あの頃・・・こういう別れ、プラザホテル前
2020/11/2記
後に友人となる、ケンジさんと会ったのは恵比寿より歩いて8分ほどの地下の英会話喫茶“コーン・ポッパー”。 それは1987年、土曜日の夜はパーティーと称し、熱気であふれて居た。 今から思えば、人や金の流れはある現象をテコ(レバレッジ)として”急流のようにドット流れ込み、そして凪を迎えたり“と様相を変える。
その後、私はニューヨークに行っています、急激な円安で”高嶺の花”だった海外旅行や留学が広く可能となり、公務員や学校の教員そして正社員のポジションを捨ててまで日本を飛び出してきている20~30代の若い人々を多く見ている。
パーティーは面白く、山の手線の終電間際まで離れることができなかった。
そして恵比寿駅で最終に近い電車に間に合い、パーティーの参加者からもらった、古い”OCSニュース“というタブロイド判の新聞を読んでいました、すると向かい側の席にいた見知らぬ男性が声をかけてきました。
“OCSニュースを見てらっしゃるので、ニューヨークに私は住んでいたので懐かしく、声をかけてしまいました、すみません”。
“(私)いいえ別に、そんなに有名なんですかこれ? 確かにアルバイトとかの求人情報も載っていますよね、実は私、明後日ニューヨークに行くんですよ”。
“(彼)羨ましいな、仕事ですか?”。
”(私)いえ違いますよ、この年で人生のやり直しです”。
電車が渋谷に着くと、乗客が乗り切れないほどドトーの如く、これが最終電車?と驚くほどたちまち満員状態、自分にはすべての光景が80年末期を彩る“熱い”風景でした。
(He gave me a start 友達の情報を頼った)
取りあえず留学先は雑誌留学ジャーナルを通して、迷った末にNYのコロンビア大学の英語学校と決めました。 ただ宿泊先はコロンビア大学の情報に何カ所かありましたが、英語が“ヨチヨチ歩き”の私には文章も難解でイメージがわきませんでした。
結局、コーン・ポッパーで知り合ったケンジさんが、1年半住んでいた先輩という事で紹介された場所に決めていました。 そこはタイムズ・スクエア―近くで少しガラの悪い場所、シャワーの温度調節ができず、でも映画“真夜中のカウボーイ”に出てくる“RATS &
ROCHES(アメリカではネズミやゴキブリの巣窟の、悪環境の意)“よりややましのランク。 週$150が安いか高いか?も分からぬ所からはじまりました。
ケンジさんがどれ位ここに住んでいたか?分かりません、しかし後々考えて、お金の事より人の出入りの無い寂しい此処に彼は良く住んでいたなと。
私はその後、WESTのYMCAに引っ越します学生割で週$100で安く、その後学校近くのINTERNATIONAL HOUSEで2年半住むことになります。
(友達ケンジさんがNYに来ることに)
その2年後、ケンジさんがNYに再び来ることになりました、それも短期旅行でもなく、長期に。 彼からは私生活のことは仕事を含め余り聞いていません、再来の目的は? そして私も既にケンジさんを頼らずもNYで生活に困ってはいませんでした。 何しに来るのだろう、別に留学でもないだろうし? 第一、人間って一度区切りを付けたら片道10時間以上のフライトは苦痛なはずです。
彼がNYに来てから、専ら私の部屋にタビタビくる形で、出来るだけ日本人が喜ぶカレーライスやシチューを彼に料理しました。 皆さん分からないと思いますが、シェアールームでキッチンを使い食事の支度は容易ではありません、これでもご馳走です。
そして彼の趣味は将棋です、日本から持ってきた将棋を紙の将棋盤で2~3戦、私が勝つことは稀で常に彼が勝利、別にお金をかけていなくても、コテンパンに打ちのめされるのは私とて面白くありません。
そして“アルバイト何か無いかな?”と彼と会えば必ずでてくる話題です、私もその時は約1年求職中でした。
(留学4年目にはクイーンズに引っ越し、韓国リムジン会社でバイト)
1年半働いたトランプタワーの見える美容室を“首になり”、昔の英語のクラスメイトの紹介で、韓国リムジン会社で働く、給料は相場の時給5ドルで電話と無線での韓国人ドライバーへの指示です。
時にはIRS(インターナル・レベニュー・サービスつまり税務署の調査)からの電話、この際は絶対にこの会社で働いているとは話してはいけません。 経理担当者との話の他、無届従業員の調査も兼ねています。
またある日、日本人の20~30代の女性からアルバイトを募集してないかの問合せ、例の“OCSニュース”を見て電話しているとの事、話し方や会話力も良く、顔こそ見えないが、日本に居れば直ぐにでも職は見つかったのに、彼女も日本を飛び出してきてしまったんですね。 彼女3ヵ月まえの古いOCSニュースを見て電話したというが、アメリカでの職探し(バイトも)は誰もが無我夢中です。
OCSはNYの紀伊国屋で手に入りました、当時はバイトを探す日本人にはバイブルです。
(それで終わった・・・)
ケンジさんとは久しくしてコロンバス・アベニューの静かなCAFE でお茶をし、彼は例の如く将棋を取り出し、私も仕方なく付き合いました。 オーナーは長居する私たちをジャケにするわけでもなく、心地の良いお店でした。
ここでもケンジさんはアルバイト無い?と私に。
“無いよ”
“(彼)あの今働いている、韓国リムジンのところはどう?聞いてみてくれないかな?”
