4月14日午後9時26分。
今、思い出しても手が震える出来事がありました。
お風呂に入ろうとしていたころ、私はキッチン、母と犬猫はいつものように
リビングにいたとき。
突然、前触れもなく
すべてが揺れました。そのとき、何が起こったかわけもわからず
ずっと叫び続けました。
「もう終わった」私も家族もこの家もこの世も。
地球が終わった。そう感じました。
もちろん、テーブルの下に入ることも逃げることもできませんでした。
体を支え、叫び続けるのが精いっぱい。
そして、やっと揺れが収まったとき「地震だ」と、我に返りました。
体中、ガクガクしている中で、ガスの元栓を止め
家じゅうのコンセントを抜き、すぐに3つのケージとリードを集め
一番安全かなと思った玄関に。
そしてお位牌を袋に詰め、通帳、印鑑、母の病院関係の袋、私と母の薬、会社の制服。
震えながらかき集めました。
あ、それとカメラと画像のデータが入っている外付けHD、大事な写真。
そうこうしているうちに兄が見に来ました。
そのときは我が家の被害はなかったので兄が帰り、「今日は玄関で寝たがいいな」と
思っていると、また大きく揺れました。
クリンシーはすでにキャリーに入れていましたが、フィービーは震えて冷蔵庫の上。
決死の覚悟でキッチンにもどり、動かないフィービーをやっとの思いで救出してキャリーへ。
「お母さん、おんちゃん(姉)の家に避難しよう!」
認知症があり、絶対行かないと言い張る母を無理やり車に乗せて
ブレーカーを落として、ガクガクしながら姉の家に向かいました。
たまたま姉夫婦が家を建て、4日前に引っ越したばかり。
しかもその家は震度8にも耐えると設計士が言ったらしいコンクリート住宅だったので
姉の家に着いたときは本当に安堵しました。
母もアデラもフィービーもクリンシーもケガすることなく助けることができた。
本当にほっとしました。
そんな中でも容赦なく続く余震。鳴りやまぬサイレン。
恐怖しかなかったです。
私たちの会社はライフラインの3つのうち2つを担っている会社なので
兄や甥は14日も揺れている中を顧客の家やマンションを夜通し巡回。
明けて15日は、電話もひっきりなしに鳴り、休憩もとれないくらいの忙しさでした。
間でちょっとだけ時間をもらい、自宅を見にいきました。
塀も壁も崩れておらず、窓も割れていない。
中に入っても、なにひとつ倒れておらず、食器1枚割れていませんでした。
まだまだ頻繁に揺れていたので「お家さん、ごめんね」と、そそくさと家を出ました。
そして15日から16日に変わってすぐ
2度目の大きな揺れが来ました。
姉の家で、母、姉、姪と犬猫10匹でいたし、木造の家ではないので
揺れは大きく長かったけど、最初のときのように怖くはありませんでした。
しかし、その揺れは思った以上に大きく熊本を破壊してしまいました。
16日は父の17回忌を予定しており、仕事も休みをもらっていましたが
もちろん中止。電話連絡のとれない中、やっとのことでお寺さんとお料理屋さんに連絡。
お料理屋さんも、おそらく被害が大きかったのかこちらが何も言わないうちに「わかってます」と
了承されました。
仕事はもちろん目まぐるしい忙しさ。その間も続く余震。
震源地が近いので地中からドーンという音が聞こえたり
地響きがすごくて、震えながら仕事しました。
停電でTVもなく、海外にいる姪から熊本城や阿蘇大橋崩落の話を聞き、泣きました。
お城も阿蘇も大好きな場所で、本当に誇らしく思っていた熊本の宝。
俵山だって毎週のようにアデラを連れて行っていたのに。
私たちの大好きな場所が壊れていく。
街並みが変わっていく。
停電だって断水だってかまわない。
多少の不自由な暮らしは我慢して耐える。
だけどふるさとの風景が変わっていくのは、本当に耐えられない。許せない。
2回目の大きな地震、後にそれが本震ということになりましたが
本震後、家に帰ってみると、家はかろうじて何事もなく建っていましたが
家の中は、それはそれはもうめちゃくちゃでした。
食器もほとんど割れてしまいました。
家具も倒れ、中身が散乱。自分の部屋には倒れたタンスがひっかりドアが開かず入れない状態。
もし、前震のあと姉の家に避難していなければ大けがかもしかしたら命を落としていたかもしれません。
電気も復旧し、情報が流れてくるほどに言葉を失うことばかり。
余震も頻繁で私もアデラも怯えきってます。
とくに、10日後、自宅に戻ってきてからは
あのときの恐怖が蘇り、ずーっとドキドキしてます。
最近、やっとパソコンを開くようになり、今日、やっとブログに向かうこともできました。
これを書いているときも、余震があり
アデラがビビリまくって膝の上に乗ってきました。
私はアデラのためになんとか平静を装ってましたが、一瞬、荷物をまとめました。
こんな日が数週間続き、もう心はズタボロです。
あんなに大きい揺れが2度もきたのに、死者も少なく
火災も起きず、津波もなく、放射能もない。
どれだけでも前向きに復興に向かっていける。はずなのに、
夜になると怖くて震えてしまいます。
全然、がんばれず、前向きにできない。
「みんなでがんばろう!」なんて言えない私です。
今度、また、私一人でみんなを守ることができるのか
かなりプレッシャーです。
でもきっときっと這い上がりますので。
