ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

杖のつき方という災い

2020-02-27 11:25:22 | 日記
自分の努力ではどうにもならないことがある。どう足掻いても、どうにもならない。大震災や、大型台風や、コロナの蔓延のように、こればかりは「天災」というしかなく、運を天にまかせるしかない。

自分の努力ではどうにもならないこと、それは私にとっては、「杖のつき方」という(ふつうの人からみれば)どうでもいいことである。どうでもいいはずの些細なことが、どうにもならないもどかしさ。「生まれたときは4本足。年を取ったら3本足。それはな~に?」とスフィンクスは謎をかけたが、年老いた片麻痺の私にとって、杖は、日常生活に欠かせない第3の足そのものである。自分の足となるべきこの杖を、いまだにうまく使いこなせないとは、一体どういうことなのだろう。

具体的にいうと、私には杖を身体の正面に突きだす癖がある。分かりやすくいえば、(映画に出てくる)座頭市の杖のつき方である。座頭市の場合、腰はぴんと伸びているが、私の場合は腰が曲がり、前屈みの姿勢になってしまうので、いかにもジジイらしく、かっこ悪いこと、この上ない。歩いても、全身に力が入ってしまうのか、とても疲れるのである。

リハビリ・デイサでは、このフォームを直すよう、A子さんから毎日のように何度も指摘された。杖を身体の(正面ではなく)脇側に突きだし、腰を伸ばす。そうすれば、見ばえも良くなり、リラックスして歩けるようになるので、長い距離を歩いても疲れなくなるということである。

そんなことは、よく解っている。頭では解っているのだ。頭では解っているのだが、身体がその通りに動かないのである。要はイメージ・トレーニングである。「かっこよく杖をついて、すたすた歩く自分」のイメージを頭にたたき込み、イメージ通りに身体を動かす訓練をする。

実際、一日に一度は自宅の平行棒の中で、この訓練を行うようにしたのだが、これがなかなかうまく行かない。平行棒の中ではうまくできたと思っても、デイサでA子さんにサポートされながら同じことをしても、「できるようになった!」との思いは裏切られるばかりだ。自宅での私の思い(思い込み?)は、デイサではたちどころに打ち砕かれるのである。

今、巷の人たちはコロナウイルスとの戦いに躍起になっているが、私は毎日、杖のつき方を相手に悪戦苦闘している。自力でだめなら、他力本願で行くしかない。でも、A子さんという「他力」に頼るのもなあ・・・。A子さんは阿弥陀さまではないわけだし。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする