パールワティーもインドで人気の名前ですが、こちらは「悲劇のヒロイン」的な女神みたいです。
この神話では、夫のシヴァと父親との間で引き裂かれ焼身自殺した「サティー」という女神が描かれ、その転生者として再びシヴァの妻となるのがパールワティーです。
この神話はどういうワケか、夫を失った妻が後追い自殺をする因習「サティー」を生み、これは法律で禁止されつつも民衆の間で根強い人気を保っています。
しかるに「パールワティーの願い」は「愛に全てを捧げるコト」と解釈され、野人のように逞しいシヴァが愛の対象として相応しいとインドでは考えられています。
ペンネームを八路和提としたパール-ソルジェニーツィンも、愛の対象としては逞しさを尊重し、欧米の洗練された金持ちの求婚者たちよりも、彼女の為に命を捧げると誓うモンゴル遊牧民を夫にしました。
パールはモンゴル草原で中国とロシアからの亡命者を匿う「シェルター フロム ストーム」を運営しながら、26歳にして母親となります。
それは「剣の女王」と謳われた彼女の文筆スタイルに変化をもたらし、子供の未来のために強く平和を願う論調となります。
今回は久しぶりに「女神のブログ」をフィーチャーして、2059年のインド-ダラムサラーに於ける「史上最大の葬儀」の印象を描いてみます。
−− 初めて訪れたインドの下界は耐え難い暑さと喧騒でしたが、チベット亡命政府の在るダラムサラーは涼しくて静かで、スイスの町のような印象を持ちました。
この町は仏教聖地と避暑地として観光客の人気を博していますが、私達が訪れた時はどこの宿も民泊も満杯で、特別な賑わいに包まれていました。
それは亡命チベット人社会の精神的な柱だった女性トゥルクの葬儀が行われているからで、この49日間に渡る「バルドゥ(涅槃)祭」の参列者は悠に百万人を超えそうです。
この特別な人徳を持つトゥルクは105歳で自ら入滅され、私は彼女のコトを僅かしか知りませんでしたが、ここに来て彼女(秀祥)の人生に強く興味を持ちました。
秀祥は「裸足の医者」としてチベットに現代医療を伝えた孫文徳(孫文の孫)と、彼に弟子入りをした女性トゥルクのサラとの間に産まれました。
因みに私も今年初めて子供を産み、赤ちゃんはモンゴルのキャラバンに預けて来ましたが、今も乳が出るのでチベット人の赤ちゃんに飲んでもらっています。
秀祥は15歳にして故郷の優樹(ユーシュー)を追われ、ヒマラヤを越えて亡命しますが、その時に最愛の父親を失います。
彼女は凍傷から足を守ってくれた父の靴を形見として履き続け、それは25歳から27歳までの3年間で世界一周の旅をした時も大事に履いていたそうです。
その旅で秀祥は、ネイティブ-アメリカンの土地で特に大きな徳を積まれたようで、その話は彼女を「ネイティブのキリスト」と崇めるモルモン教徒の参列者たちから聴きました。
彼等はまるで「新約聖書」のような秀祥の言行録を編んでおり、それには実に多くの国の人々が参画していました。
私も末筆ながらそれに加わり、彼女が最期に東チベットでの蜂起に対して果たした役割について書かせて頂きます。
それは私達「女子革命突撃隊」が、蜂起に便乗してウイグルの「再教育中心」を解放したからで、連携を図る為に蜂起の柱と言える「戦いの女神カーリー」がモンゴルの「シェルター」に贈られたのは、秀祥の指揮によるモノだったからです。
それによって私達は実質的にチベット亡命政府と共闘するコトとなり、カーリーことリタ-メイは私の妹のような存在になっています。
果たして私達の闘いは勝利を得られるのか? そのカギは今、東チベットの蜂起軍に握られており、そこに連絡員として戻って行ったリタメイが、私達の元に生還するコトを願っております。
私は蜂起軍が最期まで「不殺生の戦い」を貫くコトも願っており、それによって中国共産党によるチベット支配に反対する国際世論が沸騰するコトを願っています。
ここダラムサラーではみんながそれを願っており、49日間の「バルドゥ祭」は平和を願う祈りの祭典となっています。 −−