「アーメン·ハレルヤ」はキリスト教がメジャーになる前から唱えなれており、キリスト本人もこれを唱えていたので、中東には古来から伝わっていたと推測できます。
中東は人類文明発祥の地なので、様々なお祈りの言葉が生まれたコトでしょう。
中でも最古のメソポタミア文明は長く続き、それはアッシリアやバビロンに乗っ取られた時期もありましたが、8000年もの長きに渡って文明を維持しました。
なので「アーメン·ハレルヤ」は、一万二千年前に発祥したメソポタミア文明で唱え始められたと考えられ、これをシバジーはトゥルクに伝えたとします。
こうした祈りの言葉は宗教の本質と言え、教会や聖書やキリストなどはそのお膳立てに過ぎないでしょう。
更に言わせて貰うと、そうした夾雑物は宗教を「こじらせ」てしまい、つまらない宗派争いを生むだけでした。
私は宗教は詩的で純粋であるべきだと考え、詩は短くて赤裸々な程に心を高揚させてくれます。
なので長ったるい詩や祈りは好きではなく、短い祈りのフレーズを延延と繰り返すスタイルが好きです。
仏教では瞬間的な祈りにはあまり価値を置かず、どれだけ長く祈り続けられるかに価値を認めます。
その為「南無妙法蓮華経」を14時間ぶっ通しで唱題したりし、私はその修行(お断食)を30回くらいやりました。
でも正直に言うと、14時間の内で本気に祈れていたのは2時間にも満たず、あとは雑念に囚われていました。
それでも大声で「南無妙法蓮華経」を唱え続けたので、周りの人達のお祈りを励ます効果はあったかと思います。
「南無妙法蓮華経」はブッタが4千年前に提唱したお祈りですが、中国経由で伝わったので発音は当時とは全く異なってしまってます。
その点でチベット仏教にはブッタの使ったパーリ語が伝わっており、お祈りの言葉も当時の発音に近い「オームマニぺメフム」が今でも広く大衆に根付いています。
私が世界を2周ぐらいして観て来た限り、チベット人ほど長くお祈りの言葉を唱える民族は他に居りません。
人々はお寺でだけでなく日常でも祈りの言葉を唱え、老若男女みんなが「オームマニぺメフム」を最も親しみ深い歌として常唱しておりました。
世界にお祈りの言葉は多々ありますが、基本的に人の願いはみな一緒に思え、違いは発音くらいかと思えます。
もしこの意見に賛同する人が世界の大半を占めるならば、宗教の違いは無くなり人類は1つに成れるでしょう。
トゥルクにはそんなユニバーサル(1つ)なお祈りを歌で広めて貰い、それは「終わらない歌」としてヒマラヤ地方に一万年後までも響き渡るとします。