黄落や庭の木椅子の背の温み 西嶋あさ子
まだ「黄落」には早い季節ですが、窓の下の草むらでは虫たちが元気良く鳴いていますし、少し気温は上がりましたが湿度は朝よりも昼過ぎの方が低くなったようです。季語と実際の季節感との相違は創造力で補え・・・ということでしょうか?地球温暖化の進む中、季語を実際にどう使うのかは俳句に親しむ方の共通の課題だと思いますが如何でしょうか?
様々な機会で「現代俳句」というか抽象度の高い俳句にも沢山出会います。言葉・・・というよりも抽象度の高いイメージのぶつかり合い、そこから生み出される新たなイメージ・・・という世界なのだろうと思いますが、如何せん、私の能力をはるかに超えています。アポリネールやアラゴンなどが好きで読みあさっていた学生時代。言葉の持つイメージを無限に拡大していく・・・なんてことには興味がありましたが・・・・・現在の俳句の世界は遙かな高みにまで達するものも多く、句を読んでも、選者の言葉達を聞いても納得できるような言葉が見つからないのが私の情けない限界です。やはり精神的老人だからなのかな?
そうは言いつつも・・・老人的な意見ですが、やはり抽象度の高いイメージのぶつかり合いのためには、俳句は短すぎるような気がします。新しいイメージを生み出すために「読み手の自由」に任せつつ、結局、自分のイメージとの違いに葛藤せざるを得ない。それは読み手に対して無礼だと思うのです。詠い手は自分が見いだした新しい世界の言葉やイメージを伝える責任があると思っています。まだ上手く話すことが出来ませんが、詩人は自分が得た詩的感興を人々に伝えられてこその詩人だと思っています。
なので・・・私は西嶋先生の句が大好きです。