やるべきか、やめるべきか、ーー紆余曲折の末に、今回は取りやめとし、延期することにした。私もそろそろ70歳。東京に住む息子と娘が、私の古希を祝う会を企画してくれたのである。会合の日取りは2月24日ということで、宴席も予約してくれたのだが、あいにく時勢が時勢である。巷はコロナ感染がパンデミック一歩手前の有様で、会合にはコロナ感染のリスクが付きまとう。
心配性の私は、「とりあえず今度の古希の会合は、見送ったほうが良いのではないか」と考え、その旨を娘にメールで書き送った。娘や息子が同じ考えを持ったとしても、彼らの口からそれを言い出すのは憚られるだろうから、「今回は見送り」の決定を下すなら、私が言い出しっぺになるしかないと思ったのである。
私の考えを妻に話したら、意外な言葉が返ってきた。
「感染のリスクといったって、菌を持ち込む可能性が高いのは、私やあなたではなくて、東京に住んでいるA子(娘)やB夫(息子)のほうでしょう。それじゃあ、『あんたたちはバイ菌持ちだから、こっちには来ないで』とA子やB夫に言うのと変わらないじゃないの。どうしてメールをする前に、私に相談してくれなかったの」。
そんなこと、思ってもみないことだった。私は正直、面食らったが、妻の言葉にもたしかに一理はある。私は娘にさっそく次のように書き送った。
「さっきのメール、取り越し苦労かもしれないけど、これは、C子ちゃん(孫)やD夫くん(下の孫)が感染したりしないか、それが心配だから言うのだよ。べつに他意はない」。
娘から、次のような文面が返ってきた。
「C子もD夫も元気で保育園に通っていて、集団生活には慣れているから、そんなこと、私はぜんぜん心配していないよ。私やE男さん(夫)だって、毎日満員電車で通っているし、感染のリスクなんて、もう慣れっこになっちゃった。私が心配なのは、むしろパパのほうだよ。高齢者は感染しやすいというし、感染したら重症化しやすいというから、なんだったら2/24の会はやめにしてもいいよ」
それに対して、私はこう返信した。
「そうか。私なら大丈夫、心配は無用だ。毎日、テレビのニュースばかり見て暮らしているから、私もつい臆病風に罹ってしまったのだろう。でも、客観的に見ても、今度の古希の会合はコロナ騒ぎが一段落するまで見送ったほうが賢明だと思うよ。べつに急ぐわけではないからね。いずれにしても、B夫やカミサンとよく相談してくれないか」
その後、娘は、妻や息子と電話で話し合ったようだ。結論は、「2/24の古希の会合は、中止」である。決定は落ち着くべきところに落ち着いた感じだが、ここにたどり着くまでの「ああでもない、こうでもない」は一体何だったのか。
それによって我がファミリーの絆はかえって強まった気がするから、まぁ、まんざらでもない。けれども目を我がファミリーから日本に広げると、私は複雑な気持ちになる。私の足下ですらこうなのだから、日本全国の津々浦々で行われる「会合とりやめ」の決定には、もっと激しい、大なり小なりのすったもんだが伴うことだろう。
それによって、日本の沈滞した各地はふたたび活性化するのかもしれない。だが、ホントにそう言えるのかどうか。新型ウイルスという外敵の侵入によって、我が日本が活性化するのであれば、それは不幸中の幸いと言えなくもない。だが、ホントにそうなのかどうか。
この問題は、コロナウイルスの、その拡大を予測するのと同じくらい難しい。なんだかなあ。
心配性の私は、「とりあえず今度の古希の会合は、見送ったほうが良いのではないか」と考え、その旨を娘にメールで書き送った。娘や息子が同じ考えを持ったとしても、彼らの口からそれを言い出すのは憚られるだろうから、「今回は見送り」の決定を下すなら、私が言い出しっぺになるしかないと思ったのである。
私の考えを妻に話したら、意外な言葉が返ってきた。
「感染のリスクといったって、菌を持ち込む可能性が高いのは、私やあなたではなくて、東京に住んでいるA子(娘)やB夫(息子)のほうでしょう。それじゃあ、『あんたたちはバイ菌持ちだから、こっちには来ないで』とA子やB夫に言うのと変わらないじゃないの。どうしてメールをする前に、私に相談してくれなかったの」。
そんなこと、思ってもみないことだった。私は正直、面食らったが、妻の言葉にもたしかに一理はある。私は娘にさっそく次のように書き送った。
「さっきのメール、取り越し苦労かもしれないけど、これは、C子ちゃん(孫)やD夫くん(下の孫)が感染したりしないか、それが心配だから言うのだよ。べつに他意はない」。
娘から、次のような文面が返ってきた。
「C子もD夫も元気で保育園に通っていて、集団生活には慣れているから、そんなこと、私はぜんぜん心配していないよ。私やE男さん(夫)だって、毎日満員電車で通っているし、感染のリスクなんて、もう慣れっこになっちゃった。私が心配なのは、むしろパパのほうだよ。高齢者は感染しやすいというし、感染したら重症化しやすいというから、なんだったら2/24の会はやめにしてもいいよ」
それに対して、私はこう返信した。
「そうか。私なら大丈夫、心配は無用だ。毎日、テレビのニュースばかり見て暮らしているから、私もつい臆病風に罹ってしまったのだろう。でも、客観的に見ても、今度の古希の会合はコロナ騒ぎが一段落するまで見送ったほうが賢明だと思うよ。べつに急ぐわけではないからね。いずれにしても、B夫やカミサンとよく相談してくれないか」
その後、娘は、妻や息子と電話で話し合ったようだ。結論は、「2/24の古希の会合は、中止」である。決定は落ち着くべきところに落ち着いた感じだが、ここにたどり着くまでの「ああでもない、こうでもない」は一体何だったのか。
それによって我がファミリーの絆はかえって強まった気がするから、まぁ、まんざらでもない。けれども目を我がファミリーから日本に広げると、私は複雑な気持ちになる。私の足下ですらこうなのだから、日本全国の津々浦々で行われる「会合とりやめ」の決定には、もっと激しい、大なり小なりのすったもんだが伴うことだろう。
それによって、日本の沈滞した各地はふたたび活性化するのかもしれない。だが、ホントにそう言えるのかどうか。新型ウイルスという外敵の侵入によって、我が日本が活性化するのであれば、それは不幸中の幸いと言えなくもない。だが、ホントにそうなのかどうか。
この問題は、コロナウイルスの、その拡大を予測するのと同じくらい難しい。なんだかなあ。