中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

”私の長い一日、NY留学の扉を開けた日“

2017-09-13 17:43:40 | 海外留学
私の長い一日、NY留学の扉を開けた日
2017/9/11記

(恥ずかしい思いで)
 “Venture Hotel” ホテルという名をつけているが,見すぼらしい宿泊先がNYの最初の場所です。 1988年1月11日夕方、JFKから到着。 
その宿泊先より50M程先に日本レストランがあると管理人に紹介され食事。 48丁目ブロードウェイと8th.AVにある”博多(食堂系)“という所です。
 当日は日本から持ち込んだカップ麺を食べる予定でしたが、外食を選びました。この日は少し疲れました。 私はカウンターで味噌ラーメンを注文し食べました、美味しかった長い一日のご褒美です、落ち着きました。

 レジで会計を済ませ、雪の残るNYの歩道を宿泊先へ10M程歩いたところで・・・
・・・(小走りで近づく足音)・・・
“すみません(もちろん日本語です)”声を掛けられました。
“・・・(なんだろ?)”と私。
お客さん、チップ置いて行って無いですよね!”と博多のスタッフ。
聞いた瞬間、私は”恥ずかしさ“で全身が襲われました。 ここはNY、レストランで食事をすればチップを払う、知っていました。 しかしNY到着初日ましてや相手が日本のお店ということで甘えが入っていました

これを機にこの後の4年間の留学生活、レストラン(ファーストフードを除き)で快くチップを払えないのなら、家に有るもので済ませる、若しくはチップFREEの真冬でも石畳みに座り”シシカバブ“なんかを噛付くと自分の形ができました
この恥ずかしい話はアメリカ生活中、誰にも話していませんというか、口にすらできない事です。

(私の旅行ケースは超重量級)
 私は西川口駅の近くに住んでおり、当時は駅には駅改札に至るエレベーターもエスカレーターもありませんでした。 旅行ケースには入り切れないほどの荷物に溢れ、現在の留学生なら笑うかもしれない厚手の辞書が何冊も結果ハンパで無い重さに。 おまけに極貧生活にも自炊で生き延びるように念のために小型のフライパンも入れました、これで万一の場合は煮物も焼き物もやろうと(結局は一度も使いませんでしたが)。
他にスポーツバックに革ジャンを含む大量の衣類、そのため一度では階段を登れなく、両手に掛かる旅行ケースで腕が抜けるか?の状態でした

(飛行機から降りるは、私にとっての”清水の舞台“)
 成田からノースウエストの夕方便、飛行機と地球の自転速度は似ているので、窓のシェードから漏れる機外の様子は、暫く暗く夜間と思えば、また夕日が差し込む繰り返し。
私の隣の乗客は中年のフィリピン女性、話せばNYで仕事、住まいはマンハッタンの北。
今ほど当時はインターネットも無くその他、情報も入手しずらく、現地に友達も親戚もいない私にとって一番の悩みは上手く今日、宿泊先“Venture Hotel”に無事たどりつけるかでした。
アメリカNYに留学を決めてから約半年、ただこの一点が気がかりでした。 飛行機を降り税関を通り入国するまではできるだろう、しかしタクシーを捜しその後、無事に友達の紹介のホテルに行けるのだろうか?
その時、私が拠り所にしたのは一冊のコンパクトサイズの旅行ガイドだけでした。 その中に書かれた簡単な案内図、税関を出て直進して建物出入り口へ、屋外へ出たら左へ直進、しばらくするとタクシー乗り場に出くわすことになっていた。
その情報はどこまで正しいのか?タクシー乗り場までどれ位歩くのか?

この半年間、良く飛行場の税関出口で迎えの客の名前を掲げ待つ状況が羨ましかった。
そして、その時は揚げ句の果て隣のフィリピン女性が今晩は自宅に寄って行けなんてオファーがないかな?と妄想までも。

その時ばかりは飛行機がJFKに着陸しましたが、何時までも座席にへばり付いていたい心境だった、機内に残る乗客も疎ら(まばら)になり、意を決して空港ターミナルへ。




タクシー乗り場は旅行ガイドと一致
 いざ税関出口から空港ホールに放り出されると、途端に何人もの客引きが”TAXI?“、”TAXI?“と蜂の攻撃のように、どこまでも付きまとい、若干の恐怖感を振り払うかのように足早にターミナル出口へ突進しました。
未だ日が残る屋外へ出て、もう残るはTAXI乗り場は何処?しかありません。
若干、距離はありましたがTAXI乗り場を確認できました。
“有った、有った、良かったガイドブック通りだった!”

“・・・・・・フー・・・良かった、とりあえず街(マンハッタン)に出られる”

ドライバーの意地悪
 藁(わら)にもすがる思いでタクシーに乗り込みました。
運転手は旧い漫画“小さなバイキング”のお父さんにも似た体格、走り出すと何かと話しかけて来ました。 
“日本人か? (その後)何やらかんやら・・・・・・”とドライバー。
立て続けに話しかけられる会話に思うように答えられず、留学を決意してからの日本での駅前留学の個人レッスン、JAPAN TIMESの夜間クラス、恵比寿の英会話喫茶通い、テープを買い込んでのリスニングはもちろんの独学の全てが“歯のたたない代物(しろもの)”であったことが知らされました。
おまけにドライバーは給油と称しガスSTATIONに車を横付け。
“JFKのほど近い場所で早くも給油、客を取る前に何故準備をしておかないのか???”
と言うよりは、結果ただ“舐められているだけの事、でも今は友達に教わったHOTELにたどり付ければ良いのだ。
・・・・・・(タクシーはマンハッタンに向かって走行)・・・・
車は相当走って、セントラルパークのかなり北からマンハッタンに入ったので、運転手は意図的に遠回りしているなと思ったが、それもどうでも良かった。
自分がトラウマになって気にしていたのは万一、夜も更け重い旅行ケースを引き下げホテルが見つからず街を行ったり来たり、ホームレスに“いじくられる”自分の姿でした

マンハッタンは碁盤の目、丁目と大通りの名前で場所が分かるはず、車窓から見えるあの緑の道路標識でホテルに近づいたのは分かる、ドライバーはHOTELを捜しているようにも見えるがいっこうに着かない。
見つからないな? 潰れちゃったんじゃないか?”とドライバー。
“いや、そんな事はないこの2日前に日本から国際電話し予定通り行くことを話てる”と私。
その界隈のブロックを2周半し、ドライバーはついにこれくらいで勘弁してやろとばかりに車を静かに246WESTの前の歩道横に止めました。
私のように新参者には車から薬局,雑貨屋、土産物屋の識別は難しい、ましてや看板もないHOTELとも呼べない建物を唯一246Wだけで捜すは難しかった。

運賃を受け取ると、山賊から普通のオジサンに戻ったドライバーは僅かに笑みを浮かべ私に握手してきました、彼のお芝居も終わりました。
私もこれで留学前の“ウヤムヤ”も消え去り、結果これから4年以上に及ぶ留学生活の扉を開けることが出来ました
(続く)