中共が延安に落ち延びて生き残れたのは、国民党が日本との戦争に突入した事と、ソビエトからの支援をうけられたからです。
当初ソビエトは、正しい共産主義を学んでいないとして毛沢東のリーダーシップを認めませんでしたが、ヅェドンの狡猾な権力闘争のやり口をスターリンが評価して、中国で革命を成し遂げるにはそうした狡知が必要だとして認めました。
ソビエトの支援は武器や食料から、発電機や建築-農業機械にまで及び、当時ソビエト連邦に入っていたモンゴルと延安はすぐ近くで交通も盛んでした。
希聖(シーシェン)は軍事教練を受けにソビエトへ派遣され、そこで毒ガス(サリン)テロの戦術を学びます。
これは直ぐ実地に移され、満洲の日本軍基地で実行されました。
これについては何度か触れており、この物語の始めの章でも描いているのでここでは少しだけ記しますが、日本軍の復讐で毒ガスにより全滅させられた村は現在残っておりません。(国辱記念碑は立ってない)
勿論、共産党が始めに毒ガステロを行った事も歴史書には記されず、闇に葬られております。(日本ではこれについての本が何冊か出てます)
こうした歴史認識の相違は、当時共産党が日本軍と内通して国民党を売っていた事も問題になってます。
また中共の教科書では、日本軍と正面から戦ったのは共産党だと臆面もなく記されており、台湾国民党はそれにずっと文句をつけてますが改める気配はありません。
さて物語に移って行きますが、そのステージについて言及しておきます。
重慶大学は名門国立大学なのでスタジアムがあり、中国は十数回もオリンピックに選手団を送れずにいましたが、この五年後の80年冬オリンピックでようやく復帰を果たします。
この頃はせいぜいマスゲーム(北朝鮮でやってるヤツ)に力を入れてる位でしたが、それは高みから見下ろす人間には面白くとも、地面を這い回らされる人々には全く面白くないゲームでした。
そのスタジアムが批判大集会の場所となる事を聞いたシーシェンは、そこを自分の総括の場に選びます。
スタジアムの周りを、行善と2人で太鼓を打って祈りながら歩き、紅衛兵にわざと捕まってそのチャンスを掴みます。
総括二日目の早朝からスタジアムは人で埋まりだし、予告通り批判大集会は朝7時から始まります。
季節は秋とし、重慶は温かい地方なので早朝の冷えはさほど苦にはなりません。
数千人の聴衆に向かって、シーシェンは昨日の回想の続きとして総括を始めます。
この日は、ソビエトでの軍事教練を経て、行善の村に潜伏してテロの機会を伺う所からとします。