郎を見ることができる。
そして、ひとたび、いつもの時刻の電車に乗り込むと、やや混んだ電車の中で、見慣れた髪の毛の薄い紳士が彼の指定席ともいえるいつもの場所の座席を陣取りスヤスヤと眠り、また別の長髪の中年男性がこれまた、いつもと同じ姿勢で反対側のドアに寄りかかっている。
“皆、変わらないな!真面目だな!いつもの時刻の電車、同じ車両、そして毎日ほとんど定位置、何時ものスタイルで乗車”と次郎。
そう言う次郎自身も、そんな一人なのだが。
しかし、いつも通りの生活をしている平凡な誰もが、何かの折りに触れ、そのいつもの生活から外れ、突然に人生の大航海を始めることもあるのである。
(終り)
( あとがき - 時には異端児を貫く )
まずは、この作品のご拝読に、感謝したい。
この作品は、読者の皆さんはお気づきと思うが、国際結婚を否定するものでもなく、又そのトラブル解説書でもありません。
あくまで、そうしたテーマを引用しつつ、変わりつつある日本と益々身近になってきた異文化との出会いをこの作品の舞台としました。
又、この作品から離れて、私達の現実の生活に目を向けても、折からの日本を含めた世界経済の大変革、一般の市民が今まで以上に変わらざるを得なくなってきています。
コンピューター・携帯端末を中心とした飛躍的発展、英語を中心とした言語の世界標準化の大波、結果として中高年のみならず若年層を巻き込む労働市場にも変化の波が押し寄せて、今までに無かった状況に突入しています。
ただ、この作品のなかの主人公、松尾次郎のように、従来通りの社会が崩壊しつつあるといえども、多くの会社人間は以前と従来型の社会に属し、自己の個性を殺し、ある程度の服従を余儀なくされています。
そこへ、春先の湖上の氷のように、サラリーマン社会の足元もぐらつき始める。
次郎のようなサラリーマンにも、異文化や英語、コンピューターに代表される世界共通化文化への脅威へ、同時にそれらのトレンドに興味を注がれるのも当然の成り行きのように思えます。
たまたま、この作品の主人公、次郎は上海にて何らかの一歩を踏み出したが、運悪く頓挫してしまった。
しかし、次郎の行為を、単に愚かとか、軽率とか評価は出来ないでしょう。
次郎のような平凡なサラリーマン生活を送る人も、体の中に眠る冒険心を揺すり起こす機会が突然現れるかも知れません。
結果の成否よりも、今こそ、私達に問われているのは、太古の昔、私達の祖先が危険をおかし遠い海の彼方からやって来たかもしれないことを、そして彼らの勇気を思い起こす時ではないでしょうか。
2000年 9月(作者)