【元気ですか】
子どもを若いうちに産んだほうがいい、とはよく言われた。
子供を産む前、それは妊孕性や出産リスクの問題だけと思っていた。
だが、妊娠や出産もさることながらそれ以上に育児のほうが大部分を占めていることを思い知らされている。
「元気があればなんでもできる」
なんて格言があったけれど、本当にその通りだった。
怪獣もとい2歳児を追いかけまわしていると、元気があれば大体の問題は解決する気がしてくる。
いやそもそも問題が問題にならない。
元気、ねえ。
元気なんてどうやったら出るのかな。
筋トレ?栄養のある食事?気持ちの問題?
元気印の2歳児の寝顔に問いかける。
気持ちよく寝てんなー、なんて思ってると眠たくなってくる。
まあ何はともあれ睡眠よね……
遠ざかる意識の中、
「元気ですかー?!」
と声がする。
あれは30代頭のなんちゃって老化に笑っていた自分か。
それとも20代、一晩くらい寝なくても平気だった頃の私か。
「たぶん元気でーす」
と40代を目前にした私が返事をする。
明日もたぶん息を切らしながら2歳児を追いかけているんだろう。
きっと腰や膝が痛くて、生え際の白髪が気になって、脂っこいものは胃が受け付けないんだろう。
まあそれもまた人生よ、と眠りに落ちていく。
【記憶の波】
運動は出来る方がいい、と母が言った。
「運動得意だったら少なくとも体育の授業や運動会の練習ある日は学校楽しくなるじゃない?」
何気ない母の言葉に思い出したのが、7歳の頃。
体育の授業や運動会が嫌で嫌でホント嫌で、前日の夜から母に泣きついていた小学生の私。
そんな記憶ずっと忘れていたのに、突然映像と音声付きで脳に再生された。
寄せる波のように、こみあげる。
自転車の後ろに子を乗せているとき。
スーパーでミニトマトを選んでいるとき。
熱を出したとき。
渋滞にはまった車中で歌をうたっているとき。
子育ての何気ないワンシーンが、自分の幼少期の記憶を引き寄せる。
それは寄せる波となって、たまに涙腺からこぼれ出る。
この子は私で、私は母。
我が子の向こうに幼い私が透けて見える。
私の後ろに、若かりし日の両親が立っているのが見える。
自分はかつて子であった。
そして今も子である。
記憶の波が温かく語りかけてくる。
この先この子が成長するたびに、何度も何度も記憶の波が押し寄せるんだろう。
そのたびに不思議な温かい感覚に包まれて、少し涙するんだろう。
育児とは面白く、不思議で、とても温かい。
【友へ】
子どもと一緒に行動していると『○○くんのママ』と呼ばれることが多い。
私は私個人ではなく、この子の母親。
○○くんのママ、という属性で呼ばれる。
○○くんを守るための存在なのだ。
それが家族あるいは人生なんだと受け入れてはいるし、それが憧れであったし、今は誇りのひとつでもあるのだけれど。
私はどこに行ってしまったんだろう、とふと思う時がある。
年末、学生時代の友人と数年ぶりに会った。
丸々コロナ禍を挟んだからほぼ5年ぶり。
昔は嫌でも毎日顔合わせてたのにね、と乾杯した。
10代当時のニックネームで呼ばれると、こそばゆいような恥ずかしいような思いが込み上げる。
久しぶりだな、名前で呼ばれるの。
氏名が変わり属性で呼ばれるようになり、あれ私個人はどこ行っちゃったんだろう、とたまに不安に思う時もあるけれど。
私の人生はずっとひとつ、ずっとつながっている。
大丈夫、私はどこにも行かない。
ここにいる。
そのことを思い出したのがなんだか嬉しかった。
「何にやついてんの?」
「うん、みんな元気でまた会えたの嬉しくて」
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