物語の舞台は、頼朝に追われる義経が北国へ逃れる途上の関所で、そこを越えられれば北海道まで落ち延びれる、という「難所越え」を描いています。
この作品が何故米軍の検閲に引っ掛かったかは容易に想像でき、それは源氏が天皇家の血を引く者達であり、その義経が神格化された存在として描かれているからです。
これは黒澤明の本意かどうか定かではありませんが、戦中に天皇家の映画を撮る上では避けられないコトだったと想像します。
その後義経は、北海道から大陸に渡ってモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンに成った、などという伝説も残されておりますが、これは明らかに当時の「大日本帝国」がモンゴルにまで勢力を広げていたコトから生じた「神話」でしょう。
「虎の尾を踏む男達」に話を戻しますと、これは「能」を取り入れた非常に芸術性の高い作品で、北国へ落ち延びる弁慶達のやつれ果てた姿が、戦争末期で栄養不良の日本人俳優とちょうどマッチし、その鬼気迫る演技に迫真性をもたらしています。
黒澤作品の注目すべき点はこうした「落魄」で、人間は落ちぶれた時に本性を表し、それを「美」の領域まで高めるコトで「人間賛歌」を織り成しています。
そうした作品をもう一つ挙げるならば「どですかでん」で、これは戦後東京の焼け野原をそのまま舞台にした貴重な映画です。
ここでの人々は江戸時代の「どん底」や「羅生門」よりも落魄しており、そこに生命の息吹を蘇えらせる役割を「知的障害者」の主人公が担っています。
人々の落魄を観るコトを観客は好みますが、自分が落ちぶれるのは好まないモノです。
しかし真にその悲観を味わう為には、自分も幾分かはそれを経験する必要があるかと思います。
「人の不幸は蜜の味」というだけでは芸術作品にはならず、黒澤明は落ちぶれた人達に共感の気持ちを強く持てたからこそ、偉大な映画監督に成れたのだと思います。
未だ世界には落魄を強いられた人々が溢れており、特に冬の北国で家を失ってさ迷う人達には憐れを覚えます。
布団も食糧も水すらも無く、氷点下の夜を越す辛さは、私もチベット高原で幾日か味わったコトがあります。
そんな落魄を、お年寄りや子供にまで強いる戦争を起こした大人は、必ずやその責任を問われるコトになるでしょう。