中国の60年代は、人類史上でも最も過酷な「自然との闘争」で幕を開けました。
大躍進とは労働の「パーフェクション」を目指した革命で、それは人民の「完全なる奴隷化」を意味しました。
人民は党(ドン)の指令に完全に従うロボットとされ、彼等は山々のてっぺんまで開墾して畑を作らされました。
それは「衛星を打ち上げる」と形容された収穫高の大躍進レースを生み、農民を操る役人達は競って数百倍もの収穫高を報告しました。
それはもちろん幻想でしたが、党はその夢を信じてしまい、大躍進を誇示するタメに大量の穀物を共産圏の国々に分け与えてしまいます。
人民達もそんな党のプロパガンダに酔ってしまい、大躍進を信じて大盤振る舞いをして、共有物にされた家畜をみんなで競って食べてしまいました。(元々家畜は個人所有で、農家の財産として大事にされていたのに…)
そんな大躍進が破局を迎えるのは当然で、ハゲ山に作られた畑はすぐに表土が流出して生産性を失い、夜通し鉄作りをやらされた人民は畑をかまう余裕を失っていました。
大躍進は’60年の冬に破局を迎え、全国の農村部で2000万人もの餓死者が出ました。
これは党の発表によるモノで、実際にはその倍は餓死したと伝えられています。
しかし都市部では餓死者を出さないようにし、海外メディアには相変わらず大躍進が成功していると信じ込ませました。
これは党のメンツの問題で、中国は共産圏をリードする先進国として、完全なる社会主義を達成し「地上の楽園」をどこよりも早く創ったと宣伝していました。
しかしその「地上の楽園」では、「子供を交換して食べる(易子乃喫)」という中国伝統の風習が甦るまでの状態に陥っていました…
党の中からはそんな故郷の惨状を嘆いて、大躍進政策の撤廃を求める者も現れましたが、彼等はことごとく粛清されてしまいます。
その中には、朝鮮戦争で人民解放軍の総指揮官を務めた彭徳懐も居り、彼は貧農の出身でとても徳が高く、支持者も多かったので党は内部分裂に陥ります。
それによって毛沢東は、いったんは党のトップから退きますが、すぐに巻き返しを図って「文化大革命」を起こします。
この闘争は主に都市部で行われ、一億人もの甚大な被害者を生みました。
都市を追われて農村に下放された者は更に多く、彼等は農民達の恨みを真っ向から浴びて苦心惨憺の暮らしを送りました…
こうした中国「闘争の60年代」は今でもタブーとされて、国内では自由な論考が許されていません。
しかし香港や台湾では当然それは成されており、香港人ジャーナリストによる「餓鬼」という本が特に優れた総括を述べています。
そこでは「闘争の60年代」に繰り広げられた少数民族への弾圧についても詳しく書かれており、特にチベットでのそれは「断種政策」にまで及んだとしています。
これは男性をみんな強制収容所に入れてしまうモノで、ソ連の「収容所群島」では5%が生き残れましたが、チベットでのそれは多くが「絶滅収容所」となりました…
党は現在でもこの「完全なる支配」をチベットやウイグルで断行しており、今世紀の60年代に至っていよいよ解放の時を迎えるとしますが、それには新しい「闘争の60年代」を描く必要性があるでしょう。