こうした欲求が満たされない為に、日本の子供達は幸福感が低いのかと思われ、私は幸いそうした棲みかを北海道と新宿の箱根山で持つコトが出来ました。
物語は第五章の「棲」に入りまして、トゥルクとシバ爺の同棲を描きます。
シバ爺は見晴らしの良い木の上に棲みかを作っており、そこを少し増築してトゥルクも住めるようにします。
シバ爺は100歳を裕に超えた老人ですが、まだまだ足腰は達者で山で生きる術をトゥルクに教えます。
1人暮らしが永かった彼は若い女性との同棲に幸せを感じ、昔のコトを色々と彼女に語ります。
シバ爺はかつて何人か妻を娶ったコトがあり、子供も多く育てました。
しかし戦乱でその家族を全て失い、世捨て人となってヒマラヤに棲み付きました。
彼は西から来たとし、西洋人の風貌ですが言葉は巧みで、多くの言語をトゥルクに教えるとします。
昔の人は読み書きこそ「子供レベル」でしたが、脳の容量は決して現代人にヒケを取らず、文章の代わりに話し言葉の芸術性が発達していたと思われます。
シバ爺は多くの国々を遍歴し、それらの国々の詩や歌に精通していました。
これらを良く学んでくれる生徒に恵まれて、彼の心は喜びに満たされます。
そうして2人はいつしか、百歳余もの年齢差を超えて結ばれます。
これは今だかつて誰も描いていない物語かも知れませんが、決してファンタジーではなく、男にはそうしたポテンシャルが備わっています。
前回挙げた中国の仙人も150歳で子供を作ったとされており、これは多分に誇張が入っているでしょうが、生物学的にもこのポテンシャルは認められています。
しかし現代人は精子の老化が早く、40歳で早くも覚束なくなる人が多いそうです。
それには大気汚染や電磁波、ストレスや睡眠不足、食生活の乱れや運動不足など、様々な要因が関わっているとされています。
宮崎駿の作品でもこうした、ヒトの種としての衰えをテーマとしたモノが多く、昔のヒトはデジタル機器こそ全く使えなかった代わりに、動物的なポテンシャルは現代人よりもずっと高かったとしています。
私の物語でもこのテーマを追及しようと思っており、樹上暮らしで鳥と共生するコトにも何かポテンシャルがあると、次回に描いてみます。