中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

平成くたびれサラリーマン上海へ行く (その5)浮草にしがみつく

2018-03-29 09:34:14 | 小説
この小説の主人公、松尾次郎が90年代末に友人から紹介された女性に会いに、中国上海に来ています。 一見、ワザワザ会いに行く側にアドバンテイジが与えられている感がありますが、そこは男女の話、ましてや、舞台は中国となると日本での常識は通じません。

生を受けて、何もせずして朽ち果てるは愚
しかし一度、外界との扉を開けるにも覚悟が必要、生に始まり死で完結するように貫徹せざるを得ません。
結果が良くも悪くも受け入れるという

私が昔、高校一年生の時、学校を辞めて働くと決めて来た時、
母は察して”(一代決心するのは)怖いでしょう・・”と声をかけてくれたのを憶えています。




その 5)
( 浮き草にしがみつく )
 
男女の関係とは不思議なもの。
付き合う時間の長さは、ともかくとして、ヒトタビ一夜を二人で過ごすと、相手を見る目は変わる。
それは、あたかも今まで自分が自分自身の肉体の主人であったものが、それが自分の体から離れ、自分の力の及ばぬ、何か自分意外のものに運命に任せるような
何か宇宙の法則に身を任せるような。

ホテルのわずかに開いたカーテンから差し込み始めた光りで、次郎は旅の朝を知る。
上海へ来ての2日目の朝である。
そして、ベッドとコンソール・ボックス(電話台を兼ねた、ライトなどのスィッチボックス)をはさんで隣りのベッドには、上海女性、劉さんがまだ、目を覚ましていないのか?横になっている。

時に夜は、理性を封印させる。
男女に前に突き進むことをそそのかす、あたかも“そんなに真面目に考えなくて良いんだ、とりあえず男と女になっておけ”とばかりに。
それは悪魔が、生真面目に物事を考えず、後のことは気にせず早く、オスとメスになれと、そそのかしているようでもある。
そして、悪魔の洗礼をうけ“メス”と化した女性の寝姿を、朝日の差し込むなか次郎は自分の脇に見るのが好きだった。
一晩の男女の営みで、通りすがりの見知らぬ人から、仲間同士になったような。
不思議と昨夜の次郎と劉さんの行為によって、彼女を“認めよう”とする気持ちが次郎の中に生まれつつある。 

つまり、昨日の夜、次郎と彼女が男女の仲なる前に、次郎が、真面目腐って、前のご主人との別れた理由、また、それが本当か嘘かなど、どうでも良くなる。
神は、男女が一度でも肉体関係をもつと相手を疑ってかからないというように創りあげたのだろうか?

今回、上海で次郎は二人の対照的な女性に会っている、そして、もしも次郎の側から誰にするか選べるのなら、孫さんを選ぶだろう。
女性としては、背は高くないし、容姿で自分を売るタイプではない。
だが孫さんの頭の良さが心地良かった。 説明するのに、何度も同じことを言う必要もなかった。 

一方、劉さんは離婚経験が有るが、背は高く、20代の若さではないにしろ容姿は美しかった。
 しかし、話題に乏しく、比較的無表情な顔の裏に何を隠しているか
という次郎にとって未知数の部分があった。






しかし、次郎の頭の中は矛盾だらけだった。
朝の明かりを感じて、ベッドの上で、たびたび寝返りを繰り返す劉さんのブランケット(毛布)の動きを見ながら、男と女の関係になったのだからこの先、彼女を日本に連れて行くか、と次郎は考えても見る。
次郎は、当初から、仮に中国女性と結婚するにしても、大きな期待をしていなかった。
小さな幸せで十分だった。 毎日の生活が、ほどほどに楽しく、仮に中国女性が日本に来ても、少しずつ彼女が、日本に慣れ、何年かの後、その女性が日本にきて良かったと思ってくれたら、次郎にも十分幸せだった。
劉さんとなら、多少次郎と波長が合わない面もあるが、彼女は語学力や、中国での経験を日本で活かすタイプでない。
次郎から自立したいと言い出すタイプではない。
そして、人当りもそれほど良いわけで無く、彼女自身、仮にも本当の意味で水商売には適していないと多分、知っているだろう。
彼女は日本に来ても、限りがある、彼女自身、次郎の傍にいたほうが、マシと悟るだろう。
次郎は自分勝手な想像をする。
女の温かみは、それほどないが、器量とスタイルはなかなかなのだから、次郎は“手を打っても良いか?”と考え始めていた。

しかし、次郎にはイタコ商会の山下の声が聞こえるようでもある。“女なんて、適当に付き合えば好いんだよ、俺なんかうまいこと言って、中国人とは何人とも寝ている、結婚するのは、その先の話だよ。”
次郎には、山下が多少羨ましくもあるが、その辺が山下と違っていた。
たった、一回でその気になるなんて、また、自分の好きなタイプの孫さんには正直に自分を言いすぎて、自分から自滅して、自分から逃げようとしている。
孫さんと、劉さんの二人を二股にかけ適当に付き合い、自分の答えを自分本意、自分勝手に探すのが一番好いのだが、そういうノラリクラリは次郎の苦手でもあった。

