前回、NHKの「日本サブカルチャー史 − 闘争の60s」に触れましたので、今回はそっちに脱線させて貰います。
まずはこの「闘争」の主役を担った、当時の学生達についてのコラムを載せます。
因みに、わたしの両親も当時大学生でしたが、2人とも「闘争」からは距離を置いていたそうです。
日本の学生運動はセクト化して内ゲバに走り自滅しましたが、意識の高い学生達は環境保護の「水俣病闘争」に走り、こちらは勝利を修めました。
この勝利には何十年もの歳月を要しましたが、長年の闘争は歴史に残る文芸作品を生み出しました。
こうした「遺産」は、現在も発展途上国で繰り広げるられている環境保護の闘争に、偉大なる貢献をしております。
この頃の若者達の間には「西の水俣、東の三里塚」という合言葉もあり、安保闘争の延長戦として闘われた「三里塚闘争」も何十年かに及びました。
この闘争は「ぼくの村の話」という漫画になっており、そこでは農民と学生達の共闘が美しく描かれています。
しかし、過激化した暴力闘争は多くの悲劇も生み、そこに平和をもたらそうとした日本山は非暴力闘争を貫きました。
滑走路の予定地に建てられた仏舎利塔は今も空港の側に立っており、学生側と機動隊側から1人ずつ出家者も現れました(インドとスリランカに居られます)。
今回はコラムが長いので早々に締めますが、最後にこの「闘争の60年代」を歌った、吉田拓郎の「明日へ向かって走れ」と「流星」を挙げたいと思います。
こうしたサブカルチャーを通して、当時の若者達の心と経(つな)がれて、親達の青春時代に共鳴するコトができます。