“(私)ムリだよ、自分のほかに別の日本人も昼間働いているし、それに時給5ドルだよ”
そうこうして私たちは店を出て、ダウンタウンの方へ足を向けて進みました。
これと言って、話すこともありません、まして男同士ですから。
お互い店や街並みを見て話しかける事もせず、並んで歩いても顔を見ることもなく。
そしてある段階から、彼と私の距離が離れ始めました。
“(私)あれ、どうしたんだろう?”
自分の歩きが遅いのかな?
五番街にも近くなったことから、周りを歩く人達も増え、彼との距離は数メートル。
どうしたんだろう、別にわざと遅れて歩いているわけでもないのに、彼は後ろを一度も見て確認するわけでもなく・・・一度も
プラザホテルそしてテイファニーが視界に入る頃には、前方、10~20Mの人混みにケンジさんの後姿が見え隠れする状態で・・・
私が彼のアルバイト探しに役に立たなかった以外、私は何も悪いことをしていない。
彼を追いかけようとも思いませんでした。
私は終わったな・・・と思いました。
(また、別のプログで)
2020/11/2記
後に友人となる、ケンジさんと会ったのは恵比寿より歩いて8分ほどの地下の英会話喫茶“コーン・ポッパー”。 それは1987年、土曜日の夜はパーティーと称し、熱気であふれて居た。 今から思えば、人や金の流れはある現象をテコ(レバレッジ)として”急流のようにドット流れ込み、そして凪を迎えたり“と様相を変える。
その後、私はニューヨークに行っています、急激な円安で”高嶺の花”だった海外旅行や留学が広く可能となり、公務員や学校の教員そして正社員のポジションを捨ててまで日本を飛び出してきている20~30代の若い人々を多く見ている。
パーティーは面白く、山の手線の終電間際まで離れることができなかった。
そして恵比寿駅で最終に近い電車に間に合い、パーティーの参加者からもらった、古い”OCSニュース“というタブロイド判の新聞を読んでいました、すると向かい側の席にいた見知らぬ男性が声をかけてきました。
“OCSニュースを見てらっしゃるので、ニューヨークに私は住んでいたので懐かしく、声をかけてしまいました、すみません”。
“(私)いいえ別に、そんなに有名なんですかこれ? 確かにアルバイトとかの求人情報も載っていますよね、実は私、明後日ニューヨークに行くんですよ”。
“(彼)羨ましいな、仕事ですか?”。
”(私)いえ違いますよ、この年で人生のやり直しです”。
電車が渋谷に着くと、乗客が乗り切れないほどドトーの如く、これが最終電車?と驚くほどたちまち満員状態、自分にはすべての光景が80年末期を彩る“熱い”風景でした。
(He gave me a start 友達の情報を頼った)
取りあえず留学先は雑誌留学ジャーナルを通して、迷った末にNYのコロンビア大学の英語学校と決めました。 ただ宿泊先はコロンビア大学の情報に何カ所かありましたが、英語が“ヨチヨチ歩き”の私には文章も難解でイメージがわきませんでした。
結局、コーン・ポッパーで知り合ったケンジさんが、1年半住んでいた先輩という事で紹介された場所に決めていました。 そこはタイムズ・スクエア―近くで少しガラの悪い場所、シャワーの温度調節ができず、でも映画“真夜中のカウボーイ”に出てくる“RATS &
ROCHES(アメリカではネズミやゴキブリの巣窟の、悪環境の意)“よりややましのランク。 週$150が安いか高いか?も分からぬ所からはじまりました。
ケンジさんがどれ位ここに住んでいたか?分かりません、しかし後々考えて、お金の事より人の出入りの無い寂しい此処に彼は良く住んでいたなと。
私はその後、WESTのYMCAに引っ越します学生割で週$100で安く、その後学校近くのINTERNATIONAL HOUSEで2年半住むことになります。
