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2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ、その3 ~北上川、そして~

2015-08-14 13:28:20 | ○15夏、4年5か月ぶりの石巻へ。
2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ、その3~北上川、そして~です。

3日目はレンタカーを借りて、女川から河北を目指します。

■その1~福島常磐線編はこちら。→【帰還困難区域】2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ〜福島、常磐線編〜
■その2~仙石線で石巻編はこちら。→【それでも生きていく】2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ、その2〜仙石線で石巻編〜


一部閲覧注意の画像があります。ご注意ください




【日和山より】

石巻市街地を見下ろす日和山公園より門脇方面、中瀬方面へ。
瓦礫はなくなってるけの更地が目立つ。





日和山は日本で1、2を争う低山だけれど、多くの人の命を救った命の山。

松尾芭蕉ズと川村孫兵衛の銅像。
他にも銅像とかいっぱいあるけど、昨日のサイボーグ009や仮面ライダーといい、石巻はそういうの好きなのか(そういうこと言わない





鳥居の急な階段を降りると、門脇地区に出ました。
海岸線はまだ離れているのに津波はここまで来たようです。
それは倒れたままの墓石ですぐにわかりました。

絶賛工事中だったのでお邪魔にならないように。





あの夏の支援に関わった方で亡くなった方も何人かいるので、慰霊碑に手を合わせていこう、と思ったのですが。

「この信号を右折です」
「信号ねえよ!」
「左折です」
「どこ曲がるんだよ!」

それもそのはず。被災した沿岸部は4年経ってなお更地状態。






お地蔵さん、その向いている先は全焼した門脇小学校。
2011.3.11の前、ここらへんでは子供の声が元気よく響いていたんだと思う。





4年前はタンクや瓦礫だらけで、声すら出なかった石巻沿岸部の光景。
4年経った今はカーナビと喧嘩するくらいだから、まだ良くなったのかもしれない。
でも4年間で、まだこの状態。

短いのか長いのか。

「石巻は変わってないよ」

昨日仮設住宅で会った知人の言葉の意味がわかったような気がする。

……しかし復興エリアはともかく、被災エリアは語り部タクシーで来たほうがよかったなと。





【ハイセンス女川】

マリンパル女川で休憩。







ぎょぎょぎょぎょぎょ(⊙◞౪◟⊙)
魚うまそう!!
カニ!!
クジラ!
マグロオオオオ!!!

ふおおおお!!!!貝うめええええ!!!!!(つぶ貝串を3本追加で食べました)

個人的にツボったのがお母さんたちの方向性が定まってないポスター。
結局魚なのか私なのか。いやどちらも。ハイセンス!!





右側の「昆布海中、オレ女川一中!」が腹筋攻撃してきた。
昆布まみれなのにちょっとイケメンに見えたよね。



女川ポスター展は聞いたことあったけど想像以上のハイセンス。

しかもご本人目の前に笑いこらえるのもはや苦行。





とにかくハイセンスなマリンパル女川。




【リアスブルーライン】


女川港からリアスブルーライン。
左手はどえりゃあ山、右側はよそ見したらそのまま海に落ちそうな崖に超安全運転。
雄勝湾に途中いくつか港があったけど、人は少なく重機がたくさん。
国道も数カ所片側交互通行。4年5ヶ月前の爪痕がまだ残る。


住宅造成の工事現場がたくさんあった。
「海の後ろすぐ山でこんなところどうやって津波から逃げるんだよ。海沿いやられたらどこに住むんだよ」というのが率直な思い。
沖縄もそうだったし伊豆も九州もそうだった。
日本列島、平野部除いたらどこでもそう。

津波は、他人事じゃない。




【大川小学校にて】

多くの児童教諭が犠牲になった大川小学校。

ここにくる予定はなかったんだけれど、Uターンをしたくて「あ、車たくさん止まってるからあそこ駐車場かな」と回った先に、崩れかけた校舎があったから驚いた。
(あとになってそこは駐車場ではないと知る。)





ここまで来たならと慰霊碑の前で手を合わせていた。
人はそこそこいるのに蝉の鳴き声がやたらと響く。



ふっと後ろを振り返ると、声をかけられた。
「あんたどこから来た」
そのおじいさんは地元の方らしく、線香と菊の花を持っていた。




「ここは体育館。鉄筋造じゃないから流された。
 教室は2階にあったんだけどな。流されちまったな。
 ヒマワリの植えられてるところ、あるだろ。あそこは全部遺体が見つかったところなんだよ。
 家族が植えた。ほら、奥にたくさんあるだろ。あのへんで100人近く見つかったんだっけな」


更地の端、山際で美しくヒマワリは、亡くなった子供や先生たち。コスモスもそう。昨日から繋がっている『花が咲くこと』が、これほどの重みを持っているとは知らなかった。







「ここは残されてほしいですか」と尋ねた。

「あんたみたいに静かに手を合わせてくれるなら、俺は残すべきだと思う。
 でも問題は大型バスでくる観光客だ。降りた瞬間写真撮って…
 遺体の見つかったところで立ち小便して…
 流されてる墓石に登ってまた写真とって」