負けませんので。
今、思い出しても手が震える出来事がありました。
お風呂に入ろうとしていたころ、私はキッチン、母と犬猫はいつものように
リビングにいたとき。
突然、前触れもなく
すべてが揺れました。そのとき、何が起こったかわけもわからず
ずっと叫び続けました。
「もう終わった」私も家族もこの家もこの世も。
地球が終わった。そう感じました。
もちろん、テーブルの下に入ることも逃げることもできませんでした。
体を支え、叫び続けるのが精いっぱい。
そして、やっと揺れが収まったとき「地震だ」と、我に返りました。
体中、ガクガクしている中で、ガスの元栓を止め
家じゅうのコンセントを抜き、すぐに3つのケージとリードを集め
一番安全かなと思った玄関に。
そしてお位牌を袋に詰め、通帳、印鑑、母の病院関係の袋、私と母の薬、会社の制服。
震えながらかき集めました。
あ、それとカメラと画像のデータが入っている外付けHD、大事な写真。
そうこうしているうちに兄が見に来ました。
そのときは我が家の被害はなかったので兄が帰り、「今日は玄関で寝たがいいな」と
思っていると、また大きく揺れました。
クリンシーはすでにキャリーに入れていましたが、フィービーは震えて冷蔵庫の上。
決死の覚悟でキッチンにもどり、動かないフィービーをやっとの思いで救出してキャリーへ。
「お母さん、おんちゃん(姉)の家に避難しよう!」
認知症があり、絶対行かないと言い張る母を無理やり車に乗せて
ブレーカーを落として、ガクガクしながら姉の家に向かいました。
たまたま姉夫婦が家を建て、4日前に引っ越したばかり。
しかもその家は震度8にも耐えると設計士が言ったらしいコンクリート住宅だったので
姉の家に着いたときは本当に安堵しました。
母もアデラもフィービーもクリンシーもケガすることなく助けることができた。
本当にほっとしました。
そんな中でも容赦なく続く余震。鳴りやまぬサイレン。
恐怖しかなかったです。
私たちの会社はライフラインの3つのうち2つを担っている会社なので
兄や甥は14日も揺れている中を顧客の家やマンションを夜通し巡回。
明けて15日は、電話もひっきりなしに鳴り、休憩もとれないくらいの忙しさでした。
間でちょっとだけ時間をもらい、自宅を見にいきました。
塀も壁も崩れておらず、窓も割れていない。
中に入っても、なにひとつ倒れておらず、食器1枚割れていませんでした。
まだまだ頻繁に揺れていたので「お家さん、ごめんね」と、そそくさと家を出ました。
そして15日から16日に変わってすぐ
2度目の大きな揺れが来ました。
姉の家で、母、姉、姪と犬猫10匹でいたし、木造の家ではないので
揺れは大きく長かったけど、最初のときのように怖くはありませんでした。
しかし、その揺れは思った以上に大きく熊本を破壊してしまいました。
16日は父の17回忌を予定しており、仕事も休みをもらっていましたが
もちろん中止。電話連絡のとれない中、やっとのことでお寺さんとお料理屋さんに連絡。
お料理屋さんも、おそらく被害が大きかったのかこちらが何も言わないうちに「わかってます」と
了承されました。
仕事はもちろん目まぐるしい忙しさ。その間も続く余震。
震源地が近いので地中からドーンという音が聞こえたり
地響きがすごくて、震えながら仕事しました。
停電でTVもなく、海外にいる姪から熊本城や阿蘇大橋崩落の話を聞き、泣きました。
お城も阿蘇も大好きな場所で、本当に誇らしく思っていた熊本の宝。
俵山だって毎週のようにアデラを連れて行っていたのに。
私たちの大好きな場所が壊れていく。
街並みが変わっていく。
停電だって断水だってかまわない。
多少の不自由な暮らしは我慢して耐える。
だけどふるさとの風景が変わっていくのは、本当に耐えられない。許せない。
2回目の大きな地震、後にそれが本震ということになりましたが
本震後、家に帰ってみると、家はかろうじて何事もなく建っていましたが
家の中は、それはそれはもうめちゃくちゃでした。
食器もほとんど割れてしまいました。
家具も倒れ、中身が散乱。自分の部屋には倒れたタンスがひっかりドアが開かず入れない状態。
もし、前震のあと姉の家に避難していなければ大けがかもしかしたら命を落としていたかもしれません。
電気も復旧し、情報が流れてくるほどに言葉を失うことばかり。
余震も頻繁で私もアデラも怯えきってます。
とくに、10日後、自宅に戻ってきてからは
あのときの恐怖が蘇り、ずーっとドキドキしてます。
最近、やっとパソコンを開くようになり、今日、やっとブログに向かうこともできました。
これを書いているときも、余震があり
アデラがビビリまくって膝の上に乗ってきました。
私はアデラのためになんとか平静を装ってましたが、一瞬、荷物をまとめました。
こんな日が数週間続き、もう心はズタボロです。
あんなに大きい揺れが2度もきたのに、死者も少なく
火災も起きず、津波もなく、放射能もない。
どれだけでも前向きに復興に向かっていける。はずなのに、
夜になると怖くて震えてしまいます。
全然、がんばれず、前向きにできない。
「みんなでがんばろう!」なんて言えない私です。
今度、また、私一人でみんなを守ることができるのか
かなりプレッシャーです。
でもきっときっと這い上がりますので。
負けませんので。