(友達ケンジさんがNYに来ることに)
その2年後、ケンジさんがNYに再び来ることになりました、それも短期旅行でもなく、長期に。 彼からは私生活のことは仕事を含め余り聞いていません、再来の目的は? そして私も既にケンジさんを頼らずもNYで生活に困ってはいませんでした。 何しに来るのだろう、別に留学でもないだろうし? 第一、人間って一度区切りを付けたら片道10時間以上のフライトは苦痛なはずです。
彼がNYに来てから、専ら私の部屋にタビタビくる形で、出来るだけ日本人が喜ぶカレーライスやシチューを彼に料理しました。 皆さん分からないと思いますが、シェアールームでキッチンを使い食事の支度は容易ではありません、これでもご馳走です。
そして彼の趣味は将棋です、日本から持ってきた将棋を紙の将棋盤で2~3戦、私が勝つことは稀で常に彼が勝利、別にお金をかけていなくても、コテンパンに打ちのめされるのは私とて面白くありません。
そして“アルバイト何か無いかな?”と彼と会えば必ずでてくる話題です、私もその時は約1年求職中でした。
(留学4年目にはクイーンズに引っ越し、韓国リムジン会社でバイト)
1年半働いたトランプタワーの見える美容室を“首になり”、昔の英語のクラスメイトの紹介で、韓国リムジン会社で働く、給料は相場の時給5ドルで電話と無線での韓国人ドライバーへの指示です。
時にはIRS(インターナル・レベニュー・サービスつまり税務署の調査)からの電話、この際は絶対にこの会社で働いているとは話してはいけません。 経理担当者との話の他、無届従業員の調査も兼ねています。
またある日、日本人の20~30代の女性からアルバイトを募集してないかの問合せ、例の“OCSニュース”を見て電話しているとの事、話し方や会話力も良く、顔こそ見えないが、日本に居れば直ぐにでも職は見つかったのに、彼女も日本を飛び出してきてしまったんですね。 彼女3ヵ月まえの古いOCSニュースを見て電話したというが、アメリカでの職探し(バイトも)は誰もが無我夢中です。
OCSはNYの紀伊国屋で手に入りました、当時はバイトを探す日本人にはバイブルです。
(それで終わった・・・)
ケンジさんとは久しくしてコロンバス・アベニューの静かなCAFE でお茶をし、彼は例の如く将棋を取り出し、私も仕方なく付き合いました。 オーナーは長居する私たちをジャケにするわけでもなく、心地の良いお店でした。
ここでもケンジさんはアルバイト無い?と私に。
“無いよ”
“(彼)あの今働いている、韓国リムジンのところはどう?聞いてみてくれないかな?”
“(私)ムリだよ、自分のほかに別の日本人も昼間働いているし、それに時給5ドルだよ”
そうこうして私たちは店を出て、ダウンタウンの方へ足を向けて進みました。
これと言って、話すこともありません、まして男同士ですから。
お互い店や街並みを見て話しかける事もせず、並んで歩いても顔を見ることもなく。
そしてある段階から、彼と私の距離が離れ始めました。
“(私)あれ、どうしたんだろう?”
自分の歩きが遅いのかな?
五番街にも近くなったことから、周りを歩く人達も増え、彼との距離は数メートル。
どうしたんだろう、別にわざと遅れて歩いているわけでもないのに、彼は後ろを一度も見て確認するわけでもなく・・・一度も
プラザホテルそしてテイファニーが視界に入る頃には、前方、10~20Mの人混みにケンジさんの後姿が見え隠れする状態で・・・
私が彼のアルバイト探しに役に立たなかった以外、私は何も悪いことをしていない。
彼を追いかけようとも思いませんでした。
私は終わったな・・・と思いました。
(また、別のプログで)