おじいさんは強い口調で言った。

「たとえ流されても子供達にとっては母校だしな。
 そこは裁判終わらないとわかんねえんだけどな。
 ただな、このへんの地元の人間からしてみれば『もう触れないでほしい』だ」


おじいさんは空を見上げて言った。そのとき私は向かいの空き地に車を停めてしまったことを謝った。



おじいさんは地図を広げて見せてくれた。

大川小学校より海寄りの田んぼや集落は水没したこと。
北上川の形が変わったこと。

「ここに小学校があるってことはさ、それだけ人が住んでたってことなんだよ。そこで生きてたんだよ」

ポツリと言った。

おじいさんは地図の谷地中、須賀らへんをぐるりと囲んで言った。

「このへんは先月に捜索がはじまった」
「先月?!今年の?」
「ああ今年のだ」

思わず絶句した。

おじいさんは航空写真を出してきて、

「これが干潮のときの写真だ。ほらここに線が見えてるだろ。ここは格子。田んぼや道路が沈んでるんだよ」

「だからってなんで、もう4年以上…」

「海面からの捜索はずっとされてるんだ。で、今回沈んだ集落を囲む堤防が完成したんで、その中の水を抜いて捜索するっつこと」

地図ではなんてことのない道路と集落名が書いてある。
それに目を落とし、「ひとりでも多く、陸に上がってくれれば」と。

「港の向きが悪かった」

おじさんが続けた。宮城県内の多くの沿岸部、地図と被災前、被災後の写真を比較しながら説明してくれた。

確かに外海に面していて、遮るものがなかった湾の被害は甚大なものだった。

「あの日、生きるか死ぬかは、もしかしたらそこに住みはじめたときから決まってたのかもな」

私も素性を明かしていたので

「今朝、門脇からまわってきたんです。4年経ってどうなんだろうって思ったら、瓦礫が重機になったくらいであまり変わってなかった」

と話した。おじいさんはにっこり笑って、「まあ美味いもんでも食ってけや」と言った。



おじいさんに丁寧にお礼を言って、北上川をのぼる。

あの日、津波は北上川を遡って多くの命を飲み込んだ。
水没しているというヨシ原を車窓に眺めつつ、雄大な北上川の流れに人間の無力さを思い知る。

 



河北地域の被災前(上)、被災前(下)。
中央より上、北上川河口付近の色が大きく変化している。




【道の駅】

で、今は道の駅・上品の郷。
本当は南三陸までいくつもりだったんだけれど、さっきおじいさんが「このへんは北限のお茶ってのがあってな」と話してくれたのが気になったので予定変更です。



道の駅らしい震災の伝承。
あの春、どうやって道がつながったか、人がつながったかなかなか興味深い。

確か東北方面への交通が一時寸断されて、一番最初に復旧したのは高速バスだったんだよね。
常磐線はまだ正式につながってはいない。










これも道の駅らしい震災の伝承。
道路標識のひしゃげ方に凄まじいエネルギーがあったことを感じる。
この衝撃を受けたのがもし人体だったら、と思うと恐ろしい。








【石巻、またきます】



芸が細やかな石巻駅に戻ってきました。
やっぱり雄勝湾経由の南三陸を一日で往復ってのは私的には無理があったみたいなので、ウニ丼は次回

お土産で物理的にずっしり重くなった荷物を抱えて仙石線。
4年前のことも昨日からのことも、たくさんの人と言葉が脳裏をよぎりつつ……石巻また来ます!





【線路は続くよ】



仙石線で仙台へ。
ちょっこし途中下車で野蒜駅。
線路も駅も津波により被災し、仙石線再開に際してまるごと移転した区間。





新しい野蒜駅は20mあがった高台に、500m近く入った内陸に移設したそうな。

新野蒜駅から旧駅(真ん中の白いの)が見える。
これだけでも旧駅がどれだけ海に近かったか、新駅がどれだけ高台にあるかわかる。



線路が石巻方面にも仙台方面にも伸びている。
海と山からの風が気持ちいい。

仙石線が全線開通したように、今まだ運休している線もいつか全線開通する。
常磐線もいつか新しい駅と新しい線路で開通する。
そう願いたい。

そのときはまた鉄路で北を目指そう。



【花が咲く喜び、人がいる喜び】

賑わう仙台を車窓に見つつ、地元に帰ろう。





で、あっという間に地元到着。
新幹線早い。

行きの常磐線ルート上野から仙台までトータル9時間かかってること考えたら、いくら特急料金払ってるとはいえ2時間かからず首都圏に着くってのはやっぱりすごいわ。

改めて東北新幹線がつながった日の歓喜を思い出す。

いろんな笑いと涙とか悲しみとか喜びとか、よくわからない感情がこみ上げる。
駅前に咲く花に尋ねてみる。

短い旅程だったけれど、自然や人と向き合った濃密な3日間だった。
また、旅に出よう。



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