政府は2月26日、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、これから2週間の大規模イベントの中止、延期を要請した。さらに27日、全国の小中学校、高校、特別支援学校を3月2日から春休みまで臨時休校とするよう、要請することを決めたという。
こうしてプロ野球や大相撲の客席からは観客の姿が消え、校舎からは生徒の姿が消え、人と人とが直に触れあう機会がどんどん失わていく。これで新型ウイルスの猛威が仮に小康状態になるのだとしても、私は複雑な気持ちを禁じ得ない。
というのも、人はそれによってウイルスとの戦いに勝ったのか、と考えると、「う~む、どうだろう。敗けたのではないか」と思えてしまうからである。人は人と触れあい、人と交わり、共に共同体を形成し、社会を築くことで初めて人になる。ニンゲンになることができる。人間とは、文字通り、人−間、つまり人と人との間に生きる存在である。ウイルスとの戦いの勝利が、そういう(人−間としての)自己本来の在り方を否定することによってしか得られないとしたら、それがはたして人間の勝利と言えるのかどうか、はなはだ疑問に思われるのだ。
ガラガラの観客席、ガラガラのイベント会場、ガラガラの教室、ガラガラの会社の会議室、--そういう空っぽの空間を尻目に、一人ひとりが自室に引きこもり、テレビでプロ野球の試合を見たり、パソコンのモニターに向かって会議をしたり、授業を受けたりする光景を思い浮かべると、私は慄然としないまでも、どこかアンビバレントな複雑な気持ちを禁じ得ない。「同病相憐む」という言葉があるが、引きこもりの同類を見る私の心には、共感の念とともに、虫唾(むしず)に似た苦い憐みの情が浮かぶのである。
私が同類を見て、(まるで他人事のように)憐みの情と痛恨の念を感じるとしたら、それは私が「引きこもり」の在り方に「それでは『人でなし』ではないか」、「それはニンゲンらしい生き方とは言えないのではないか」という思いを懐くからである。
自室に引きこもり、他人とまったく交わらず、単独の存在として暮らすことは、「人でなし」として生きることに等しい。他人との交わりの機会を失うことは、人間性を喪失することと同義なのだ。私はそう思う。
だが、人が他人との交わりの場を失い、単独の存在として暮らす未来の姿に、私がそれでも絶望を感じず、まだわずかでも希望を持ち続けるとしたら、それは私が「引きこもり」の生活を、全面的な人間性の放棄とはみなしていないからである。
では単独者として暮らすことに、人間としてのどんな希望があるというのか。
それは人によってまちまちだろうが、私に限って言えば、一人のブログ書きとして生き、自分の日々の思いを書き綴り、それをネットの仮想社会に向けて発信するとき、私は「ああ、自分は『人として』生きているのだ」と実感することができる。拙いとはいえ、何がしかの文化的価値の創造に参加し、(バーチャルとはいえ)一つの共同空間の形成に関わることは、まぎれもなく人が「人として」生きる一つのスタイルなのだと思う。他にも人が「人として」生きることを可能にする、さまざまなスタイルの余地は残されている。天邪鬼爺はそう思うのだが、あなたはいかがだろうか。あなたはどんなスタイルを思い浮かべるだろうか。
こうしてプロ野球や大相撲の客席からは観客の姿が消え、校舎からは生徒の姿が消え、人と人とが直に触れあう機会がどんどん失わていく。これで新型ウイルスの猛威が仮に小康状態になるのだとしても、私は複雑な気持ちを禁じ得ない。
というのも、人はそれによってウイルスとの戦いに勝ったのか、と考えると、「う~む、どうだろう。敗けたのではないか」と思えてしまうからである。人は人と触れあい、人と交わり、共に共同体を形成し、社会を築くことで初めて人になる。ニンゲンになることができる。人間とは、文字通り、人−間、つまり人と人との間に生きる存在である。ウイルスとの戦いの勝利が、そういう(人−間としての)自己本来の在り方を否定することによってしか得られないとしたら、それがはたして人間の勝利と言えるのかどうか、はなはだ疑問に思われるのだ。
ガラガラの観客席、ガラガラのイベント会場、ガラガラの教室、ガラガラの会社の会議室、--そういう空っぽの空間を尻目に、一人ひとりが自室に引きこもり、テレビでプロ野球の試合を見たり、パソコンのモニターに向かって会議をしたり、授業を受けたりする光景を思い浮かべると、私は慄然としないまでも、どこかアンビバレントな複雑な気持ちを禁じ得ない。「同病相憐む」という言葉があるが、引きこもりの同類を見る私の心には、共感の念とともに、虫唾(むしず)に似た苦い憐みの情が浮かぶのである。
私が同類を見て、(まるで他人事のように)憐みの情と痛恨の念を感じるとしたら、それは私が「引きこもり」の在り方に「それでは『人でなし』ではないか」、「それはニンゲンらしい生き方とは言えないのではないか」という思いを懐くからである。
自室に引きこもり、他人とまったく交わらず、単独の存在として暮らすことは、「人でなし」として生きることに等しい。他人との交わりの機会を失うことは、人間性を喪失することと同義なのだ。私はそう思う。
だが、人が他人との交わりの場を失い、単独の存在として暮らす未来の姿に、私がそれでも絶望を感じず、まだわずかでも希望を持ち続けるとしたら、それは私が「引きこもり」の生活を、全面的な人間性の放棄とはみなしていないからである。
では単独者として暮らすことに、人間としてのどんな希望があるというのか。
それは人によってまちまちだろうが、私に限って言えば、一人のブログ書きとして生き、自分の日々の思いを書き綴り、それをネットの仮想社会に向けて発信するとき、私は「ああ、自分は『人として』生きているのだ」と実感することができる。拙いとはいえ、何がしかの文化的価値の創造に参加し、(バーチャルとはいえ)一つの共同空間の形成に関わることは、まぎれもなく人が「人として」生きる一つのスタイルなのだと思う。他にも人が「人として」生きることを可能にする、さまざまなスタイルの余地は残されている。天邪鬼爺はそう思うのだが、あなたはいかがだろうか。あなたはどんなスタイルを思い浮かべるだろうか。