二人で朝食をとった後、そうそうに上海市内にいても変わり映えしないということで、一泊で明日一緒に南京まで足を伸ばすことに。
とりあえず、切符を今日前もって手配しておこうということで、タクシーで二人は上海駅へ行く。

どうやら正面入り口の脇の方に、切符売り場が有るらしい。駅に着いてから、何やら次郎に声をかけてくる、見たところ“ダフ屋”やらしい。 ダフ屋家業が専門に見える男もいれば、傍らに子供を抱え生活苦の匂いをさせながら、たった一枚の切符を手にする女性もいる。 外見から一見してダフ屋とわかる者から、子持ち、若い小娘まで。 そこかしこで喧嘩か切符の売買か訳の分からない世界がが繰り広げられている。自分の親ほどの男に向かっても怯まない(ひるまない)中国の若い女の娘の売り手、この辺が日本人と違う。

まさに、ここ上海駅周辺は人の行き交う、人生の交差点でもあるらしい。
彼らは、一応に“トィピョ-(退票)” “トィピョ-(退票)”と駅に入ってくる人間に声をかける。 そんなダフ屋に、上海の人間の誰もが見向きもしないのかと思えば、それが、そうでもない。 人々は試しに、ダフ屋がどこ行きの切符を持っているのか? そしていくらで売るのか、聞くのだ。

次郎と劉さんは駅脇の切符売り場に入ると、窓口にはたくさんの人が列をつくっている、窓口には各方面の停車駅が書かれ、もちろん蘇州、南京方面もまた長蛇の列。 日本人の次郎にもこれは、いつになったら自分たちの番になるか想像つかない。
次郎と劉さんは顔を見合わせた、どうするとばかり。
劉さんは、ダフ屋から切符を買うのはどうかと、次郎に提案、正直言って、次郎はマイナーなルートから買うのは好きでなかったが、仕方なかった。
見知らずの男に声をかけることができる、これが中国の女性なのだ。
必要とあらば、年長の男と口喧嘩も。

劉さんは辺りのダフ屋数人と話しをしたかと思うと、南京行きの切符を手にしてきた。
値段を聞くと、正規の料金36元に手数料として、わずか数元しか載せていないのにも驚いた。
これで、ダフ屋と呼べるだろうか、これでは次郎には、単なる便利屋にしか見えない。

南京行きの切符を手にすると、以外にも劉さんはどうせ南京へ行くのなら、多少オシャレして行きたいから、流行の靴を履きたいという。
次郎にしたら、それもわかるし、せがまれて劉さんをつっぱったイメージから普通の女性に変わったように見え、可愛くも思える。
タクシーで徐家フィ(上海の繁華街の一つ)へ向かいデパート近辺で降りる。
2年前来たとき、中日辞典を買った事の有るこの大きな交差点に面した、旧い本屋のあたりに次郎は目をやると、跡形も無い。
次郎には、少し淋しい思いがする。
その本屋があったと思われる場所はセットバックされ、その後ろには何のビルとも知れぬ背の高い新しい建物が。
今、上海人は言う、“二,三ヶ月も(同じ場所へ)行かないでいると、(自分たち上海人でも)勝手が解らなくなる”と。
それだけ、上海の再開発が凄まじい

デパートに向かう二人に、何故か?次郎だけを目掛けて、小さな子供達が詰め寄る、金をくれといっているのだ。
子供でも相手はプロだ、次郎がよそ者とわかるのだろう。
日本の子供と違って、体格はガッシリしている、しかし服装は粗末な、そして顔はどれほど風呂にはいっていないかと思わせるほど、汚れ日焼けしている。 
子供達と思えない、底力と野生の動物にも似た迫力で次郎を、そのままタダでは、行かせまいとする。 彼らは体を寄せ、ものすごい力が次郎に伝わってくる。 
山道で突然、イノシシか何か襲われたにも似ている、自分の胸にも達しない子供に、次郎の体は無意識のうちに全力で抵抗していた。
思わず、次郎はズボンのポケットにある小銭に手をやりあげようとすると、劉さんは次郎のそれを静止した。
“もしも、一人でもあげれば、この辺りの物貰いの子供がすべて寄ってくる”と。

その子達の顔には、僅か十歳にも満たずして、世間から見捨てられた、社会から捨てられたと書いてあるようにも見える。
彼らはこの生き方では、既に筋金入りのプロなのだ
彼らに、親はいないのか?
多分、学校にも行ってないだろう。

デパートの靴売り場で、劉さんは好みを選び始めた、膝までくるブーツを履きたいと言う。
上海ではロング・ブーツが流行と言う。
南京では、そんなオシャレなブーツはまだ、流行っていないだろうから、自分が都会人であることを、見せびらかしたいらしい。
あたかも、日本の地方出身者が帰郷するとき、都会の流行を見に着けて、凱旋したいのと似ている。
しかし、驚くことに、彼女の試着するブーツの価格は800元,900元、日本円で一万五千円位になる。
劉さんの給料は月1000元と聞いている、つまり一足のブーツはそれと同等になる。
ただ、中国で、物価は給料に対して、安いの高いのと言う論議はムダである。
外国人からみると、中国の物価は経済学の世界のカヤの外に有る。
中国経済は、常識はずれの世界(この小説が書かれた、2000年以前から)。
次郎にしたら、一般庶民が、給料でどのように、生活しているか、奇跡としか言いようがなかった。

次郎は、何となく戦後の日本を思い出す。
次郎の家では、力道山の空手チョップが見たいばかりに、当時、年収の半分の白黒テレビを買った。 その反動とは、いわないが次郎の家はその後も借家住まいだった
国策とはいわないが、庶民の高値の花のテレビを買い、次郎の家はその後も貧乏だった。
それが、テレビなんて、今やクズ値の価値しかない。
当時、子供であった次郎でさえ、この世の中のカラクリは理不尽だと思う。
それに似たことが、日本で起こった何十年後の今、中国で繰り広げられているように見える

劉さんは、自分の気に入った、一組を選び、次郎に同意を取り付け、それを自分の物にすると、普通の女性のように嬉しそうだった。

翌朝、二人はホテルで朝食をすませると、多少の手荷物をもって、上海駅へ。
切符を手にし上海駅の正面から改札を抜けエスカレーターに乗り上層階へそして、コンコースを通り、広大な客待ちへ入る。

薄暗い広い待合は人で埋め尽くされ、木製のベンチシート式の椅子が、正面から入り口方向に何本も通されている。 人々は通路を挟んで向かい合わせで座っている。
そこは単に列車の待合室というより、とてつもない乗客の数で”引き揚げ船(戦後、日本人が外地から死に物狂いで乗船した船)”を待つ緊迫感すら漂っている。
正面壁には、はっきり各電車の向け地、出発時刻、快速であるか否かが、赤い文字で電光掲示されている。

座る場所もなく、二人はそこいらをブラブラすると程なく、改札となった。 人々は、いつもながらの、あわただしさで列を作り、待合正面の奥に有る別の出口からホームへ通じるコンコースへと吐き出されて行く。
列車ホームへ着くと、既に列車は入線しており、自分たちの車両めがけ、急ぐ。
各列車入り口には女性の乗務員が乗客の乗り込みを待つ。
深いグリーンそして、やや大きめの車両、次郎は“これは、中国らしいな”と、次郎は思う。
席につき、暫くして列車は走り出す。 市内の間はややスピードを控えめに、そして郊外へ抜けると加速した。
主要駅に停車する度に乗客は降り、蘇州、無錫をへて南京へ約3時間で着く。

中国の駅前は、たいてい片方だけ開けていて、広場、タクシー乗り場等になり大きな道路へと面している、南京駅もしかり。
南京は上海市より少し小さいが、十分に大きい。 そして、蘇州、錫州、広州の大きな町は全て上海に通じる。
現在は、鉄道も従来のもの、高速道路もこれからだろう、もしもこれらの町が、すべて新幹線、高速道路で結ばれたら、急速に経済効果が上がる。
今でも、これらの町は上海から遠くはないが、もし新幹線が開通したらこれら上海に近い大都市は東京―横浜の感覚になる。
諺に、“全てはローマに通じる”というフレイズがあるが、次郎には、このフレイズは現在の上海のために有るように感じる。次郎には、上海の潜在的な将来性を強く感じる。

町の随所に、ケンタッキーやマクドナルドの看板を見うける。
自由主義経済は、無差別的に中国の都市を塗りつくそうとしている。
南京に来て、次郎は劉さんとの愛を深めると言うより、上海近郊の大都市の変わりように目を見張った。
あたかも市場調査にでも来ているような感覚になっている。

劉さんが、次郎に買わせたブーツは確かに効き目が合った。 全てではないが、南京の何人もの女性が彼女のブーツに視線をやるのを次郎も気がついた。
それには、彼女も満足げだった。
そして、次郎が意外だった事は、僅か列車で3時間あまりの所で、彼女の上海語が通じない。
劉さんが北京語を南京では使う。

南京では、中山陵、日本軍による大虐殺の記念跡などを見学し、二人は翌日の午後の列車に乗りこむ。
再び、列車で上海へ戻る。
来るときと違い、次郎も見知らぬ中国人と席を同じくすることに慣れ、何かぼんやりと、列車の外を眺める事ができる。
その分、気持ちはまた、次郎の大命題というべき所へ戻ろうとしていた。

劉さんの横顔を見ながら、“自分は、何を,この劉さんに期待しているのだろうか?”
そして、“何となく次郎が劉さんとシックリしないのは何なのか?”

そして、自分はどこへ流されて行くのだろうか、本当はどこへ行きたいのだろうか?”
“自分はどこへ行こうとしているのだろうか?”
もしも、この世に神がいるなら、次郎に安住の地を与え、この地球上で何かを求めて、放浪する次郎を止めて欲しかった
優しい母のように、教会に掲げられるマリア像がもう、これ以上ムリをしなくていいと次郎に言って欲しかった。
“もう、ガンバラなくていい”と,言って欲しかった。


(つづく)


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