2015年8月、4年半前のあの故郷へ ~仙石線で石巻編~ です。
【帰還困難区域】2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ~福島、常磐線編~ の続きです。
一部閲覧注意の画像がありますのでご注意ください。
【仙石線】
仙台でひとやすみしたあと仙石線へ。
といっても乗り継ぎの都合上、仙石東北ラインに乗車。
仙石東北ラインから仙石線、野蒜あたり。
奥松島がチラッと見えた。
前にきたとき、野蒜駅は確か海岸寄りで歩いて砂浜まで行った記憶がある。
【石巻駅】
4年ぶりの石巻だい。とはいえ4年前はバスで来たから、ぶっちゃけ石巻駅自体は10年ぶりだい。
これから街の至る所で見つける津波浸水のラインを、駅のホームで見つけた。
線路とホームは完全に冠水。
身長155cmの私のふくらはぎらへんまで冠水していたらしい。
ぶらぶら石巻歩き。
駅前の大通り。
ガードレールを超える高さ。
腰あたりまでだろうか。
こんなところまで強い衝撃の波が押し寄せたら、と思うとぞっとする。
しかし歩いてて飽きない石巻駅前。
ポストの上とか看板とか街灯とかバス停とか、そこここにあのキャラクターが。芸が細か過ぎるよ石巻。さすが漫画の街。
石巻の商店街に描いてある壁画。
優しい色づかいで、ホッとする。
歩道にも音楽が流れていて思わず笑顔になる。
【石巻ミューゼにて】
街中を歩いていると、石巻ミューゼの手前で津波襲来の石碑を見つけた。
ここが被災地であることに改めてハッとする。
被災時の写真が展示されてる。
その年の夏に福祉支援きたとき、沿岸部を見に行って絶句したのをよく覚えてる。
展示されてる石巻日日新聞に、前に支援にきた避難所が載ってた。
展示されていた報道写真、悲惨な光景と暖かい人たちの姿、それから手書き新聞が伝えた希望に涙が出た。
別に石巻で被災したわけじゃないし、家族や友人をここで亡くしたわけでもないのに涙が止まらなかった。
多分今日いわきからずっと上がってきたせいか、石巻が生きていることが嬉しかったんだと思う。
人がいること、花が咲くこと。
4年5ヶ月前の11日、テレビでみた津波の恐怖感や、この目で被災した沿岸部をみたときの絶望感、それらが救われた気がした。
それでも人は生きていく。
海と共に生きていく。
見覚えのある高校、地元にある高校の名前がついて千羽鶴があったので館長さんに聞いてみた。
2011年以来防災教育のための生徒の宿泊研修があるらしい。
海のない県だからこそ、なんだって聞いた。
「なんだよ埼玉、海無し県なりにかっこいいじゃん」ってちょっとフフッて。
浸水した地域や避難所などが載っている地図を眺めながら、改めて石巻の地理を知る。
4年前に行っていた福祉避難所は、思ったより、いやかなり内陸の高台にあったことを知って驚く。
そんな内陸でも津波は押し寄せていたことをきってさらに驚く。
あの夏は観光はおろか、地理を確かめる余裕すらなかった。
そんな思い出話を館長さんとしていたら
「じゃあ今年は美味しいもの食べていってください。石巻も女川も南三陸も、とにかく食べ物が美味しいんです。たくさん食べてってください。お土産も買ってってください。今はそれが一番ありがたいんです」
って。
復興って、もしかしたらそういうことなのかもって。
で、2015年8月11日の石巻日日新聞。
ミキさん似のイモの記事思わず吹いた。
クスッと笑える記事が載るくらいの平和が何よりだなって。
【仮設住宅に響く雨音】
レンタカーを借りて、仮設住宅に住む知人の元へ。
4年前の夏に避難所で知り合った方で、未だに『手紙』でのやりとりが続いている。
仮設住宅は思ったより仮設仮設してて雨音がやたら響いていたけど、本人は元気そうだった。
たくさん話した。よかった。
「日本全国多くのボランティアや支援の方々と知り合った。震災があったからこそ出会えた縁だ。……あってはならないことなんだけれども」
と言っていた。
あの夏、海を眺めて絶望していたその方が前向きに歩いてる姿に涙が出そうになったけど、さすがにそこは堪えて「そうですね」と笑った。
2011年夏、ほぼ4年前に石巻を訪れたときの記事がこちら。
〈石巻市、福祉避難所支援〉
■かぞえうた
■沿岸部にて
■避難所の意味
■恐怖の記憶
■これから
■ふるさと
■理由
■聴くということ
■支援の意味
■プレリュード
■きっといつか
続きは、門脇・女川・河北の話です。
→【門脇、河北】2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ、その3 〜北上川、そして〜
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます